第11話 河童へ写真を見せてはいけない
翌朝、水城湊が目を覚ますと、自由研究ノートが顔の上に載っていた。
寝る前には、机の引き出しへ入れたはずである。
ノートの角が頬へ食い込み、少し痛い。湊は布団の上で体を起こすと、目をこすりながら表紙を見た。
『遠野妖怪観察ノート』
自分で書いた題名の下に、赤いクレヨンで一言増えている。
『ずるい』
「朝から何なんだよ」
押し入れへ向かって言った。
返事はない。
窓の外では、もう蝉が鳴き始めている。東京の朝より空気は涼しいのに、日差しには昨日と同じ夏の強さがあった。
湊はノートを開いた。
昨夜、最後に書いた文章は残っている。
『写真には、見たくないものも写る』
その下にも、赤い文字が続いていた。
『かいたのに、かいてない』
「何が?」
思わず尋ねると、押し入れの中から小さな音がした。
こつん。
湊が戸を開ける。
布団の上に、赤い服の少女が座っていた。
膝を抱え、怒った顔で湊を見ている。
「いたなら返事しろよ」
「した」
「音を鳴らしただけだろ」
「返事」
「人間の会話では、もう少し分かりやすくしてくれない?」
「人間じゃない」
少女は、あっさり言った。
湊は戸へかけた手を止めた。
「今、自分で人間じゃないって認めた?」
「知らない」
「言っただろ」
「忘れた」
「三秒前だぞ」
「おまえ、うるさい」
少女は布団の山から下り、勝手に部屋へ入ってきた。机の前へ座ると、湊のノートを指でたたく。
「かいたのに、かいてない」
「写真のこと?」
少女がうなずいた。
湊は昨日のページを開いた。
川のまねっことの出来事。
九郎に助けられたこと。
父親に買ってもらった釣り竿が戻ってきたこと。
そこまでは、できるだけ正確に記録してある。
しかし写真に写った緑色の手や、ハナから「九郎にも見せるな」と言われたことは書かなかった。
代わりに、こう書いている。
『未確認の異変があった。今は詳しく書かない。』
「書いてるだろ」
湊がその一文を指さすと、少女は眉を寄せた。
「書いてない」
「詳しく書けないんだから仕方ないよ」
「見た」
「見たけど、九郎には見せるなって言われた」
「ノートは九郎?」
「違う」
「じゃあ書ける」
「誰かが読むかもしれないだろ。学校へ提出するんだぞ」
「読ませるの?」
「自由研究だから」
「九郎の秘密、読ませるの?」
「読ませないために書いてないんだよ!」
少女は、じっと湊を見た。
その目には責める色がある。
自分では九郎の秘密を守ろうとしているつもりなのに、どうして怒られなければならないのか。
湊は少し腹が立った。
「隠せって言ったり、書けって言ったり、どっちなんだよ」
「隠すなら隠す。書くなら書く」
「だから隠してる」
「半分だけ」
「全部消したら、昨日何があったか分からなくなるだろ」
「おまえだけ分かる書き方」
「別にいいじゃん。ぼくのノートなんだから」
「ずるい」
また言われた。
「何がずるいんだよ」
「秘密を守った顔してる。でも、あとで言えるように残してる」
湊は言葉に詰まった。
否定しようとした。
しかし、完全な間違いではない。
『未確認の異変』と書いておけば、あとから話したくなったときに、「実はこのとき」と説明できる。
今は秘密を守る。
けれど将来、九郎が許してくれたら発表したい。
そんな気持ちがなかったとは言えない。
「ずっと黙ってるって約束したわけじゃない」
「九郎がいいって言うまで?」
「たぶん」
「九郎が嫌って言ったら?」
湊は答えられなかった。
自由研究の期限は夏休みの終わりに来る。
九郎がいつまでも嫌だと言ったら、河童の証拠は出せない。
何のために遠野まで来たのかと、また教室で笑われるかもしれない。
「おまえ、九郎より、学校のやつが大事?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何」
「どっちも大事だから困ってるんだよ」
声が大きくなった。
少女は驚きもせず、湊の顔を見ている。
「秘密を守りたい。でも、何もなかったことにもしたくない。九郎には本当のことを教えたほうがいいかもしれない。でも見せたら、川へ戻って出てこなくなるかもしれない。ぼくだって、どうすれば正しいか分からないんだよ」
「正しいことしたいの?」
「当たり前だろ」
「自分が怒られないことしたいんじゃなくて?」
胸の痛いところを突かれた。
湊はノートを閉じた。
「おまえ、本当に面倒くさいな」
