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ぼくの夏休み自由研究は、遠野で河童を釣ることです 〜妖怪好きの小学五年生、人間に化けた妖怪たちと三週間暮らす〜  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第8話 河童釣り一日目は、きゅうりを笑われた

翌朝、水城湊は、誰かに鼻をつままれて目を覚ました。


「んぐ……」


息ができない。


苦しくなって顔を振ると、鼻をつまんでいた指が離れた。湊は布団の上で跳ね起き、周囲を見回した。


窓から朝の光が差し込んでいる。


昨夜、枕元へ置いた自由研究ノート。


壁際の旅行かばん。


半開きになった押し入れ。


部屋の中には誰もいない。


「起こしたなら、最後までいろよ」


押し入れへ向かって言ったが、返事はなかった。


枕元のスマートフォンを見る。


午前五時十二分。


目覚ましを設定したのは六時半だった。


「早すぎるだろ……」


もう一度寝ようとして布団へ倒れ込む。


すると今度は、廊下から大きな音がした。


からん、ころん、がらがらがら。


何か丸いものが、床板の上を転がっている。


音は廊下の端から端まで進み、湊の部屋の前で止まった。


眠気より好奇心が勝った。


障子戸を開ける。


足元に、緑色のきゅうりが一本転がっていた。


昨日、食卓で見たものより少し曲がっている。表面には朝露のような水滴がつき、先端に細い紐が結ばれていた。


紐は廊下の奥まで続いている。


「河童釣りの餌?」


湊がきゅうりを拾うと、紐がぴんと張った。


誰かが向こう側から引いている。


「待て!」


きゅうりを放さず、廊下へ飛び出した。


紐は階段を下り、玄関のほうへ続いている。寝起きの足で追いかけると、板張りの床が冷たかった。


階段の途中で、紐が急に強く引かれた。


「うわっ」


湊は手すりへしがみついた。


もう少しで階段を転げ落ちるところだった。


紐の先から、くすくすと笑う声が聞こえる。


「おまえだろ!」


湊が叫ぶと、玄関の陰から赤い服の少女が半分だけ顔を出した。


「つれた」


「何が?」


「東京ぼっちゃん」


少女は満足そうに言った。


「ぼくは魚でも河童でもない」


「きゅうりでつれた」


「きゅうりを拾っただけだよ」


「同じ」


「全然違う。釣りは、針か仕掛けに魚がかかって、逃げられなくなって――」


少女が紐を引いた。


湊の手にあるきゅうりが動く。


思わず握り直した。


少女は、にいっと笑った。


「まだ、はなさない」


湊はきゅうりを見た。


確かに、放せばいいだけなのに握り続けている。


珍しいことが起きているから。


この先に何があるのか知りたいから。


少女の顔を見失いたくないから。


それだけで、簡単に引っ張られてしまった。


「昨日の川のやつと同じだって言いたいの?」


少女は答えず、手を放した。


張っていた紐が緩む。


「朝から説教するために起こしたのかよ」


「おなかすいた」


「それならハナさんを起こせばいいだろ」


「ハナ、起きてる」


「じゃあ、何でぼくなんだ」


「起きないから」


「六時前なんだから、起きなくて普通だよ」


少女は湊の格好を見て、笑った。


何がおかしいのかと思って下を見る。


着ているのは、河童の絵が全面に印刷されたパジャマだった。


去年の誕生日に、妖怪好きの湊のため、母親がインターネットで探してくれたものだ。


家では平気だった。


しかし本物かもしれない妖怪の前で着ていると、急に恥ずかしくなる。


「見るな」


「河童いっぱい」


「好きだから着てるだけだよ」


「変なの」


「赤い服しか着ないやつに言われたくない」


少女は自分の服を見下ろした。


「これ、好き」


「ぼくだって好きで着てる」


「じゃあ、かくさなくていい」


言われてみればそのとおりで、湊はパジャマを隠そうとしていた手を下ろした。


それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。


少女は廊下を歩き、食堂のほうへ向かった。


「待てよ。名前くらい教えて」


「いや」


「ぼくは教えたのに」


「勝手に聞いた」


「どこで?」


「ハナから」


「じゃあ、ぼくもハナさんに聞く」


少女が足を止めた。


振り向いた顔から笑みが消えている。


「聞くな」


「どうして?」


「知らないから」


「この家に昔からいるんだろ。知らないわけないじゃん」


「知らない」


少女はもう一度言った。


さっきより声が小さい。


怒っているというより、その話をされたくないようだった。


湊は質問を続けかけ、昨夜ノートへ書かれた言葉を思い出した。


本より先に決めるな。


本人が答えたくないことを、無理に聞くな。


