第10話 写真の中で、九郎の頭から手が出ていた
川から戻る途中、水城湊は三回くしゃみをした。
一回目は、田んぼの間を歩いているとき。
二回目は、用水路に架かった小さな橋を渡っているとき。
三回目は、民宿「かざぐるま荘」の屋根が見えたところだった。
「寒いのか」
前を歩いていた善一が、ようやく振り返った。
「寒くありません」
湊は答えた直後、もう一度くしゃみをした。
「寒いんだべ」
「これは寒いんじゃなくて、鼻に水が入ったからです」
「川から上がって、ずっと震えてんぞ」
「武者震いです」
「何と戦うんだ」
「これから自由研究と」
善一は何も言わず、自分の肩に掛けていたタオルを湊の頭へ放った。
大きく、少し日に焼けた匂いのするタオルだった。湊が顔を出すと、善一はもう前を向いている。
「ありがとうございます」
「風邪ひかれっと、ハナがうるせえ」
「ぼくを心配してくれたわけじゃないんですか」
「半分はな」
「残り半分は?」
「医者さ連れてくのが面倒だ」
親切なのか、そうでないのか分からない。
しかしタオルは乾いていて、温かかった。
湊は頭と顔を乱暴に拭きながら、善一の隣へ並んだ。もう片方の手には、父親に買ってもらった釣り竿を持っている。
川へ流されたはずの竿。
それが、なぜか水面へ浮かび上がってきた。
折れてもいない。持ち手には濡れた緑色の手形が残されていた。
湊は何度も確かめた。
人間の子どもの手より少し小さく、指と指の間が広い。今は乾きかけて薄くなっているものの、まだ形は分かった。
「消える前に写真を撮ればよかった」
湊がつぶやくと、善一が横目で見る。
「九郎に怒られるぞ」
「九郎の手形だって決まってません」
「じゃあ、何の写真を撮るんだ」
「正体不明の緑色の手形です」
「同じだべ」
「違います。九郎がつけたって書かなければ」
「書かなくても、見た人が勝手に決める」
湊は口を閉じた。
善一の言っている意味は分かる。
川の中で九郎の頭に皿を見た。
指の間には膜もあった。
普通の人間とは思えない速さで泳ぎ、流れに逆らって進んだ。
そこへ緑色の手形まで撮影すれば、湊の中では答えが一つにまとまる。
川守九郎は河童だ。
けれど、九郎は認めていない。
九郎が河童であることを隠したいのなら、湊が写真だけを見せても、秘密をばらしたことになるのではないか。
「写真を撮らなかったら、手形は消えます」
「そうだな」
「消えたら、何も残りません」
「竿は残る」
「ただの釣り竿に戻るだけです」
「それじゃ駄目か」
「自由研究だから、証拠が必要なんです」
善一は足を止めなかった。
「何の証拠だ」
「河童がいる証拠」
「それがあったら、学校の子が信じるのか」
「信じます」
「本当に?」
「たぶん」
湊は少し自信をなくした。
写真を見せても、絵の具だと言われるかもしれない。
誰かに塗ってもらったのだろうと笑われるかもしれない。
動画なら加工だと言われる。
九郎本人を東京へ連れていかなければ、絶対に信じてもらえる証拠など作れないのではないか。
そして本人を連れていこうとしたら、九郎は間違いなく怒る。
たぶん、川へ沈められる。
「信じねえやつは、何を見ても信じねえぞ」
善一が言った。
「じゃあ、自由研究しても意味ないじゃないですか」
「人さ信じさせるためだけにやるならな」
「ほかに何のためにするんですか」
「さあな」
「また自分で考えろって言うんでしょう」
「俺は自由研究したことねえ」
「小学生だったでしょう」
「夏休みは畑と馬の手伝いだ。帳面に天気と仕事を書いたくらいだな」
「それが自由研究みたいなものですよ」
「だったら、何のために書くか分かるべ」
「先生に出すため?」
「次の年、忘れねえためだ。いつ雨が降ったか。どの畑で何を植えたか。馬がいつ腹壊したか」