「おまえも」
「すぐ同じこと言うな」
「同じだから」
少女は立ち上がり、障子戸へ向かった。
「待って」
「朝ごはん」
「話、終わってない」
「おなかすいた」
「妖怪って、食事が必要なの?」
少女が振り返った。
「人間は、話を変えるのが下手」
今度は湊が黙る番だった。
少女は廊下へ出ると、裸足のまま階段を下りていった。
追いかけるつもりはなかった。
しかし数秒後、階下からハナの怒鳴り声が聞こえる。
「こら! 卵焼き、つまみ食いすんな!」
続いて、少女ではない声がした。
「俺じゃねえ!」
川守九郎の声だった。
湊はノートをつかみ、部屋を飛び出した。
食堂へ駆け込むと、長机の前に九郎が座っていた。
まだ朝食の時間には少し早い。
それなのに九郎は当然のように茶碗と箸を持ち、卵焼きを口いっぱいに頬張っている。
紺色の服は乾いていたが、髪だけは水を浴びたように濡れていた。
「何でいるんだよ」
湊が尋ねる。
九郎は、口の中のものを飲み込んでから答えた。
「朝飯を食いに来た」
「自分の家で食べろよ」
「まだ用意できてねえ」
「家族が作るんじゃないの?」
「いろいろあんだよ」
「何が?」
「朝から質問が多い」
九郎は二切れ目の卵焼きへ箸を伸ばした。
その手をハナの箸が上から押さえる。
「今ので三つ目だぞ」
「二つ目だ」
「さっき台所で一つ食ったべ」
「味見だ」
「味見も食ったうちに入る」
「昨日より甘くなってたから、確かめただけだ」
ハナの眉が上がった。
「昨日の味、覚えてんのか」
「普通だったから覚えてねえ」
「覚えてねえのに、甘くなったのは分かるのか?」
九郎は黙った。
ハナが勝ち誇ったように笑う。
「好きなら好きって言えば、最初から多めに焼いてやんのに」
「好きじゃねえ。腹にたまるから食ってるだけだ」
「じゃあ漬物食え。噛めば腹にたまるぞ」
「朝から漬物だけ食わせる気かよ」
「好きでねえ卵焼きを無理して食うよりいいべ」
九郎は箸を握ったまま、ハナをにらんだ。
ハナも笑顔でにらみ返す。
二人のやり取りは、初対面の客と民宿の女将には見えなかった。
少なくとも、九郎が卵焼きを何個食べるかで揉める程度には親しい。
「やっぱり昔から知ってるんですね」
湊が言った。
ハナと九郎が同時にこちらを見る。
「誰が?」
二人の声が重なった。
「九郎とハナさんです。昨日も九郎のことを知ってる言い方をしたし、今も勝手に朝ごはんを食べてるのに追い出さない」
「腹減らした子どもに飯食わせるのは普通だべ」
ハナが答える。
「知らない子でも?」
「知らねえ子なら、先に名前くらい聞く」
「じゃあ知ってるんじゃないですか」
「名前は昨日、おめえが騒いでたから知った」
「その前から九郎って呼んでました」
「呼んでねえ」
「呼びました」
「聞き間違いだ」
「善一さん」
湊は食堂の隅で新聞を読んでいる老人へ助けを求めた。
善一は新聞から顔を上げない。
「俺は聞いてねえ」
「絶対、聞いてたでしょう」
「耳が遠くなった」
「昨日、二階の電話の話まで聞いてたじゃないですか」
「今日は遠い」
「耳って一日で変わるんですか!」
「年寄りだからな」
三人がそろって話をそらす。
九郎まで味噌汁をすすり、知らないふりをしている。
湊は腹が立つより、少し寂しくなった。
自分だけが、この家の決まりや昔のことを何も知らない。
九郎とハナと善一の間には、湊が遠野へ来るよりずっと前から続いている何かがある。
その中へ入れてもらえないような気がした。
「ぼくには話せないことばっかりなんですね」
そう言うと、ハナが箸を止めた。
「すねるな」
「すねてません」
「すねてる声だ」
「ぼくの顔だけじゃなくて、声まで読むんですか」
「十一歳のすね方なんて、だいたい同じだ」
「みんなが何でも隠すからでしょう」
「何でもじゃねえ」
「じゃあ、話せることを一つ話してください」
湊は九郎を指さした。
「九郎は、いつからここへ朝ごはんを食べに来てるんですか」
ハナは一瞬、善一を見た。
善一は新聞を少し高く持ち上げ、顔を隠す。
完全に逃げた。
「時々だ」
ハナが答える。
「いつから?」
「前から」
「何年前?」
「ずっと前」
「ぼくが生まれる前?」
「さあな」
「ハナさん、答える気ないでしょう」
「ある。おめえが細かすぎんだ」
「何年前かは、細かくありません」
「年を数えて生きてねえやつもいるんだよ」
