第9話 河童は川で溺れない
「湊、こっちへおいで」
川の中から、母親の声がした。
水城湊は、川へ引きずられそうになっている川守九郎の腰に、両腕でしがみついていた。
九郎は釣り竿を握り、その九郎を湊がつかみ、さらに湊の背中を善一が引っ張っている。
傍から見れば、ずいぶん間抜けな列だったかもしれない。
しかし笑っている余裕はなかった。
川の中にいる何かの力は、子ども三人や四人では止められないほど強かった。
九郎の裸足が泥を削り、川岸へ二本の跡を残す。
「放せ、東京ぼっちゃん!」
九郎が叫んだ。
「放したら、おまえが川に落ちるだろ!」
「だから俺は平気だって言ってんだ!」
「平気なやつは、そんな必死な顔しない!」
「これは怒ってる顔だ!」
「どっちでも危ないことに変わりないだろ!」
湊も怒鳴り返した。
九郎の体は、見た目よりずっと冷たかった。濡れた服のせいだけではない。真夏の川底に長く沈んでいた石のような冷たさが、腕から伝わってくる。
釣り竿が大きくしなった。
ぎしり、と嫌な音がする。
「竿を放せ!」
善一が二人の後ろから叫んだ。
「折れるぞ!」
「折れたら困ります!」
「おめえが川さ入るほうが困る!」
「この竿、父さんに買ってもらったんです!」
「なら、なおさら命と取り替えんな!」
正しい。
正しいことは分かっている。
けれど、すぐに手を放せるかどうかは別だった。
この竿は、遠野行きを最後まで心配していた父親が、出発の一週間前に買ってくれたものだ。
店では母親と同じように、「河童が釣れる保証はない」と言っていた。
それでも会計を済ませたあと、父親は駐車場で竿を湊へ渡しながら、小さな声で言った。
――何も釣れなくても、ちゃんと帰ってこいよ。
そのときは、当たり前のことを何度も言うなと思った。
今なら、父親が何を心配していたのか、少し分かる。
「湊」
川の中の母親が、もう一度呼んだ。
「お父さんにもらった竿でしょう。なくしたら怒られるわよ」
湊の胸が跳ねる。
こいつは、今の考えまで分かるのか。
「聞くな!」
九郎が怒鳴った。
「声だけじゃねえ。返事をした相手の中を、少しずつのぞいてくる!」
「先に言ってよ!」
「昨日、返事すんなって教えられただろ!」
「三回目までって言い方が悪かったんだよ!」
「今そこを議論するな!」
九郎が振り向いたせいで、三人の体が一気に川側へ傾いた。
善一が踏ん張る。
「前見ろ、馬鹿!」
「じいさんに馬鹿って言われたくねえ!」
「年齢は関係ねえ!」
「二人とも喧嘩しないでください!」
「おめえが言うな!」
善一と九郎の声が重なった。
その瞬間、川の中の黒い影が、ぐんと深い場所へ潜った。
釣り糸が引かれる。
九郎の体が宙へ浮いた。
「九郎!」
湊は腰へ回した腕へ、さらに力を込めた。
自分の足も川へ入る。
靴の中へ冷たい水が流れ込み、足首、すね、膝まで一気に濡れた。
流れは、岸から眺めていたときよりずっと強い。水に押された足が石の上を滑り、自分がどちらを向いているのか分からなくなる。
「入るなと言ったべ!」
善一が叫んだ。
「好きで入ったんじゃありません!」
「川にゃ、好きで入ったかどうかなんて関係ねえ!」
その言葉どおり、川は湊の事情など気にしなかった。
足を押し、腰を冷やし、少しずつ体の力を奪っていく。
黒い影が水面近くまで浮かび上がった。
丸い頭。
長い腕。
けれど顔がない。
顔のあるはずの場所には、水面のようなものが揺れていた。
その中に、奈緒の顔が浮かぶ。
次に父親。
妹の美海。
和也。
教室で笑っていた大地。
知っている顔が次々と現れては崩れ、また別の顔に変わる。
「妖怪博士」
大地の声がした。
「本物を捕まえるんじゃなかったのかよ」
「黙れ」
湊は歯を食いしばった。
「怖くて逃げるの?」