「馬が?」
「祭りの前にな。人の弁当を盗み食いした」
「馬も弁当を食べるんですか」
「そいつは食った。卵焼きだけきれいに残した」
九郎とは反対だ。
そのことがおかしくて、湊は少し笑った。
善一も、声には出さなかったが口元を緩めていた。
「記録は、誰かに褒められるためだけじゃねえ」
「忘れないため?」
「それもある」
「ほかは?」
「あとで間違ってたと気づくためだ」
「間違いを書くんですか」
「そのとき本気でそう思ったなら、書いとけ。後で読めば、自分がどう間違えたか分かる」
湊は考えながら歩いた。
正しいことだけを書くのが研究だと思っていた。
しかし最初から正しい答えを知っているなら、調べる必要はない。
きゅうりで河童を釣れると思っていたこと。
九郎を見つければ、すぐ写真を撮っていいと思っていたこと。
赤い少女を座敷わらしだと決めつけたこと。
どれも間違っているかもしれない。
間違いを消したら、自分の考えがどう変わったかも消えてしまう。
「善一さん」
「何だ」
「ときどき、先生みたいなこと言いますね」
「悪口か」
「半分くらい褒めてます」
「残り半分は?」
「話が長くなる前に、普通に教えてほしいです」
善一は、湊の頭に掛かっているタオルの端を引っ張った。
視界がふさがる。
「ちょっと!」
「言葉が多い」
「善一さんが先に長い話をしたんでしょう!」
タオルを取り払うと、民宿の前にハナが立っていた。
腰へ両手を当てている。
笑っていない。
「帰ったか」
声も低い。
湊は足を止めた。
善一も止まる。
「ただいま」
善一が言った。
「ただいま、じゃねえ!」
ハナの怒鳴り声に、近くの木から鳥が飛び立った。
「何で二人とも、びしょ濡れなんだ!」
「川に入ったからです」
湊は正直に答えた。
「見りゃ分かる! 何で入ったか聞いてんだ!」
「入ろうと思って入ったわけじゃありません」
「川に落ちたのか?」
「引っ張られました」
「何に!」
「川のまねっこです」
「それ、名前じゃねえべ!」
「九郎と赤い女の子が、そう呼んでました」
「九郎に会ったのか?」
ハナの顔が変わった。
怒りの中に、驚きと心配が混じる。
「知ってるんですか」
湊が尋ねる。
ハナは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐ善一をにらんだ。
「おめえ、会わせたのか」
「勝手に出てきた」
「湊を川さ入れたのもか」
「それはまねっこだ」
「おめえがついてて、何で子ども二人も川さ入るんだ!」
「二人?」
湊は聞き逃さなかった。
「ハナさん、九郎も子どもだって知ってるんですね。それに、川へ入ったことも、ぼくはまだ――」
「今は質問の時間じゃねえ!」
ハナは大股で近づき、湊の腕や顔を確かめた。
「怪我は?」
「足首を少しつかまれただけです」
「見せろ」
「大丈夫です」
「見せろ!」
湊がズボンの裾を上げると、足首には黒っぽい指の痕が残っていた。
ハナが息をのむ。
その顔を見て、湊も急に怖くなった。
九郎や善一と一緒にいる間は、驚いたり言い争ったりするのに忙しく、考えなかった。
もし九郎が助けてくれなかったら。
もし善一の手が離れていたら。
自分は今ごろ、川の中にいたかもしれない。
母親の声に呼ばれたまま、どこかへ連れていかれていたかもしれない。
「風呂だ」
ハナが言った。
「先に体温めろ。それから飯食って、何があったか最初から全部話せ」
「でも手形が消えます」
「何の話だ」
湊は釣り竿の持ち手を見せた。
緑色の手形は、ほとんど消えかけている。
ハナも善一も黙った。
湊はスマートフォンへ手を伸ばした。
「写真を一枚だけ――」
「やめとけ」
善一が言う。
しかしハナはすぐには止めなかった。
