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足がふわふわと漂っているような。
しばらく、梨音からそんな感覚が離れなかった。
駅のあたりまで走った後は、しばらく雑踏の中をクラゲのように漂っていた。奏介とはぐれないようにずっと手を繋ぎながら、駅前のドンキとかマルイとかツタヤとかをさまよい歩いた。特に買いたいものはない。ただ、動き回っていなければそのまま倒れてしまいそうな気がした。
口数は少なかった。隣を歩く奏介は、明るく振る舞おうとしてもどこか錆びついた表情をしていた。そりゃそうだ。いくら悪化した治安に慣れたからと言って、あの事件の後ですぐへらへらできるほど狂ってはいない。自分だって明るく振る舞おうとしていたが、絶対ぎこちない笑顔だったに決まっている。ほんの一突きで崩れ落ちてしまいそうなくらい、梨音のメンタルは不安定に揺らいでいた。
会場の東口駅前にたどり着いたのは、開演10分前。マルイの建物を抜けて外の階段を上がる。ダブルデッキの2階では、すでに準備を始めている冬馬と夏樹の姿が見えた。
先に2人の姿に気づいたのは夏樹だった。晴れ晴れとした笑顔で大きく手を振っている。その後で、それに気づいた冬馬もやや控えめに手を振った。
「おーい!」
2人を温かく迎える夏樹の声が、梨音の耳に届いた。
ほんの一突き。
フラッシュバック。
ぴりぴりする人混み。我が物顔で闊歩するデモ行進。散乱するゴミ。もみ合う通行人。緊急車両のサイレン。ゲームセンター。ヘルメット。鉄パイプ。ガラス片。
壊された、カシワニのクレーンゲーム。
梨音の中で張りつめていたものが、ぷつりと切れた。
奏介から自然と手が離れ、梨音は夏樹へと走り寄る。
「おい、梨音……?」
そして、梨音は夏樹に抱きついた。
「うわぁ、梨音ちゃんどうしたの!?」
「……怖かった」
大好きな柏の街が、おかしな方向に変わっていくこと。
安心できる場所がなくなっていくこと。
目の前で、大切な思い出が壊されたこと。
全てが、怖かった。
その恐怖が今になって迫ってきて、逃げ込んだ先が夏樹だった。
カフェライナーが。冬馬が。夏樹が。梨音にとっての最終防衛線だった。
「もしかして、さっき聞いたゲーセン荒らしの事件……あそこにいたのか?」
冬馬の鋭い察しに、梨音は黙ってうなずく。
「無事でよかった……奏介も、ケガはないか?」
「俺も無事です」
後から来た奏介が、冷静に答える。
続いて、梨音がかすかに震える言葉を吐いた。
「ほんと何かおかしいよ、最近」
ずっと思っていたこと。だけど言葉にできなくて、梨音の中だけでくすぶり続けていたこと。
「なんでみんな変わっちゃうの? なんで傷つけあってるの? なんで彼方がいなくなっちゃうの? もう嫌だ、あたし……どうしていいかわかんない……」
ジェロムズで、4人でライブをした日のことが、遙か遠い昔の出来事に感じられる。あの時の、キラキラと眩しいほどに光り輝いていた日々は消え去ってしまった。1ミリの残滓さえもなくなって、目の前には途方もない暗闇ばかりが広がっているような感覚。
だけど、その中ではっきりと見える灯火があった。
「大丈夫」
夏樹が言った。
「変わらないものも、ちゃんとここにあるから」
梨音の、一回り高いところにある頭を撫でる。夏樹の方が小柄なのに、いつもと変わらない優しさが大きく梨音を包み込んでいた。
「それじゃ……梨音ちゃんに元気になってもらうためにも、気合い入れて歌わないとね、冬馬!」
「言われなくても、そのつもりだ」
普段通りな2人のやり取り。ボロボロになっていた梨音と奏介にも笑顔が戻り始める。
「じゃ、準備もできてるし、ぼちぼち始めようか!」
「OK。Seasonsです、どうぞよろしく」
特に力の入ったMCもなく、ふわっとした流れで始まる音楽。
街には聞きたくない音があふれている。近くには携帯電話越しに口論しているサラリーマンがいる。道端でたむろし、煙草を吸っている高校生がいる。店の外で店員に怒鳴り散らすクレーマーがいる。さらに遠くには鳴りやまない車の爆音。パトカーのサイレン。デモ行進。
だけど、2人の音楽がかき消されることはない。Seasonsの音楽はそれらの雑音を軽く飛び越えて、奏介と梨音のぽっかり空いた心を満たしていく。さらに広がって、道行く人々に少しの笑顔と癒しを与えてくれる。
そして、梨音にある気持ちが沸々と湧き起こった。それは、久しぶりに梨音の内側から突き動かす衝動。
梨音の闇の中で見つけた光は、いつしか眩しいくらいに辺りを照らしていた。
――あたしも、音楽を演りたい。




