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翌朝。
と言ってもまだ太陽の昇らない、ようやく東の水平線が薄明るくなってきた午前4時半。
ウインドブレーカーを羽織りギターを担いだ奏介は、フェリーの甲板の上にいた。
結論から言うと、2人は無事に柏の街を脱出することができた。そこから電車を乗り継いで到着した大洗の港では、ぎりぎりその日の最終便になるフェリーに滑り込みで乗船することができた。
後で知った話によると、その日は天候不順のためフェリーの出発が30分遅れていたとのこと。どうやら運はこちら側に向いていたらしい。これで、しばらくは音構の手からは逃れられそうである。
ひとまず、一息つくことはできた。しかし、奏介にとってもこれが初めての船旅。カプセルホテルのような寝台では、なかなかぐっすりと眠ることはできなかった。
しかも、こういう時に限って新曲のアイデアが降ってくる。さらに持ってきた着替えからは、ポケットに入れて忘れたたままだった未完成曲のメモが発掘されたときた。そうなったら、もう夜通しで作詞作曲に没頭するしかない。それがソングライターの習性である。
そして今、仕上がった曲を実際に演奏するべく、奏介は眠い目をこすって甲板に立っている。
正直、海風が予想以上に冷たくてしんどいが、夜中に個室じゃない船内でギターを弾くわけにもいかない。でもすぐに弾いてみたい。頭の中で鳴っている音楽を、今ここで表現してみたい。
最初の音を鳴らす。ギターの煌びやかな音。大きな船体が白波をかき分ける音。海風が甲板を吹き抜けていく音。それから、奏介自身の歌声。全てが、一体となって。
歌っている間に、いろいろなことを思い出した。全て、彼方と出会ってからのことだ。
彼方と出会ってから、楽しかった。ジェロムズを結成して、4人だからこそ見えた世界があった。
でも、ここから先は2人きりだ。それはすごく不安なことで、心細い気持ちで一杯だった。そんな気持ちが、自分の心の8割くらいを支配している気がする。状況が状況だから、この先今まで以上に辛い出来事に遭遇することもあるだろう。
だけど残りの1割程は、逆にそれが楽しみでもあった。彼方と出会わなければこんな大きな旅に出ることなんて、きっとなかったから。
それからもう1割は、使命感。何が何でも彼方を守り抜くという、その覚悟。
だから、この歌は決意表明だ。自分の怖じ気づきそうな心を奮い立たせて、必ず彼方を守り抜くための。これが、第一歩だ。
「奏介」
突然、呼ばれた。思わず押さえるコードを間違える。いつの間にか、横に彼方が立っていた。
「彼方……起きてたんだ」
「眠れなくて」
「ああ、じゃあ俺と同じだ。いつからここにいたの?」
「さっき上がってきた。そしたら、奏介の歌が聞こえた」
「そんな大声で聞こえてた?」
「結構遠くからでも、はっきりと」
そんな大声で歌っていたつもりは奏介にはなかったが。どうやら、気持ちが乗って段々大きくなっていたらしい。屋外で風と波の音がばさばさと賑やかだったせいもあるかもしれない。ただどちらにせよ、いざ余所から指摘されるとちょっと恥ずかしい。
「今の歌、初めて聴いた」
「できたばかりの新曲だから。今日眠れない間に、こそこそと作ってた」
「曲の名前は?」
そこで奏介は、1枚のルーズリーフを彼方に渡した。新曲のメモだ。そこに、仮ではあるがタイトルが書いてある。
「『ぼくら、あすなろ』?」
「そう、それがタイトル」
「あすなろ、って何?」
「元々は木の名前。その木が檜に似てるから『檜のように明日なろう』と言う意味でつけられたんだって。そこから転じて、未来あるものの努力とか成長とか、そういうポジティブな上昇志向の言葉として使われてるみたい。日常会話で使うことはあんまりないけど、それでも俺はいい言葉だなって思う」
「あすなろ……」
それから、彼方はしばらくルーズリーフを見つめたまま、「あすなろ……」と時折寝言のようにつぶやいていた。彼方もこの言葉を気に入ってくれたのかもしれない。
奏介はその隣で『ぼくら、あすなろ』のコードをしばらく繰り返していると。
不意に、空の光が強くなった。
水平線から、徐々に燃え上がる炎みたいに広がっていく、快晴の曙光。海面で砕け散り、散りばめられてさらに輝く。その光だけで、身も心も浄化されそうな気がする。
新しい1日の始まり。そして、奏介と彼方にとっての旅の始まり。
「合宿の時の夜明けも、こんな感じだった」
「そうだな。でも、まだちょっと違う」
奏介は、ズボンのポケットに手を伸ばす。そこには、常に肌身離さず持ち歩いていた、カッターナイフ。
きりきりと刃を出して、顔を出したばかりの朝日にかざした。鈍色の刃が、光を吸い取ってぎらぎらしている。
「奏介?」
その様子に気づいた彼方が怪訝な表情を浮かべる。しかし奏介は意に介さず、そのカッターの刃で。
切った。
すっかり伸びきっていた、自分の前髪を。
一気に視界が開けた。空と海が眩しかった。
いい景色だ。
「これで、屋上の時と同じだ。同じ景色が見える」
手元に残った前髪を、海風に委ねる。強い風にはらはらと舞い上がり、海の向こうに消えていった。
「前髪短いほうが、似合ってる」
「あ……ありがとう」
控えめな感謝の言葉。だけど、本当は心が躍りそうなくらい嬉しかったことは、本人の前では決して言えない。
だからせめて、その思いは音楽で。
ギターを鳴らす。その音は、爽やかな始まりの朝によく似合う。
「歌おう、彼方」
「うん」
そして、2人の歌声は北の大地へと繋がる海原に、高らかに響いた。




