(8)ため息一つで、世界は変わる
「ふぅ」
ただの、ため息だ。
前世で、深夜の残業中に何度ついたか分からない、あの重苦しいため息。
しかし、今の俺の体内には、無限の魔力と【概念消去】の権能がある。
俺の意思を帯びたわずかな呼気は、絶対的な不可視の防壁となり、迫り来る『爆炎槍』に触れた。
フッ。
ロウソクの火が消えるよりも呆気なく、激昂する炎の塊が、空間から「存在ごと」掻き消えた。
「……は?」
詠唱した魔導師の動きが止まる。
突撃してきていた重騎士たちも、あまりの怪現象に足を絡ませて派手に転倒した。
「な、何をした……!? 俺の第五階梯魔法が、かき消された……!? 結界魔導具か!? どんな呪文を使った!」
「いや、ただの深呼吸です。森の空気が美味しいな、と」
「ふざけるな! 殺せ! 奴を細切れにしろ!」
プライドを傷つけられた魔導師が狂ったように叫ぶ。
騎士たちが再び立ち上がり、殺意を剥き出しにして距離を詰めてくる。
(やれやれ。これ、まともに相手をしたら、また後ろの街まで吹き飛ばしちゃうな)
極小の出力でも森が消える。
なら、攻撃するのではなく、彼らが持っている「悪意」や「戦意」そのものを消去したらどうなるだろう。
俺は迫り来る刃を見据えながら、心の中で【概念消去】の対象を『彼らの筋肉の緊張』と『武器の硬度』に指定した。
「――ふん」
鼻で笑うように、軽く魔力を通す。
カラン、カラン、カラン……。
「え?」
騎士たちが振り下ろそうとした鋼鉄の剣が、まるで熟しすぎたバナナのようにふにゃふにゃに曲がり、地面に落ちて泥の塊へと変わった。
それどころか、騎士たちは全員、体から完全に力が抜けたように、その場にぐにゃりと頽れた。
「あ、あれ……? 力が、入ら……」
「お、俺の剣が……腐った……!?」
「ひっ、化け物……! 呪いか!? どんな高度な無詠唱呪詛だ……!」
魔導師が恐怖に顔を歪め、ガタガタと震えながら後退りする。
彼らにとって、魔法の常識が一切通用しない俺の存在は、神か悪魔そのものに見えているに違いない。
「おい、お前ら。俺はただのFランク冒険者で、薬草をむしりに来ただけだ。これ以上、俺の有給休暇を邪魔するなら……次は、お前らの『存在の概念』を消すけど、どうする?」
俺はできるだけドスの利いた声で、前世のクソ上司の喋り方を真似て脅してみた。
「ひ、ひえぇぇぇぇ!! 覚え、覚えていろ!!」
魔導師は腰を抜かし、這うようにして、動けない騎士たちの襟首を掴んで一目散に逃げ去っていった。