ハナが口にした途端、九郎の箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
しかし湊は見逃さなかった。
「それ、どういう意味ですか」
「朝飯はまだかって意味だ」
九郎が強引に話を変えた。
「もう食べてるだろ」
「おまえの分が来てねえ」
「自分が食べたいだけじゃん」
「俺は客に気を遣ってんだ」
「勝手に食べに来た客が?」
「うるせえな。食うなら早く座れ」
まるで自分の家のような口ぶりだった。
湊は九郎の向かいへ座った。
ハナがご飯と味噌汁を運んでくる。
赤い少女の姿はない。
台所の陰にいるのか、誰にも見えない場所からこちらを見ているのか。
卵焼きの皿を見ると、一番端の一切れだけが、小さな歯形でかじられていた。
あの少女も朝食に参加しているらしい。
湊は食事をしながら、何度もズボンのポケットへ触れた。
中にはスマートフォンが入っている。
例の写真も、まだ消していない。
九郎は目の前にいる。
写真を見せるなら、今かもしれない。
周囲にはハナと善一がいる。九郎が取り乱しても、一人で川へ飛び込む前に止められる。
それに本人へ黙ったままにしておくのは、やはり卑怯な気がした。
「九郎」
「何だ」
「昨日、竿が戻ってきたときのこと、覚えてる?」
九郎は卵焼きを口へ入れながら、湊を見た。
「知らねえ」
「おまえが戻したんじゃないの?」
「違う」
「本当に?」
「俺なら、あんな目立つ手形つけねえよ」
湊の心臓が跳ねた。
「手形を見たの?」
「川上から見えた」
「どんな形だった?」
「緑色の手だろ」
「誰のものか、分からない?」
「分かってたら、おまえより先に調べてる」
九郎は不機嫌そうに味噌汁をすすった。
湊はポケットからスマートフォンを取り出した。
ハナが気づき、低い声で呼ぶ。
「湊」
止める声だった。
それでも湊は画面を開いた。
「九郎。見せたいものがある」
「写真なら嫌だって言っただろ」
「おまえを撮ったんじゃない。釣り竿だけ」
「なら勝手に見ろ」
「でも、そこに変なものが――」
九郎が眉間を押さえた。
箸が畳へ落ちる。
「九郎?」
湊はスマートフォンを置き、立ち上がった。
九郎は目を閉じ、両手で頭を抱えている。
呼吸が急に荒くなっていた。
「どうした」
善一が新聞を放り出し、九郎の隣へ来る。
「何でもねえ」
「何でもねえ顔じゃねえ」
「触んな!」
善一の手を払い、九郎は机から離れた。
立ち上がったものの、足元がふらついている。
「頭が痛いの?」
湊が尋ねる。
「うるせえ」
「昨日、川のまねっこに何かされたんじゃ――」
「違う!」
九郎の声が食堂に響いた。
赤い少女が、台所の柱の陰から顔を出す。
ハナにも善一にも見えていないのか、誰もそちらを見なかった。
少女だけが、九郎の頭上を見つめている。
その顔は青ざめていた。
「水」
九郎がかすれた声で言った。
ハナが水差しへ手を伸ばす。
「飲むのか」
「違う。かけろ」
「ここで?」
「早く!」
ハナは迷わなかった。
水差しの水を、九郎の頭へかけた。
普通なら、食堂で子どもの頭から水を浴びせる光景は、かなりおかしい。
しかし誰も笑わなかった。
水が髪を濡らし、九郎の頬と首筋を流れる。
九郎は大きく息を吸った。
苦しそうだった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「やっぱり河――」
湊は途中で口を閉じた。
言わないと約束したわけではない。
それでも、今ここで言うべきではないと思った。
九郎は濡れた顔を手でぬぐった。
「もう平気だ」
「何があったんだ」
善一が尋ねる。
「暑かっただけだ」
「朝だぞ」
「東京ぼっちゃんが、くだらねえ話ばっかりするから頭が痛くなった」
「ぼくのせいにするなよ」
「おまえが写真なんか見せようとするからだ」
「まだ見せてないだろ」
九郎は、はっとした顔になった。
「何の写真だ」
「今、自分で写真って言ったじゃん」
「おまえが言ったからだろ」
「どんな写真かは言ってない」
九郎は黙った。
自分でも、なぜその言葉が出たのか分からないようだった。
湊はテーブルに置いたスマートフォンを裏返した。
今は見せないほうがいい。
写真を見る前から、九郎の体は何かに反応している。
ハナの判断は正しかったのかもしれない。
それでも秘密を抱えている苦しさは消えなかった。
九郎は自分の席へ戻らず、窓のそばに立った。
「帰る」
「朝ごはんの途中だろ」
ハナが言う。
