18
朝が近づきつつある屋上の空気は、思いの外ひんやりとしていた。屋上のドア、眠そうに蝶番が軋んで重く閉ざされる。
それでも初夏の香りが強く残る、青々とした空気の匂い。その中心、冷たいコンクリートの上で凛と立つ彼方。それで、奏介は彼方と出会った時の情景を思い出す。
桜吹雪の真ん中で立つ彼女には、唯一無二の美しさと神々しさがあった。そして、今ここにいる彼方にも、あの時と同じような神秘性を奏介は感じていた。
夜風に揺れる長い髪。ハーフパンツからすらっと伸びる細い脚。シャツの上から羽織った灰色のパーカー。空の色に照らされる白い肌。そして、彼方の全身と一体化したアコースティックギター。
やっぱり、彼方は歌姫としてステージに立ち続けるべき存在だ。今、世界は彼方を中心に回っている。きっと、ジェロムが言いたかったことは、こういうことだ。彼方をギターボーカルにしたいというジェロムの思いが、今では手に取るようにわかる。100%に限りなく近く、共感できる。
「奏介に、ギターを教えてほしい」
「ここで?」
「そう、時間がないから」
だから、奏介はここで素直に従うべきだ。彼方の提案に何の異論も挟まず乗るべきなのだ。
「私、明日までに、弾けるようにならないと」
今日の屋上に上がって初めて、彼方の表情を見た。
何かに、追いつめられた表情。
羽ばたかせていたはずの自由の翼は、鳥かごの中に閉じこめられていた。
――だから、奏介は彼方の提案には乗らなかった。
「その必要はないよ」
奏介が切り出した言葉に、彼方は目を丸くする。
「どうして?」
「彼方は、俺が軽音部の入部を説得した日のこと、覚えてる? そのとき俺が言ったこと、覚えてる?」
彼方は何も言わない。でも、はっきりと奏介は覚えている。
『もし遠野さんが入ったら、それは楽しんでくれなきゃいけないんだよ』
ぎこちなく、だけど自分なりに彼方へ伝えた言葉があった。
『要するに、俺らが楽しくて、でも遠野さんにだって楽しんでほしくて。無理矢理じゃなくて、自然と、そう自然に楽しんでもらえるようになってほしくて――』
今思い返すと、あまりの固さとテンパりっぷりに少し恥ずかしくなる。でも、我ながらよくぞ言ったと思う。
ライブでの成功は、大事だ。しかしそれ以上に、彼方にとって大事なことがある。
「俺は彼方にもう一度、音楽の楽しさを思い出してほしい。そのことが、一番大事。それは彼方を軽音部に誘ったあの時から変わらない」
でも、今の彼方はどうだろう。
本当に、心の底から、音楽を楽しんでいるだろうか。
「夜にみんなでPVを撮っただろ。屋上で歌った『ナイトフライト・フリーバード』。あれ、楽しかっただろ?」
彼方は黙ってこくり、とうなずく。
「俺、あれがいいって思った。屋上で歌ってる時の彼方が、何にも囚われてなくて、彼方自身が心から音楽を楽しんでるんだな、って。そういうのが見ててわかった。見てるこっちがワクワクした。まさしく歌に出てくる大空を羽ばたく鳥、そのもののような気がしたんだ」
屋上で歌う彼方を思い出す。
あの時の記憶に残る彼方は、全てが笑顔だった。
「ギターを練習してる彼方は、どこか苦しそうだった。まるで何かに迫られて、無理矢理弾かされているようだった。彼方の努力する姿は格好よかったし見習いたい。部長の期待に応えたい気持ちもわかる。でも、ジェロムズに……彼方にそういう息苦しさはいらないと思う」
その笑顔を、笑顔で紡ぐ歌を、奏介はもう一度見たかった。
「だから、彼方はただ自由に、自分が楽しいと思うように歌えばいい。歌うだけでいい。ギターは俺が、彼方の分まで全力で弾くから」
すると、彼方は何も言わず完全にそっぽを向いてしまった。180度の回れ右。明るくなってきた朝焼けの方角へ。
もしかして、何か気に入らないことを言ってしまっただろうか。そんな不安が、奏介の脳裏をよぎる。
「あ、ごめん! もし何か不快に思うことを言ってたら謝るし、本当にギターもやりたいならその気持ちは尊重するつもりだし……」
「違う」