「逃げてない」
「じゃあ、もっと近くで見せてあげる」
黒い影の長い腕が、水中から伸びてきた。
指先が、湊の足首へ巻きつく。
昨夜、障子戸の隙間から入ってきたものと同じ、泥の詰まった細長い指だった。
「うわっ!」
体が前へ引かれる。
善一の手が湊のシャツから滑った。
「湊!」
川の中へ倒れ込む。
顔が水面へ近づいた。
澄んでいるはずの水が、そこだけ真っ黒に染まっていた。
水の底から大勢の声が聞こえる。
湊。
湊。
水城湊。
名前を呼ぶ声。
返事をしてはいけない。
分かっているのに、口から声が出そうになる。
そのとき、九郎が釣り竿を手放した。
「えっ」
大切な竿が、川へ飛んでいく。
追いかけようとした湊の頬を、九郎が平手でたたいた。
「竿を見るな! 俺を見ろ!」
「痛い!」
「痛いなら起きてろ!」
九郎は湊の襟をつかむと、川の中でぐるりと体をひねった。
一瞬、九郎の手が見えた。
指と指の間に、薄い膜が張っている。
水かもしれない。
見間違いかもしれない。
しかし、その手は人間のものより大きく水をつかみ、九郎の体を流れに逆らって動かした。
「息を止めろ!」
「何する――」
最後まで言えなかった。
九郎が湊の頭を押さえ、二人で水中へ沈んだからだ。
音が消えた。
代わりに、川が体をこする低い響きが聞こえる。
目を開けると、緑がかった光の中に無数の泡が浮かんでいた。
九郎の髪が水中に広がっている。
その頭のてっぺんに、丸く白いものが見えた。
髪が薄いのではない。
皿だった。
図鑑や昔話で何度も読んだ、河童の皿。
湊は息を止めていることも忘れ、目を見開いた。
九郎がにらむ。
今見るな、と言われた気がした。
黒い影の腕が、湊の足首をつかんだまま引っ張っている。
九郎は腰から小さな刃物を抜き、釣り糸ではなく、影の腕へ振り下ろした。
刃が当たった瞬間、黒い腕が水へ溶けた。
甲高い叫び声が、水中いっぱいに響く。
母親。
父親。
美海。
和也。
いくつもの声が重なり、誰の声でもない叫びへ変わった。
九郎は湊の背中を押した。
川底を蹴る。
水面へ向かって体が浮かび上がった。
顔を出した瞬間、湊は激しくせき込んだ。
「げほっ、げほっ!」
「息止めろって言っただろ!」
九郎も水面から顔を出した。
「急に沈めるからだろ!」
「先に説明してたら、あいつに聞かれる!」
「それでも三秒くらい説明できただろ!」
「川ん中で説明会してる暇あるか!」
二人が言い合っているところへ、岸から縄が飛んできた。
善一だった。
「つかめ!」
九郎が縄をつかみ、もう片方の腕で湊を抱える。
善一が引く。
湊も水中の石を蹴り、どうにか岸へ上がった。
草の上へ転がる。
肺の奥に入った空気が痛かった。
手足が震えている。
隣では九郎が四つんばいになり、髪から水を落としていた。
その頭に、もう皿はない。
濡れた黒髪が張りついているだけだ。
湊は息を整えながら、九郎の頭を見つめた。
「今……」
「何だよ」
「頭に」
「何もねえ」
九郎は即答した。
「まだ最後まで言ってない」
「顔で分かる」
「ぼくの周り、顔を読む人ばっかりだな」
「分かりやすいんだよ」
九郎は頭を両手で隠した。
それが、何かあったと自分から認めているようなものだった。
「皿が――」
「ねえ!」
「でも、見た」
「水中で頭ぶつけたんだろ!」
「ぶつけてない」
「酸素が足りなくて幻を見たんだ!」
「じゃあ指の間の膜は?」
九郎は両手を背中へ隠した。
「魚だ」
「おまえの手の話をしてるんだよ」
「魚と重なって見えたんだ」
「ずいぶん都合よく泳ぐ魚だな」
「遠野の魚は泳ぎがうまい」
「東京の魚だって泳ぐよ!」
善一が二人の間へ立った。
「言い争いはあとだ。怪我を見せろ」
「怪我なんかねえ」
九郎が顔をそむける。
「おめえじゃねえ。湊だ」