「もう腹いっぱいだ」
「卵焼きしか食ってねえべ」
「四個食えば十分だ」
「五個だ」
「四個だ!」
「台所で一個、席で四個」
「最初のは味見だって言ってんだろ!」
さっきまで苦しんでいたのに、数を指摘されるといつもの調子で怒る。
ハナは少し安心したように笑った。
「帰るなら、昼にまた来い。川魚焼くぞ」
「来ねえ」
「塩焼きだ」
九郎の足が止まる。
「……魚は、自分で捕れる」
「焼くのが面倒だべ」
「面倒じゃねえ」
「じゃあ来なくていい」
「最初から行かねえって言ってんだろ」
言いながら、九郎は昼食の時間を確認するように柱時計を見た。
本当に素直ではない。
湊は、写真のことを忘れたふりをして尋ねた。
「今日も川に来る?」
「行かねえ」
「魚を捕るなら、川へ行くだろ」
「おまえのいる川には行かねえ」
「川は、おまえのものじゃない」
「おまえのものでもねえ」
「じゃあ、会っても文句言うなよ」
「追いかけてきたら沈める」
「人間をすぐ沈めるな」
九郎は玄関へ向かった。
湊も見送るため後を追う。
外へ出ると、夏の光が一気に目へ入った。民宿の前には朝露の残る畑が広がり、遠くの山から薄い霧がほどけるように消えていくところだった。
九郎は裸足のまま砂利を歩いている。
痛くないのだろうか。
「九郎」
湊が呼ぶ。
九郎は面倒そうに振り返った。
「今度は何だ」
「さっき、頭が痛くなる前のこと、覚えてる?」
「おまえが写真を見せるって言った」
「その前」
「朝飯食ってた」
「もっと詳しく」
「何で尋問されなきゃならねえんだよ」
「大事かもしれないから」
九郎はしばらく考えた。
「ハナが卵焼きの数を間違えた」
「間違えたのは九郎だろ」
「それから、おまえが勝手に昔のことを聞いた」
「ハナさんが、年を数えない人もいるって言った」
九郎の表情が固まった。
湊は慎重に尋ねた。
「九郎は、何歳なの?」
「十一だ」
「ぼくと同じ?」
「たぶんな」
「誕生日は?」
「知らねえ」
「生まれた年は?」
「知らねえ」
「十一歳なのに?」
「そう教えられたから、そうなんだよ!」
九郎が声を荒らげた。
湊は一歩下がった。
怒らせたいわけではなかった。
ただ、普通の小学五年生なら自分の誕生日くらい知っている。学校へ行っていないとしても、家族が教えるはずだ。
「誰に教えられたの」
「誰って……」
九郎の言葉が止まった。
眉間へしわが寄る。
何かを思い出そうとしている。
「家族?」
「そうだ」
「お父さんか、お母さん?」
「違う」
「じゃあ誰?」
「ばあ……」
九郎は口を開いたまま黙った。
顔から血の気が引いていく。
「どうしたの」
「名前が」
「誰の?」
「違う。俺の……」
九郎は自分の胸をつかんだ。
「俺の名前、何だっけ」
湊の背中を、冷たいものが走った。
「川守九郎だろ」
「かわもり……くろう」
九郎は確かめるように、一音ずつ繰り返した。
「そうだ。川守九郎だ」
「大丈夫?」
「おまえに言われなくても大丈夫だ」
いつもの乱暴な言い方だったが、声は震えていた。
九郎は湊へ背を向けると、川の方向へ走り出した。
「待てよ!」
追いかけようとした湊の腕を、ハナがつかんだ。
いつの間にか玄関まで出てきている。
「今は行かせろ」
「でも、名前を忘れたんですよ」
「分かってる」
「どうして忘れるんですか」
ハナは答えなかった。
湊はスマートフォンを握りしめた。
写真の中では、九郎の皿から緑色の手が伸びていた。
押し入れの板壁には、『つぎは、くろう』と刻まれていた。
あれは九郎を襲うという意味ではなかったのかもしれない。
九郎の中から、何かを奪う。
最初に奪われるものが名前なのだとしたら。
「写真を見せなかったからですか」
湊が尋ねる。
「見せていれば、こうならなかった?」
「違う」
ハナは強く言った。
「おめえのせいじゃねえ」
「でも、ぼくが遠野へ来てから――」
「来る前から始まってた」
湊はハナを見上げた。
「何が?」
ハナの視線は、九郎が消えた川の方角へ向けられていた。
「遠野の連中が、自分の名前を忘れることだ」
そのとき、湊のポケットの中でスマートフォンが震えた。
例の写真が、誰も触れていないのに開いている。
写真の中にいた九郎の姿は消えていた。
代わりに緑色の手が、釣り竿の持ち手へ新しい文字を書いている。
『かわもり』
文字は水に流されるように薄れ、一文字ずつ消えていった。
最後に残ったのは、九郎という二文字だけだった。