理解したつもりでも、目の前に謎があると、どうしても知りたくなってしまう。


「じゃあ、今は聞かない」


少女が目を細めた。


「今は?」


「ずっと聞かないとは約束できない。でも、嫌がってる間は聞かない」


「面倒」


「何が?」


「おまえ、いちいち長い」


「ちゃんと説明しないと、あとで嘘つきって言うだろ」


少女は少し考えたあと、紐のついたきゅうりを湊から取り返した。


「朝ごはん」


「それ、食べるの?」


「ハナに切ってもらう」


「河童用じゃなかったのかよ」


「おまえ用」


「ぼくを釣る餌だったんだろ」


「釣ったあとは食べる」


「餌を?」


「もったいないから」


妖怪にも、食べ物を無駄にしない考えはあるらしい。


ただし、早朝から人を階段で転ばせかけることについては、あまり悪いと思っていないようだった。


食堂へ入ると、すでに朝食の支度が始まっていた。


ハナが台所と食堂を行き来し、善一は長机の前で湯飲みを両手に包んでいる。


「おはようございます」


湊が挨拶すると、ハナが振り返った。


「早えな。昨日、あんだけ騒いだのに眠れたのか」


「眠れました。でも、鼻をつままれて起こされました」


「誰に」


湊は隣を指さした。


赤い少女が立っていた場所には、誰もいない。


「また消えた」


「寝ぼけて自分でつまんだんじゃねえか?」


「そんな寝方する人間、いますか」


「善一は昔、自分の顔さ自分で平手打ちして起きたぞ」


善一が湯飲みから顔を上げた。


「蚊をたたいただけだ」


「ほっぺたに跡つくほどか」


「大きい蚊だった」


「話を作らないでください」


「作ってねえ」


二人が言い合っている間に、湊は長机へ座った。


朝食は、焼いた鮭、卵焼き、冷ややっこ、漬物、味噌汁だった。炊きたてのご飯から湯気が立っている。


昨日の昼食もおいしかったが、朝の食卓には別の安心感があった。


夜の廊下で母親の声を真似するものに呼ばれても、朝になれば味噌汁の匂いがする。


妖怪がいるかもしれない家でも、人間は腹が減るし、朝食の準備をする。


それが少し不思議だった。


「今日は川へ行っていいですか」


湊は味噌汁を一口飲んでから尋ねた。


ハナが卵焼きの皿を置く。


「行くのはいい。ただし善一と一緒だ」


「一人じゃ駄目なんですか」


「昨日の夜、何が来たかもう忘れたのか?」


「忘れてません。でも、昼間なら」


「昼間に駅の子から呼ばれて、行きそうになったのは誰だ」


「行ってません」


「行こうとはしたべ」


「心の中で考えただけです」


「考えた顔が外へ出てんだよ」


どうしてこの家の大人たちは、湊の顔を読もうとするのだろう。


「善一さんは、川まで来てくれるんですか」


「行く」


善一は短く答えた。


「河童釣りの経験は?」


「ねえ」


「じゃあ、ぼくが説明します」


「いらん」


「でも、河童釣りには普通の魚釣りと違う仕掛けが必要で、餌は一般的にはきゅうりを――」


「善一は昔から川さ入ってる」


ハナが遮った。


「魚のことも流れのことも、おめえより知ってる」


「河童のことは?」


「知ってても教えねえだろ」


「どうしてハナさんが答えるんですか」


「この人、待ってたら昼までしゃべらねえからだ」


善一は黙って卵焼きを口へ入れた。


それを見たハナが、すぐに箸を向ける。


「二個目だぞ」


「一個目だ」


「今食ったので二個目」


「さっきのは端だ」


「端だって一個は一個だ」


「切り方が悪い」


「切った私のせいにすんな」


湊は二人の皿を見比べた。


善一の皿には卵焼きが一つ少ない。


ハナは数まで覚えている。


夫婦というものは、四十年前の煮魚だけでなく、今朝の卵焼きの数でも揉めるらしい。


「一つくらい、いいじゃないですか」


湊が言うと、ハナは真顔で振り向いた。


「湊。食い物の一つくらいを甘く見るな」


「でも、まだいっぱいあります」


「これは数の話じゃねえ。何も言わず取ったことが問題なんだ」


「おめえの皿じゃねえ」


善一が言う。


「大皿から取った」


「一人二個の予定だった」


「聞いてねえ」


「言わなくても見りゃ分かるべ」


「言わなくても分かれって顔すんなって、昨日自分で言ってたでしょう」


湊が指摘すると、ハナが黙った。


善一が湯飲みで口元を隠した。


たぶん笑っている。


「……今日は一人三個にする」


ハナは大皿を中央へ押し出した。


「最初からそうすりゃいい」


「善一、四個目はねえぞ」


「まだ三個目も食ってねえ」


朝から面倒な会話である。


しかし湊は、こういう食卓が少し好きになり始めていた。


食事を終えたあと、善一は納屋から古い竹籠と小さなバケツを出した。


湊は自分の釣り竿、仕掛け、自由研究ノート、スマートフォン、帽子、水筒、タオル、虫よけを肩掛け鞄へ詰める。


「荷物多すぎねえか」