「俺も川に入ったんだけど!」
「おめえは昔から丈夫だべ」
沈黙が落ちた。
善一が自分の失言に気づき、口を閉じる。
九郎がゆっくり振り返った。
「知らねえじいさんじゃなかったのかよ」
湊が言うと、善一は川のほうを見た。
「言葉のあやだ」
「知り合いかどうかに、言葉のあやはありません」
「昔、似たような子を見た」
「どこで」
「川で」
「いつ?」
「昔だ」
「何年前?」
「ずっと昔」
「九郎は今と同じ姿でしたか?」
善一は答えなかった。
九郎が立ち上がり、濡れた服の裾を絞る。
「こいつの質問に答えると、次が十個来るぞ」
「おまえに言われたくない」
「本当のことだべ」
「善一さんまで同意しないでください」
二人とも、絶対に何かを隠している。
ただし昨日までの湊なら、答えるまで質問を続けていただろう。
今は少し迷った。
九郎の頭に皿を見た。
九郎の手に水かきを見た。
けれど本人は、何もないと言っている。
それを勝手にノートへ書き、写真を撮り、学校へ持ち帰っていいのだろうか。
少なくとも今すぐするべきではない。
そう思いながら、湊は川を見た。
「あっ」
父親にもらった釣り竿がない。
川下へ目を走らせる。
影も形も見えなかった。
「竿……」
湊の声が小さくなった。
九郎は濡れた前髪をかき上げた。
「命より竿が大事なのかよ」
「そんなこと言ってない。でも、父さんが買ってくれたんだ」
「また買ってもらえばいいだろ」
「そういうことじゃない」
思ったより強い声が出た。
九郎の眉が動く。
「買い直せば同じものになるわけじゃない。父さんが店で一緒に選んで、ぼくに渡してくれた竿なんだよ」
「道具は道具だろ」
「九郎にとってはそうでも、ぼくには違う」
「じゃあ、竿と一緒に沈めばよかったのか」
「そんなこと言ってないだろ!」
「言ってるのと同じだ! あそこで放さなかったら、おまえ、あいつに持っていかれてたぞ!」
九郎も声を荒らげた。
「おまえが何を大事にしてるかなんて、俺は知らねえ。でもな、死んだら大事だったって言う相手もいなくなるんだよ!」
湊は言い返せなかった。
九郎は怒っている。
ただ竿に執着した湊を馬鹿にしているのではない。
助けた相手が、助かったことより失くしたものを気にしているのが腹立たしいのだ。
善一が間へ入るでもなく、二人を見ていた。
湊は濡れたシャツの裾を握った。
「……助けてくれて、ありがとう」
九郎が目をそらした。
「先にそれ言えよ」
「竿のことを思い出したら、頭から抜けた」
「おまえ、本当に面倒くせえな」
「九郎も。ありがとうって言ったのに、普通に受け取れないの?」
「助けたのは、じいさんが見てたからだ」
「そういうことにしておく」
「本当だ!」
九郎が湊の額を指で押す。
その指には、もう膜はなかった。
普通の人間の手に見える。
「それより、さっきのやつは何?」
湊が尋ねた。
「川のまねっこ」
九郎は短く答えた。
「赤い子も、そう呼んでた」
「会ったのか」
「民宿にいる。名前は教えてくれない」
「あいつ、まだいたのか……」
九郎の声に、わずかな懐かしさが混じった。
「知り合い?」
「知らねえ」
「今、まだいたのかって言った」
「独り言だ」
「知り合いじゃない相手が、まだいるかどうかは気にしないだろ」
「うるせえ!」
善一が咳払いをした。
「まねっこは、川に残った声を拾う。人間をからかって、水さ入れる。昔は、せいぜい履物を濡らす程度だった」
「今は違うの?」
湊が聞く。
善一は黒い影が消えた場所を見た。
「名前まで覚えるようになってる」
「名前を覚えると、どうなるんですか」
「声だけでなく、その人が大事にしてるものまで分かる。全部じゃねえがな」
「どうして強くなったの?」
善一は答えなかった。
九郎が川上をにらむ。
