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少し長い話になる。
遠野彼方が自らの歌を発信するようになった最初は、2015年。当時の彼方は、家族や社会と折り合いをつけられず、自分の世界に閉じこもった引きこもりの無力な少女だった。
そんな彼方が、ある有名動画サイトに作品を投稿する。某キャラクターボーカル合成ソフトによる楽曲のカバー。いわゆる「歌ってみた」である。そこから、彼女の運命が大きく変わった。
ネットの海に投下されたその歌声は、瞬く間に評価され、電子の波に乗って爆発的に広がった。最初の動画は投稿から1ヶ月経たずに100万再生を突破。それから矢継ぎ早に投稿した第2、第3の歌ってみた動画も次々とミリオンを記録。まさに彼方は歌い手として飛ぶ鳥を落とす勢いを持っていた。
そんな時、人気とはいえまだアマチュアだった彼方に2人の男が接触を図る。その男達とは、1人が音構の現所長、高倉正臣。そしてもう1人が河合だった。
――あなたの歌声は、世界を救うことができます。
河合から伝えられた言葉は、当時の彼方にとって、魔法のような言葉だった。
彼いわく「あなたの歌声は人間の脳神経に作用し、安らぎを与え、興奮を抑制する効果が突出しています」という。さらに、「その効果を上手く利用すれば犯罪の減少、ひいては世界中の戦争の抑止にまで活用できます」という。
彼方の胸は高鳴った。自分の歌が、世の中の役に立つ。歌い手として、これ以上嬉しいことはない。
2人の壮大な計画に、彼方は協力することにした。歌声の全てを、彼らの研究に捧げた。レコーディングされた歌声は、彼らの研究チームによりこれまでの実験データを基にして最大限まで加工。それから間もなく、彼方の歌は謎の歌姫『MiX』として彼らの研究機関、つまり現在の世界音楽研究機構から発表された。
程なくして、MiXの音楽は世界中を駆け巡る。大々的なPRとネット配信による波及効果は、個人で歌を投稿した時の比ではなかった。
そして、音構の研究成果は、2016年に入ってから目に見える結果として現れるようになる。右肩上がりで拡大していく世界的なMiX人気と歩調を合わせるかのように、世界各国の紛争や政変が鎮静化されていった。例えば、中東ではISの解体。東欧ではウクライナ内戦の和睦。イギリスでは国民投票によりEU離脱が回避され、アメリカでは史上初の女性大統領の誕生。この年だけで世界終末時計の針が5分巻き戻った。
自分の歌が世界を救う。それを肌で実感した。まるで、神様にでもなったような気分。
それから彼方は味わった全能感を原動力に、彼らから与えられた楽曲を休む間も惜しんで歌い続けた。それはMiXの新曲として、新たに発足された「音構」こと「世界音楽研究機構」を通じて世界中に発信された。彼女が音構に住み込むようになったのもこの頃だ。そして2018年。MiXはほぼ世界中の音楽シーンを支配するまでに至る。
しかしこの絶頂期を境に、MiXの音楽にいくつかの課題が浮き彫りとなった。
最初のきっかけは、彼方のスランプ。2019年に入ってから、プロデューサーである河合の指示通りに歌えなくなった。連日のようにレコーディングを行っていたことが、知らず知らずのうちに彼方の心身に大きな負担をかけていたらしい。
そこで、音構は彼方のレコーディングを一時休止することにした。当時、彼方は年齢的に高校入学のタイミング。だから研究所から近い高校に編入することになった。そして決まった編入先こそが、柏陽高校。奏介達の通う高校だ。ずっと通信教育のみだった彼方に普通の高校生活を送ってもらうことで、リフレッシュや歌手としての成長を期待していたらしい。
ところが、音構側の目論見は外れた。原因としては、まず彼方自身が積極的にクラスメイトと関わらなかった、ということが1つ。そしてもう1つはMiXの音楽から致命的な3つの欠陥が発見されたことだった。
では、3つの欠陥とは何か?
