第一話 物事には優先順位がある
「物事には優先順位がある」
それが、ジョルジュ・ヴェルチの口癖だった。
婚約者であるクレア・モンテールは、最初それを分別のある言葉だと思っていた。
何事にも順序をつける。大切なものから手をつける。限られた時間を、無駄にしない。
聞こえはいい。
実際、婚約が決まったばかりの頃のジョルジュは、きちんとした人に見えた。
約束の時間には遅れず、贈り物も常識の範囲で、言葉遣いも穏やかだった。
派手な情熱はないが、誠実な人なのだろうと、クレアは思おうとしていた。
けれど、半年も経つ頃には、その言葉の意味を嫌というほど思い知ることになる。
「すまない、クレア。今日は母上が体調を崩されたらしくて、付き添わなければならないんだ。劇はまた今度で」
その日のために仕立てた淡い青のドレスは、袖を通されないまま衣装箱へ戻された。
翌月。
「すまない、今日は妹のリリーが新しいドレスを見たいと言うから、一緒に店を見て回らないと。君ならわかってくれるだろう?」
クレアは、菓子職人に頼んでおいた木苺のタルトを、侍女たちに分けた。
予約していた茶席は、当日の取り消しで店に迷惑をかけた。
さらに翌月。
その日は、雨だった。
クレアは待ち合わせの温室で、一時間ほど待っていた。
ガラス屋根を打つ雨音が、だんだん細かな針のように耳へ刺さる。
冷えた指先を膝の上で重ねても、手袋の内側まで湿ったように冷たかった。
「昔からソフィの相談に乗ることが多くてね。幼馴染を見捨てるわけにはいかないだろう?」
ジョルジュからの使いが来たのは、温室の係が三度目の茶を淹れ直してくれた後だった。
そして、ある日には。
「イレーヌが体調を崩したと聞いて、様子を見に行ってきた。元とはいえ、放っておけないからな」
元とはいえ。
その言葉を、ジョルジュは当然のように口にした。
クレアはしばらく返事ができなかった。喉の奥に、小さな小骨でも刺さったみたいに声が出ない。
「……イレーヌ様は、あなたの以前の恋人でしたよね」
「ああ。だが、今はそういう関係ではない。だから問題ないだろう?」
「問題があるかどうかを、私が決めてもよろしいのでは?」
ジョルジュは、心底不思議そうに目を瞬いた。
「クレア。物事には優先順位があるんだ」
まただ。
クレアは、その言葉が出る前から、もう胸の奥が冷えていた。
「母上は身体が弱い。リリーはまだ幼い。ソフィは昔から頼ってくるし、イレーヌは今ひとりで心細いはずだ。友人との付き合いだって、男として大事にしなければならない。もちろん、君との時間も大切だよ。だが、君は僕の婚約者だろう?」
「婚約者だから、後回しでよいと?」
「後回しなどと言っていない。君は僕の事情を理解できる女性だと言っているんだ」
ジョルジュは優しく微笑んだ。
きっと、自分がひどいことを言っている自覚はないのだろう。
「君は聡明で、落ち着いていて、わがままを言わない。母上も、クレア嬢は良い妻になると褒めていたよ」
その瞬間、クレアはようやく理解した。
ジョルジュの中で、自分は愛されていないわけではないのかもしれない。
ただ、優先しなくても失われないものだと思われている。
母、妹、幼馴染、女友達、元恋人。
数えてみれば、婚約者であるクレアより優先される人間の方が、よほど多かった。
クレアは笑った。
自分でも驚くほど、静かな笑みだった。
「そうですか」
「ああ。わかってくれて助かるよ」
ジョルジュは安堵したように息をつく。
その顔を見て、クレアは胸の内で、そっと結論を出した。
それなら、私にも優先順位というものがある。
翌朝、クレアは侍女に言った。
「今後、ジョルジュ様との予定が急に空いた場合は、別の予定を入れてちょうだい」
「別の予定、でございますか?」
「ええ。読書でも、散歩でも、観劇でも。何もせず部屋で待つのはやめるわ」
侍女は少し驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげた。
「それがよろしいかと存じます」
クレアは、これまで婚約者のために後回しにしていた時間を、ひとつずつ取り戻すことにした。
元々、読書が好きだった。
幼い頃から、物語の中で遠い国へ行くのが好きだった。誰かの人生を辿り、知らない考えに触れ、時には腹を立て、時には涙を落とす。読み終えた本を閉じる瞬間の、胸に残る静けさが好きだった。
婚約してからは、ジョルジュとの予定を優先するために、月に一度の読書会への参加も控えていた。
いつ誘われてもいいように。いつ呼ばれてもいいように。いつでも、彼の都合に合わせられるように。
けれど、もうやめた。
クレアは、王都の古い図書館で開かれる読書会へ申し込んだ。
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