「この辺りの水が、おかしくなってる」
「汚れてるようには見えないけど」
「人間の目に見える汚れだけが、汚れじゃねえんだよ」
九郎はそう言うと、川下へ歩き出した。
「どこへ行くの?」
「帰る」
「家、どっち?」
「教えねえ」
「学校は?」
「行ってねえ」
「夏休みだから?」
「年中だ」
「どうして?」
「質問が多い!」
九郎が振り返って怒鳴った。
その腹が、ぐう、と大きく鳴った。
三人とも黙る。
九郎の顔が赤くなった。
「今のは、川の音だ」
「川から、おなかが鳴る音はしないよ」
「する」
「しません」
善一が持ってきた竹籠を開けた。
中には、ハナが包んでくれたおにぎりと卵焼きが入っている。
九郎の目が、卵焼きへ吸い寄せられた。
湊は見逃さなかった。
「きゅうりは嫌いでも、卵焼きは好きなんだ」
「誰が」
「今、見てた」
「見てねえ」
「顔に書いてある」
「おまえにだけは言われたくねえ!」
湊は卵焼きを一つつまみ、九郎へ差し出した。
「助けてもらったお礼」
「いらねえ」
九郎の腹が、もう一度鳴った。
「川の音?」
「そうだ」
「じゃあ川にあげる」
湊は卵焼きを川へ投げるふりをした。
九郎が素早く手を伸ばし、湊の手首をつかむ。
「食い物を粗末にすんな!」
「いらないんだろ」
「川に投げるくらいなら、俺が食う!」
「最初からそう言えばいいのに」
九郎は湊の指から卵焼きを奪い、一口で口へ入れた。
目が少しだけ丸くなる。
気に入ったらしい。
「どう?」
「普通」
「もう一ついる?」
「普通だけど、余ってんなら食ってやる」
「それを好きって言うんだよ」
「言わねえ!」
九郎は結局、卵焼きを四つ食べた。
ハナが朝食で一人三個だと言っていたことを思い出したが、昼食については何個までか聞いていない。
善一は止めなかった。
むしろ九郎が食べる姿を、どこか懐かしそうに眺めていた。
食べ終えると、九郎は川の水を両手ですくって飲んだ。
「明日も来るのか」
「もちろん」
湊は答えた。
「竿はないぞ」
「善一さんに直してもらいます」
「なくなったものを、どう直すんだよ」
「別の竿を作ってもらう」
善一が顔をしかめた。
「まだ引き受けてねえ」
「壊れたものなら大抵直すって、ハナさんが言ってました」
「なくなったもんは壊れたもんじゃねえ」
「じゃあ、作れますか」
「……竹ならある」
「ありがとうございます」
「まだ作るとは言ってねえ」
「竹があるところまで話が進んだら、ほとんど作るという意味です」
善一は深いため息をついた。
九郎が笑う。
「じいさん、面倒なのに捕まったな」
「おめえもだ」
善一が返した。
九郎の笑いが止まる。
「俺は捕まってねえ」
「卵焼き四つで釣られたべ」
湊は思わず吹き出した。
九郎はしばらく黙ったあと、耳まで赤くして叫んだ。
「明日は絶対来るな、東京ぼっちゃん!」
そう言い残し、川へ飛び込む。
澄んだ水の中を黒い影が走り、川上へ消えていった。
泳ぐ速さは、魚よりも速かった。
湊はその姿を見送り、自由研究ノートを開いた。
『河童釣り一日目』
『釣れたもの。古い鍋。川のまねっこ。』
そこまで書き、少し考える。
『川守九郎については、本人が話したことだけ記録する。』
さらに一行。
『きゅうりは嫌いらしい。卵焼きは四個食べた。』
書き終えた瞬間、川上から九郎の声が飛んできた。
「それも書くな!」
姿はもう見えないのに、ずいぶん耳がいい。
湊はノートを閉じながら笑った。
「そこにいるなら、直接言いに来いよ!」
返事はなかった。
ただ、水面に一つだけ丸い波紋が広がる。
その真ん中から、父親に買ってもらった釣り竿が、ゆっくりと浮かび上がった。
折れてはいない。
糸だけがきれいに切られ、竿の持ち手には、濡れた緑色の手形が残っていた。




