17
翌日。
梨音と約束していた打ち合わせは延期してもらった。理由は夏風邪ということにして、朝一で連絡した。
『エアコンにやられた? ちゃんとマスクして布団で横になって安静にしてなよ! お大事にー』
現在午後1時。奏介は布団で横になってはいるが、エアコンは全力で稼働中だし当然マスクだってしていない。梨音から返ってきたメッセージを見て、のしかかる罪悪感。次に会うときにはちゃんと謝っておこう。今日のことと、バンドのこと。
バンドのこと。
「バンドか……」
奏介の独り言が、エアコンの風に吹かれてあっさり消えていく。
結局、河合の提案に乗るか否か、奏介はまだ決断できずにいた。
また、彼方と一緒に音楽ができる。
本当だとしたら、これ以上嬉しいことはない。
しかし、そこには間違いなく河合が1枚噛んでくることになる。あの男は信用できない。というよりも、怖ろしい。もし彼の言葉を鵜呑みにしたら、後に大きな代償を支払わされることになる気がする。それくらいのことは、本能的な肌感覚でわかる。
それならば、梨音と自由に音楽を続けていく。彼方のことは、もう忘れる。そっちの選択肢のほうが、ずっと低リスクで現実的だ。
それなのに。
全く踏ん切りがつかない、この気持ちは何なんだ。
脳裏で彼方が微笑んでいる。決して消えない、彼方の残像。
「ああもう……!」
頭をかきむしって、乱暴に寝返りを打つ。
すると、腕が何かに当たった。時間差で、ばさばさと本や紙の束が崩れ落ちる音。
「あ、やべ……」
雑なタワーの形を成していた書類や本が、一瞬にして床一面に散らばった。「はあぁぁぁ……」と大きなため息をついた奏介は緩慢な動作で起き上がり、もそもそと回収に取りかかる。
すると、その中に紛れていたあるものに、奏介の目が留まった。端っこがしわしわになって、少しばかり日焼けしていた1枚のルーズリーフ。そこに書かれていたのは、コードの羅列と歌詞の断片らしきキーワードの箇条書き。
筆跡を見るに、奏介が書いたもので間違いはない。ただ、いつ頃書いたのか、はっきりとした時期は思い出せない。もしかしたら、途中で没にしたものかもしれない。
箇条書きの単語に目を通す。
道の途中。激しい雨。選ぶ未来。長い道のり。旅立ち。
作ろうとしていた曲の輪郭と、その当時の記憶。少しずつ、おぼろげながら見えてきたような気がする。
その中で、特に引っかかったキーワードがあった。
「あすなろ……」
奏介は脳内の記憶を伝っていく。霧ががった遠い記憶の、さらにもう一歩奥へ。
確か、偶然ネットか本で見つけた言葉で元々は木の名前だが、転じて「檜のように明日なろう」とか、そんな意味があったような気がする。一時期、その言葉をやけに気に入っていたんだ。それでもいつしか記憶の波に呑まれて忘れられて、久しぶりに引き上げられた「あすなろ」という言葉の響き。随分と懐かしく感じられた。
自分は立派な檜になれるだろうか。今はまだ、わからない。
と、唐突に呼び鈴が鳴った。誰かが我が家に用らしい。回覧版だろうか。どのみち家には現状1人きりなので、奏介が出るしかない。
「はーい」
片づけかけの部屋はそのままに、奏介は2階の部屋から玄関へ下りた。手に持ったままだったあすなろのルーズリーフは適当に折ってポケットに突っ込み、玄関のドアを空けると。
圧倒的な、しかし馴染みのある威圧感がそこにあった。
「ハロー。久しぶりだな、奏介」
「…………部長!?」
あまりにも唐突なジェロムのカムバックに、思考が追いつかず呆然とする奏介。しかし、当のジェロムは奏介の驚愕を気にする様子もなく。
「来て早々悪いが、トイレを貸してくれ」
「……は?」
「トイレだ。もう漏れそうなんだ俺は」
「……はあ」
状況が飲み込めないまま、奏介は2階にあるトイレを案内する。ジェロムの踏む階段が重みで軋む。
しかし、2階に上がった時点で、ふと奏介は何か予感めいたものを感じ取った。
本当に、ジェロムはトイレが目的なんだろうか。
何か、裏があるんじゃないか。
結論から言うと、奏介の読みは正解だった。
しかし、気づくのがちょっと遅かった。
トイレの前まで来た奏介は抵抗する間もなく、ジェロムにトイレの中へと力づくで連れ込まれた。