①MiXの新曲を聴かないと、ファンになったリスナーは禁断症状を起こし興奮状態が増幅される。
②禁断症状の間隔は、徐々に短くなる。
③既存曲は、聴き飽きてしまうと効き目がなくなってしまう。
以上の欠陥がMiXのデビュー前に見つかっていれば、いくらでも手の打ちようがあったのかもしれない。だがその時、全世界の数十億人がすでにMiXの虜となっていた。撤退するには、あまりにも遅すぎた。
そこで、音構は過去の彼方の音声データを基に、人工的な歌声を作って新曲にすることを試みた。ところが当初の予想よりも大きな改善は見込めず、やはり現在の技術では彼方の生歌でないと効果が見られないようだった。
音構は急遽学校を休学扱いにし、半ば強引に彼方を復帰させる決定を下す。現来、彼方は真面目な性格だ。研究チームと目的も共有している。それに当時の彼方は学校生活に馴染んでいなかった。だから、彼方は決定に従いすぐに新曲のレコーディングを再開。再びヒットチャートを賑わせることになる。
それから数ヶ月の間、MiXは勢いを持ち直したかのように見えた。しかし彼女のスランプとモチベーションの向上は根本的に解決したわけではなく、歌声の質は明らかに落ちていた。一方でその間にも聴衆の禁断症状は目に見えて短く、激しいものになっていく。
自分の音楽は世界を救えなかった。
それどころか、後戻りできないほどに世界を狂わせてしまった。
彼方はこの惨状について、河合に訴えたこともある。これ以上世界がおかしくなるなら、もう歌いたくないと。だが、河合の返答はあっさりしたものだった。
――簡単なことです。つまりはあなたが歌い続ければ、世界は幸せなのです。少なくとも、あなたの歌声に頼らない手が打てるまでは、あなたの歌が必要です。
そして、河合はこう締めた。
――世界の命運は、あなたの歌にかかっています。
つまり彼方が歌うことをやめたら、世界は崩壊する。そうなったら他の手だてはない。
彼方は遅蒔きながら気づいた。いつの間にか彼方の背中には、巨大な十字架が背負わされていたことに。もはやMiXの音楽は、完全に麻薬だった。
必然的に、彼方は音楽が嫌いになっていった。それでも、彼方は歌うしかなかった。ボロボロな歌のままで、世界を救うために。
八方塞がりな状況で迎えた2020年。打開策として焼け石に水ではあるが、音構は再び彼方を学校に通わせることにした。初めは柏陽とは別の学校へ編入させる、という案もあったが、彼方はそれを拒否した。別に、柏陽高校に特別な思い入れがあったわけではない。むしろ学校での思い出は希薄だ。
それでも彼方が柏陽にこだわったのは、大堀川の桜並木があったからだ。
去年、たまたま通学中に見かけた河川敷の桜並木。それが淡泊だった学校生活の中で唯一、鮮やかな色彩のある記憶として彼方の脳裏に焼き付いていた。
だから、彼方は桜並木を眺めながら学校をさぼり倒そうと考えていた。そして、できることなら桜並木の下で歌ってみたいと思った。
4月、彼方はその計画を実行に移す。
そこで出会ったのが、他でもない多田奏介だった。
この遭遇から、奏介の説得により通うつもりのなかった学校に通い、軽音部に入り、オーディションライブに合格。そこから初めての合宿を経験し、音楽フェス・柏ミュージックサンのステージにも立った。
彼方にとってこれまでにないくらいの、充実した日々。流れるように過ぎていった2ヶ月。だからこそ、彼方は歌うことの喜びを思い出すことができた。しかし、皮肉にもそれが楽しかった日常の終焉を早める結果になってしまった。
どこから情報を入手したのかはわからない。ミューサンのステージに立った当日、河合は彼方のステージを見に来ていた。そして、そのパフォーマンスを目の当たりにした河合は、その場ですぐに彼方をMiXとして復帰させることを決断したという。
ライブの翌日。彼方は朝一で河合から事務的な通告を受けた。
心身の回復が認められた。今後は学校を退学し、本業に専念するように。
高校退学の手続きは、早急に行われた。そこに、彼方の意志が反映される余地はない。それでも彼方は何度も抗議した。反論されてもしつこく食い下がった。だが、決定が覆ることはとうとうなかった。これこそが、彼方がライブの翌日から姿を見せなくなった原因だった。
それから、彼方は再びMiXとして歌っている。ただ求められるがままに、機械仕掛けの歌を吐き出し続けるだけの存在に成り下がって。
それが、これまでMiXとして歌い続けた、遠野彼方の口から語られた全てだった。
そして、その後で彼方はこう付け加えた。
「私は、ジェロムズに戻ることはできない」