消えかけた手形と、湊の顔を交互に見る。
「撮りたいのか」
「撮りたいです」
「どうして」
「忘れたくないから」
自分の口から出た答えに、湊自身が驚いた。
さっきまでは、みんなに信じさせるためだと思っていた。
それも嘘ではない。
けれど今は、川で起きたことが夢のように消えてしまうのが怖かった。
九郎が竿を取り戻してくれたこと。
自分を助けるため、隠していた姿を見せたこと。
三人で卵焼きを食べたこと。
全部、自分の勘違いだったと思う日が来るかもしれない。
「誰かに見せるのか」
ハナが尋ねた。
湊は迷った。
「九郎が嫌がったら、見せません」
「学校の自由研究には?」
「今は分かりません」
「ずるい答えだな」
「絶対って言って、あとで破るよりいいです」
ハナはしばらく黙っていたが、やがて湊のスマートフォンを指さした。
「一枚だけだ。手形だけ撮れ。場所が分かるもんや、ほかのものは入れるな」
「いいんですか」
「いいとは言ってねえ。今は止めねえってだけだ」
大人は、どうしてこういう細かい違いを大事にするのだろう。
湊はしゃがみ、釣り竿を草の上へ置いた。
消えかかった緑の手形だけが画面へ入るよう、角度を調整する。
撮影ボタンを押した。
かしゃり。
写真を確認する。
「変だ」
肉眼では薄くなっている手形が、写真の中では濃い緑色に写っていた。
まるで今つけたばかりのように、五本の指がはっきり見える。
「善一さん、ハナさん、見てください」
二人が画面をのぞき込んだ。
その瞬間、ハナが湊の手からスマートフォンを取り上げた。
「ちょっと、何するんですか!」
ハナは返事をせず、画面を拡大した。
写っているのは釣り竿と緑色の手形。
そして、竿の持ち手に反射した光の中へ、小さな人影が映り込んでいる。
川守九郎だった。
写真を撮ったとき、九郎はもう川上へ帰っていた。
ここにいるはずがない。
それなのに、九郎は釣り竿の光沢の中から、こちらをにらんでいる。
「九郎が写ってる」
湊は声を落とした。
「でも、これ……」
九郎の頭は、人間の姿のままではなかった。
丸い皿がある。
背中には甲羅が浮かび、指の間には水かきが見えた。
湊が川の中で見た姿だった。
しかし、おかしいのはそれだけではない。
九郎の頭にある皿の中から、細長い緑色の腕が伸びている。
九郎自身の手ではない。
後ろから誰かが、皿を破って出てこようとしているように見える。
その手は五本の指を広げ、写真の外にいる湊の顔をつかもうとしていた。
「これ、九郎じゃありませんよね」
湊が尋ねる。
善一は青ざめた顔で写真を見ていた。
「手形をつけたのは、九郎じゃねえ」
「じゃあ、誰ですか」
善一は答えなかった。
ハナがスマートフォンを湊へ返し、低い声で言う。
「この写真は、誰にも見せるな」
「でも――」
「九郎にもだ」
「どうして?」
ハナは、背後の山を見た。
昼間なのに、山の木々の間だけが暗く沈んでいる。
「九郎が、自分の中にいるものを知ったら」
ハナはそこで言葉を切った。
「川へ戻って、二度と人の姿では出てこなくなるかもしれねえ」
その夜、湊は自由研究ノートの一日目の最後に、こう記した。
『河童は釣れなかった。』
少し考え、その下へ書き足す。
『でも、河童かもしれない友だちができた。本人は、まだ友だちだと言うと怒ると思う。』
さらに一行。
『写真には、見たものだけが写るとは限らない。』
書き終えると、押し入れの中から赤い少女の声がした。
「ちがう」
「何が?」
「写真は、見たくないものも写す」
押し入れを開けたときには、誰もいなかった。
奥の板壁に、濡れた緑色の手形が一つだけ残されている。
そして手形の指先で引っかいたような細い文字が、湊の名前の隣へ刻まれていた。
『つぎは、くろう』




