⑰ランナウェイ
終わらなかった…。
『お前、こんな所まで来ちまって、程ほどで満足しとけば良かったのにナア。もう取り返し付かないゾォ?まあ、でも俺には関係ないけどサア』
そこは地獄だった。
ここに来てから一体どれ位の月日が経ったのか、もう覚えていない。
繰り返される暴力に怯える毎日。
『大丈夫、お前には素質があるから』
いやだ!そんな素質、要らない!欲しくない!
『おい、やれ』
嫌だ!離せ!お願い離してっ!痛い、痛い、痛いっ!
『やめっ!いやあああああぁぁっっ!!!』
先ずは人間としての人格を徹底的に貶められた。
衣類を剥ぎ取られ、裸で生活することを強要され、物を食べるときに手を使ってはいけない。言葉を喋ってもいけない。排泄は当然のことながら人前でする。そしてそれは必ず申告しなければならず、何が楽しいのか奴らはその画を動画で録った。その先その動画がどこでどんな需要を得るのかは考えない方が俺の身のためだ。
常に絶対服従を強いられ、ここで決められたルールに反したり、少しでも抵抗したりすれば容赦のない鉄拳制裁が飛んでくる。
それだけじゃない。怪しい器具を体中に着けられて、見せしめの為の引き回しの刑。…そう、此処には俺と同じように訳も分からず連れて来られて調教されている奴らが他にも何人もいた。
そして、おそらくここは非合法に営業している秘密クラブか何かと裏で繋がっているのだ。
ここの造りがどうなっているのかまだ分からないが、時に引き回しの刑はヒンヤリと冷たい長通路を歩かされた後、ショータイム中のステージ上にまで及んだ。
その眩しいスポットライトの下で、俺は衆人環視のもと自らが不能ではないことを証明して見せなければならなかった。達しなければ許してもらえない。
何たる屈辱。
滲む視界の向こうには普通のスーツ姿のおっさんがいて、あっちとこっちで完全に線引きされ隔絶された世界と、今いる自分の立場とをまざまざと思い知らされた気がした。
その時不意に、出所した日飲み屋で元友達に言われた言葉が脳裏に甦った。
―――『可哀そうに、誰か教えてやれよ。アキちゃんに、自分の立場ってやつをサア……』
その晩は悔しくて、情けなくて、俺は一晩中、枕を涙で濡らした。
そして、その後も調教と称した行為はエスカレートの一途を辿り、あのステージ上での行為にも慣れつつあったある日。俺は、ここにいたら駄目になる、とついに此処から逃げ出す覚悟を決めた。
「こいつも最近はすっかり大人しくなったナア」
俺は男たちの暴力に屈し、大人しくなった振りをして支配者たちの油断を誘い、その機会を待った。
そして、ついに好機は訪れる。
(―――今だっ!)
監視の目が離れた隙を突き、俺はリネン回収用のラウンドリーワゴンの中に体を滑り込ませた。そして上から汚れ物を被る。
息を潜めて待つこと暫し。
近くで話し声がし、暫くすると何事も無かったかのように俺を乗せたワゴンはゆっくりと動き出した。やった!その動きに反比例して俺の心臓は早鐘を打つ。
(よし!…よし!…よしっ!)
早く!…早くっ!…早くしろっ!!
俺は鼻の穴を大きく膨らませ、目を充血させながら、頼むから見つかってくれるなよ、と神に祈りを捧げる。
そして、ついにワゴンはがこんと大きな音と振動を立てた後、その動きを止めた。
周囲は暗くなり、しんとした静けさに包まれる。ガチャンと扉が閉まる音がしてからきっちり30数えた後、俺はようやくそろりと頭を上げた。
そこはリネン室らしかった。
他に人のいる気配がない事を確認した俺はそこで病衣のようなガウンを調達し、裸の上から羽織る。
足音を忍ばせ、部屋からこっそりと抜け出した俺は左右を確認し、廊下を左へと向かって駆け出した。それは店に向かうときに記憶していた景色と廊下の傾斜具合、あとは勘で判断した事だ。
(―――確かリネン室は左側で、下ってる感じがしたから……)
だけど最近の運動不足がたたり俺の息は直ぐに切れ、もう少しで最初の角に差し掛かるというとき、
「おいっ、お前!ちょっと待て!」
拙い!見つかった!
後ろから声を掛けられた瞬間、俺は猛然と駆け出した。後ろで警笛が鳴る。
(やばい!やばい!やばいっ!)
心臓が爆発しそうに鳴り、足が縺れて転びそうになる。何人か合流したらしく、後ろから聞こえてくる声や足音は明らかに増えてきていた。進行方向からも警備員が一人飛び出してくる。
―――拙い!
俺には逃げの一手しかなかった。近くにあったドアノブを適当に回す。と、―――開いたっ!神様っ!
慌てて部屋の中に飛び込み、鍵を掛けると、簡易バリケードを築く。
だけど、こんなもの何の役にも立たない。破られるのは時間の問題だ。
「はあっ、はあっ!武器っ、何かっ、武器になる、ようなものはっ!」
俺は息切れしながら血走った眼を方々へ走らせる。そして壁に掛けてあった嵩張る衣裳の向こう側に隠れるようにしてあった一枚のドアを発見するが、
ドン、ドン、ドンッ!
追手が追い付いた。
「おい、開けろっ!」
「逃げられっこねえんだよっ!」
「鍵はっ」
「構わない、蹴破れっ!」
「離れろ、行くぞっ!」
迷っている暇はなかった。
俺はドアを迷わず開けると、真っ暗な向こうの空間へと一歩足を踏み出した。
ドアの向こう側には意外なことにかなり広い空間が広がっていた。天井も高く、一見して倉庫のように見える。暗闇の中で目を凝らすと、奥の方に空の檻のような物が積み重なっているのが見えた。だけど俺に優雅にそれらを鑑賞している余裕はない。
(隠れられる場所はっ!それか何処かに抜け道は、ないかっ!?)
息を切らし、うろうろと彷徨いながら首を左右に振る。だが、駄目だった。タイムアップ!
「おい!こっちだっ!いたぞっ!」「電気はっ!」「そっちだ!行ったぞっ!」
俺を追い詰める声、息遣い、大勢の足音。そして、その広さが却って徒となり、進行方向を決めきれずにいた俺を囲む包囲網が完成する。
「あっ、はっ、やっ…」
まるで逃げた家畜を追うように、腰を落としてじりじりと迫りくる男たち。
嫌だ、捕まりたくない。
追い詰められる緊張感。怖い。急に酷使した膝が、全身が瘧のように震える。
徐々に狭まる包囲網に焦った俺は足元にあった何かに蹴躓いた。そして尻餅をついたまま後退ると、今度は背中に何かが当たる。が、その何かは俺の体重を受け止めてくれず、
「ぅわあっ!」
と、大きくバランスを崩した俺はのけ反るようにして後ろに倒れ込んだ。その俺の目に飛び込んできたものとは―――。
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