彼方の一言が、浮ついた奏介の言葉を打ち消した。
「不快に、思うわけない」
「え……?」
「嬉しかった。今まで、ただ求められたものを歌うことばかり押しつけられて。自分が楽しく歌うなんてこと、できなかったから」
そして、彼女は振り返る。
泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
「私、ジェロムズの……奏介の隣で歌うのが楽しい。隣で奏介がギターを弾いてくれるなら、私は全力で、心のままに歌える」
彼方は涙を拭って、肩に掛けていたギターを外す。それから、奏介の前に突き出した。
「ギターは任せる。だから私は、自分の歌いたいように歌う」
「ああ……任された」
彼方が見せた涙に驚きつつも、奏介の声は決意に満ちていた。いや、決意はもうできていた。一緒に彼方とステージに立った、あの時から。
「ありがとう、奏介」
そして、奏介はタスキを受け継ぐように、彼方からギターを受け取った。肩に掛け、早速鳴らすリフ。こうなったら、やることは1つ。
「歌おう、彼方。歌う曲は何でもいいよ」
「何でもいいの?」
「あ、でも俺の弾ける曲でよろしく」
何となく締まらないやりとりに、彼方はクスリと笑った。いつの間にか、彼方は自然と笑顔を見せるようになっていた。そんな彼方の笑顔を、ずっと守っていきたい。自分の音楽ならば、それができるかもしれない。
「それじゃあ、あれ弾ける?」
「あれ?」
「真っ赤な空を見ただろうか」
「それ、いいね」
もう14年も前の曲だけど、言わずと知れたバンプオブチキンの名曲。発表当初はカップリング曲だったらしいが、現在では奏介達の世代まで浸透し、未だにカラオケやネットで、あるいはコピーバンドの定番曲として歌い継がれている。奏介自身もこの歌は好きだし、素直にいい曲だと思う。
「でも、あれって夕焼けの歌だよね?」
「あっちの空も赤くなってきたから、大丈夫」
彼方が見つめ、指さす方角。同じ方向を見上げると、東から真っ赤な空が迫っている。夜が、明ける。
ひらめいた。
「じゃあ、歌詞変えて歌おうか?」
「どんな風に?」
「『夕焼け』を『朝焼け』に」
「それ、いいね」
奏介と彼方は、顔を見合わせて笑った。まるで、悪巧みを思いついた共犯者のように。
そして、奏介は朝焼けに向かってカポをつけたギターを鳴らす。G→D→C→Gと軽快に進むコード進行。朝と夜の境界線で、空気が震える。その音色は、地平線のカナタまで。
そこに、彼方の歌が交わる。ふわっと優しく、煌びやかなギターの音色を包み込むように。
奏介のギターと、彼方の歌。屋上を流れる空気に溶け合って、徐々に2つは収束して1つになる。心地よい一体感が、全身を包む。
いつの間にか、奏介自身も歌詞を口ずさんでいた。もうこれ以上何もいらないと思う。彼方の歌があって、自分のギターがあって、2人で奏でる音楽がある。それだけで今は十分だと思う。これは誰かに聴かせる歌じゃない。2人のためだけの歌だ。
やがて、音楽はクライマックスに突入する。そのタイミングを見計らうかのように、空が一層明るくなった。夜明けが来た。まるで炎が燃え広がるように、真っ赤な空が2人の頭上に。そして真正面には、目を覚ました太陽が、赤く、神々しく輝いている。
彼方の歌に熱がこもっていくのがわかる。奏介のギターにも力が入る。ちらりと彼方を見る。太陽にも負けず、輝いている。
そうだ、その顔だ。音楽を心の底から楽しんでいる、今の彼方が見たくてギターを掻き鳴らしているんだ。ここに立っているんだ。
ずっと、こうしていたい。彼方の歌に寄り添って、ギターを弾いていたい。だけど、終わりはあっという間に訪れる。
ラスト1フレーズ。奏介は力の限り、ピックを持つ手に魂を込めた。
「——っ!!」
最後、奏介は声にならない声で短く叫んだ。それから大きく深呼吸。額と掌に汗がにじんでいた。
ピックが指先から落ちる。終わり。余韻。達成感。生まれたばかりの朝日が、2人だけを照らしている。
2人で見た真っ赤な空。
ああ、なんていい景色だ。




