(4)概念消去
「……はぁ」
絶望の特等席で、俺は深いため息をついた。
別に、英雄になりたいわけじゃない。
目立ちたくもないし、正義の味方を気取るつもりも毛頭ない。
だけど。
(ここでこの街が滅んだら、俺の『働かないスローライフ計画』が初日で破綻するんだよな)
何より、さっき親切に手続きをしてくれた受付嬢のセリアや、お節介にも俺を逃がそうとしてくれているこの人たちが死ぬのは――少し、寝覚めが悪い。
「セリアさん、ちょっと下がっててください」
「え……? ダイス、さん……?」
俺は震えるセリアの肩を優しく叩き、一歩、前へと踏み出した。
周囲の冒険者たちが「何をする気だ!」と叫んでいるが、無視だ。
逃げ惑う人々をかき分け、俺はただ一人、迫り来る巨大な悪魔と対峙する。
悪魔が俺に気づいた。
虫ケラを潰すような、極上の愉悦を孕んだ赤い目が俺を捉える。
「グロロロ……消え失せろ、人間が」
悪魔の口内に、街を跡形もなく消し飛ばすほどの、超高密度の暗黒魔力が集束していく。
そのあまりのプレッシャーに、周囲の空間が歪み、誰もが息をすることすら忘れていた。
だが、俺はただ、右手をすっと前に突き出す。
詠唱? そんな面倒なものはいらない。
魔力の練り上げ? 最初から無限にある。
イメージするのは一つだけ。
あのアホみたいにデカい肉体と、その存在の『概念』そのものを――この世から抹消する。
「【概念消去】」
ボソリと、呟いた。
瞬間、世界の音が消えた。
派手な爆発も、光線もない。
ただ、俺の手の先から放たれた「見えない何か」が、悪魔の巨体に触れた。
「ガ、ア…………?」
悪魔が、自身の体を信じられないといった様子で見下ろした。
口内に集束していた一撃必殺の魔力が、霧のように霧散する。
それだけではない。
悪魔の巨大な腕が、胴体が、頭部が――まるで最初からそこには何も存在しなかったかのように、サラサラとした光の粒子となって、空間ごと消滅していく。
世界の常識を嘲笑う、完全なる一撃。
一秒後。
そこには、ただ綺麗な青空が広がっていた。
大地を揺るがしていた災害級の悪魔は、文字通り、塵一つ残さずこの世から「消去」されていた。
「…………へ?」
誰かの、間抜けな声が響いた。
静寂。
静まり返るなんてレベルじゃない。
街全体が、時間が止まったかのように凍りついていた。
騎士団長が、持っていた剣をガラガラと落とす。
ベテラン冒険者たちが、腰を抜かしたまま白目を剥いている。
セリアは、涙を流した目のまま、口を限界まで開けて硬直していた。
「な、ななな……何が起きたの……!?」
「詠唱は……? 魔法の予兆すら、なかったぞ……!?」
「アバドンが……一瞬で消えた……? 傷を負わせたレベルじゃない、消滅した……!?」
「化け物……いや、神か……!? あいつ、一体何者なんだ……!!」
周囲から湧き上がる、恐怖と、驚愕と、圧倒的な戦慄の視線。
(あ、ヤバい。やりすぎた)
静かに右手を下ろしつつ、俺は冷や汗が止まらなくなっていた。
これ、どう言い訳しても絶対に目立つ。平穏なスローライフが、音を立てて遠ざかっていく気がした。
「……やれやれ。明日から、静かに暮らせるといいんだけどな」
こうして、俺の「目立ちたくない異世界無双ライフ」の、最悪で最高の幕が開いたのだった。




