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音楽で世界を平和にする。
この一言では、まるで音楽家の夢物語のように聞こえるだろう。
しかし、これは近い将来に実現可能な目標であると、私は断言する。
当然、精神論や哲学論の話ではない。極めて科学的に解決できる課題だということを、私はこの論文をもって証明していきたい。
2015年、このような書き出しで綴られた1本の論文が日本の脳理化学研究所より発表された。
筆頭筆者の名は高倉正臣。当時、研究所内において最も将来を嘱望されていた新鋭の研究員だった。
とはいえ、世界的にはもちろん、国内で見てもまだまだ無名な一介の若手研究員。その実績の少なさと、あまりにも飛躍した荒唐無稽なテーマでは、周囲から支持を受けるはずがなかった。
世界中の研究者の誰もが、この理論を実証できるとは思わなかったのだ。
彼ら、高倉率いる研究チームを除いては。
2020年8月初旬。
「もしもし、ああ俺だ。これから出発する」
政情不安で延期されつつも、東京オリンピックの8月開催が決定された。その影響もあり周囲が活気づく羽田空港にて。
「ああそうかいそうかい。お前も随分と偉くなったもんだなぁ高倉ぁ」
2階出発ロビー。外の滑走路を眺めるベンチに河合は座っていた。携帯で高倉という人物と何やら話をしているらしい。グレーのスーツにオールバック。銀縁のメガネ。傍らには黒のスーツケース。相変わらず、隙のない装い。
しかし、今日の河合はそれだけではなかった。
「じゃあこっちからも言わせてもらうがな、お前が施設のセキュリティ予算をケチらなかったらこんなことにはならなかったんだよ!」
携帯に、ドスの利いた声が吠える。
「お前は予算さえがっちり確保しておきゃよかったんだ! そうしてくれりゃ俺のコネクションでいくらでもやりようがあっただろうが!」
奏介と対面したときの、物腰の柔らかさは微塵もない。あの態度が外面だったということがよくわかる。今の河合は、完全にヤクザのそれである。近くに座っていたサラリーマン風の男が、ただならぬ気配を察して別の席へと移動した。それでも河合は気にしない。
「すいませんで済むならなぁ、警察はいらねぇんだよ高倉ぁ。……帰って来たら覚えてろよ」
河合は乱暴に携帯の通話を切った。
「タバコが足りねえ……」
独り言をつぶやいて、河合は喫煙所に移動する。最近、一気にタバコを吸う量が増えた。それもこれも、全部あのクソガキ共のせいだ。先月から頑張っていた禁煙も、ここまで築き上げたMiXの成果も、全て水の泡だ。
喫煙所にたどり着くとすぐに、胸ポケットからタバコを取り出してジッポライターで火をつける。タバコを吸っている人は、河合以外には誰もいない。偶然か、それとも周囲が河合を避けているのかはわからない。しかし、河合本人にはどうでもいいことだった。
タバコをふかして、ゆらゆらと漂う白煙を見つめる。
遠野彼方が行方をくらませてから、1週間が経った。
最初は、彼らを侮っていた。彼方を連れ出す計画を一介の高校生が企んでいたこと。岸田ジェロムが世界的ハッカーと内通していたこと。彼方を逃がしたその日のうちに市内や県内どころか本州を脱出していたこと。全てが想定外だった。
それからの河合は、ただ遠野彼方の行方を突き止めることに注力した。コネを総動員して、全国の警察に捜索の協力を取り付けた。できれば自衛隊にもお願いしたかった。ところが、現在日本海側の緊張状態が高まっているため、全面的な協力は難しいとのこと。防衛省方面のパイプが少なかったのが悔やまれるが、そこは仕方がない。
しかし、手がかりは集まりつつある。特に有力だったのが、ある音構職員が柏市内の聞き込みで得た、とあるタクシードライバーからの証言だ。
「柏陽高校前の交差点で、男女の高校生を2人拾いました」
その人は寡黙ながら、当時の状況をよく覚えており丁寧に話してくれたという。
彼いわく、その2人は取手駅までタクシーで向かい、大洗からフェリーで北海道まで向かう話をしていたとのことだった。さらに、彼には気がかりなところがあったらしい。
「友達が雨の中、外にいることに気づいたみたいです。最初は車から出て会おうとしていたみたいですが、結局『そのまま出してください』と」
この運転手の証言を元に推理していくと、おそらく2人の共通の友人として考えられるのは同じ軽音部の渡部梨音だ。そして、この証言が正しければ遠野彼方と多田奏介は逃走後、渡部梨音と接触することはなかった。そして、2人はそのまま北海道へと向かった、ということになる。
この証言を踏まえ、当初は渡部梨音の身柄を確保し利用するという強硬案もあった。しかし、河合がそれを却下した。民間人、ましてや未成年を関与させるのは、重大な責任問題になりかねない。実際問題として、すでに不可抗力とはいえ一般人の高校生を巻き込んでいる状況(家族への事情説明は、別の職員が説得に向かい上手く事を収めたらしい)である。これ以上下手な手は打てない。
放送が聞こえた。搭乗開始のアナウンス。
「くそったれ……」
河合は短くなったタバコを吸い殻入れに捻りつぶしてねじ込んだ。
「きっちり落とし前をつけてもらうぞ、クソガキ」
そして、河合は新千歳空港行きの飛行機に乗り込んだ。




