⑫摂氏800度の熱の恐怖
「つうか、てめえ自身の面倒も満足にみれねえでよくガキなんざ作るよな?」
「あげく虐待とか、ないわー」
「いろいろ上手くいかないのは世間が悪ぃんじゃなくて、てめえが無能だからだっつうの。それをましてや力が弱くて抵抗できない女子どものせいにするとか。マジで、男の風上にも置けねえ野郎だな…」
床の上で亀の子状態で蹲り、身を守っていた俺の髪が乱暴に掴まれ、引き上げられる。ぶちぶちっと何本か纏めて髪の毛が抜ける音がした。
痛っ!
禿げたらどうしてくれるんだ。
強制的に上げさせられた顔は汗、涙、鼻水、涎等の様々な液体でべしょべしょに濡れていた。中には血の色も少量混じっている。
「あーあぁ、イケメン君が台無しぃ~」
涙でぼやけた視界が至近距離にある物の輪郭を捉えた。まず目に入ったのは男の膝。そして―――、
俺の目の前にはうんこ座りをした茶髪ロン毛のビジュアル系の若い男がいた。
怖い、怖い、怖い…。
確かこの男は虐待のキーワードに過剰反応した奴だ。
ヤンキーは片手で俺の髪を鷲掴みにし、もう片方の手で火のついた吸い掛けの煙草を弄んでいる。
「なあなあ」
その目には怒りと狂気の色が入り混じっていた。
これは人を傷付ける事を躊躇しない、凶暴で残虐非道極まる男の目だ。
食道から胃の腑にかけて冷たいものが滑り落ちる。
「てめえのガキ、灰皿代わりにした事ある?」
「……ッ!」と、息を吞み込んだ。
まるで『××に行った事あるか?』と観光地名でも訊ねられているかのようなラフさだ。しかし、だからこそ怖い。
これは対応を見誤ると痛い目を見るパターンだった。
そして、男がそれを訊くという事は男はおそらくそう(灰皿代わりに)された経験があるのだろう。
見れば男は線の細い、目鼻立ちのはっきりとした案外可愛い顔をしている。女にもかなりもてそうだ。
そして、一見火傷の痕は見られないが…。もしかしたら脱いだら凄いのかもしれない。全部、俺の勝手な憶測だが。
―――だから俺をそんな憎しみの籠った目で見るのか……。
自分を物のように扱い、長年虐げ続けてきた殺したいほど憎い両親に俺を重ね合わせて。
(だけど、それは違う!俺じゃない!)と、叫びたい。
けど、今男への対応を誤るととんでもない事になる。機嫌を損ねるなど以ての外だった。
―――危険だ。今は出来るだけ早くこの場を切り抜け、無事に此処から出る事だけを考えよう……。
男が煙草を吸うと、煙草の先端がオレンジ色に発光する。話に聞いたところによると、この時、この先端の温度は摂氏約800度にも達するらしい。
800度なんて想像もつかないけど、とにかく熱いことだけは確かだ。それが今、俺を憎しみの目で見つめている男の手の中にある。その恐怖。
ふうーっと男が煙草の煙を俺の顔目がけて吹き掛ける。またその赤い熱源がゆっくり、じわじわと俺に近付いてきて…。その意図を正確に察した俺は慌てて男の問いを否定する。
「な、ないっ!」と、首を横に振る。
「…本当…?」
「ほっ、本当だっ、です、痕に残るような傷は…付けって、なっ、ませっ」
それは事実だった。但し理由はガキが可愛いからとか、可哀そうだからじゃなく、ただ単にばれると拙いから、言い逃れできなくなるからだった。要は己の自己保身のため。それでも、今はそれをしなかった過去の自分を思いっきり褒めてやりたい!
答えを慌てたのと久しぶりに喋ったのと、唇の端が切れていたせいもあって、俺の声はみっともなくどもり、掠れ、震えていた。
(―――もう嫌だ。誰か、頼む!助けてくれ!誰でもいいからっ……神様、仏さまっ!)
今まで信じてもいなかった神に祈る。
熱源がまた距離を詰めた。今度は俺の左の眼球に狙いを定めて。
もう、けむいのどうのと言っていられる場合じゃない。びびっていても目は閉じられない。怖いから余計に。
煙草の温熱を感じてじわじわと肌が汗ばみ、産毛がちりちりと焦げる。煙が目に沁みる。けど、瞬きは最小限に抑えて、眼球の表面が乾くに任せる。同じく渇いた喉に無理やり絞り出した唾を送り、飲み込んだ。
「ひぐっ、してねっ!してねえよっ!!」
声が裏返った。
ぐっしょりと汗を掻き、濡れたバスローブが不快に肌に纏わり付く。
けど、俺の答えは男が望んだものでは無かったらしい。
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