善一が言った。


「全部必要です」


「川まで歩いて十分だぞ」


「途中で何があるか分からないから」


「遠足じゃねえ」


「遠足でも、忘れ物をすると母さんにずっと言われます」


「敷物か」


湊は手を止めた。


「どうして知ってるんですか」


「昨日、電話の声が聞こえた」


「部屋の中の話ですよ」


「古い家は声が響く」


「全部聞こえたんですか」


「寂しかったって言う前でやめたところまで」


湊の顔が熱くなる。


「そこは忘れてください」


「忘れた」


「今、覚えてるでしょう」


「もう忘れた」


「絶対、覚えてる人の言い方だ」


善一は答えず、玄関へ向かった。


湊は帽子をかぶり、その後を追う。


外へ出ると、朝の空気は思っていたより涼しかった。


昨夜の暗闇と同じ場所とは思えない。


畑の葉には水滴が残り、日差しを受けて光っている。遠くの田んぼからは、風に揺れる稲の音が聞こえた。


山の上には白い雲。


道端には青や紫の小さな花が咲き、草むらから虫が一斉に飛び立つ。


湊は何度も立ち止まりそうになった。


「遠野って、朝だけ別の町みたいですね」


「夜と同じ町だ」


「見え方が違います」


「人間の目が暗いだけだべ」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


「分かってるなら、普通に答えてください」


善一は振り返らず、細い道を歩いていく。


道の片側には田んぼが広がり、反対側には木々が並んでいる。用水路を流れる水は速く、ところどころに小さな橋が架かっていた。


「この水は、どこから来るんですか」


「山だ」


「山のどこ?」


「上」


「説明が大きすぎます」


「川や沢から引いてる。田んぼへ水入れて、余ったのがまた下さ流れる」


「冬は凍りますか」


「凍るところもある」


「雪はどれくらい積もるんですか」


「年による」


「善一さん、質問に答える気あります?」


「答えてる」


「全部短すぎるんですよ」


「歩きながら長話すると、息切れすっからな」


「ぼくはしません」


「俺がする」


七十三歳なのだから、それなら仕方がない。


湊は少し歩調を緩めた。


善一は何も言わなかったが、先ほどより歩く速度が合うようになった。


十分ほど進むと、木立の向こうから川の音が大きくなった。


昨日、民宿から見た川より幅がある。


水は澄んでいるが、場所によって青や緑に見えた。大きな石の間を白い泡が流れ、木陰では水面が鏡のように暗くなっている。


川辺の涼しさに、湊は息をのんだ。


「ここで釣っていいんですか」


「浅いところならな」


善一は川岸の一角を指さした。


足場が平らで、流れも比較的穏やかだ。岸には、誰かが以前座ったような丸太まで置かれている。


湊は急いで道具を広げた。


釣り糸の先へ、きゅうりを輪切りにした餌を結びつける。針を使わず、紐で縛る方法にしたのは、河童を傷つけたくないからだ。


「それで釣れんのか」


善一が言った。


「河童はきゅうりが好きという話が多いんです。名字に『河童』や『川』がつく家では、河童へきゅうりを供えることもあって――」


「河童にも好みはあんだろ」


昨日から何度も言われている。


「最初は一般的な餌で試すんです。反応がなければ、味噌をつけるとか、魚を使うとか、条件を変えます」


「研究らしくなってきたな」


「最初から研究です」


湊は胸を張り、釣り竿を振った。


餌のついた糸が弧を描き、川へ落ちる。


ぽちゃん。


小さな波紋が広がった。


ついに始まった。


遠野での河童釣り。


湊は丸太へ座り、竿を握った。


水面を見つめる。


一分。


二分。


三分。


何も起きない。


「河童って、すぐ食いつかないんですか」


善一に尋ねる。


「知らん」


「善一さんが聞いた話では?」


「釣ったことねえ」


「見たことは?」


善一は川上を見た。


答えない。


湊は、それ以上聞かなかった。


風が木々を揺らす。


鳥の声。


水の音。


東京では、静かだと思う場所にも車や電車の音が混じっていた。ここには人間の作った音がほとんどない。


しかし本当の意味で静かなわけではない。


虫も鳥も川も、ずっと何かを話している。


湊が少し気を抜いたとき、竿の先が動いた。


「来た!」


立ち上がり、竿を引く。


重い。


何かが餌をつかんでいる。


「善一さん、手応えがあります!」


「慌てんな」


「河童だったら、慌てるでしょう!」


糸を巻く。


水面の下に黒い影が見えた。


大きい。


魚ではない。


丸い頭のようなものが、水面近くまで上がってくる。


「本当に河童かも!」


湊は夢中で竿を引いた。


影が川面を破る。


飛び出してきたのは、黒く泥のついた古い鍋だった。


「……鍋」


湊の声がしぼむ。


鍋の取っ手へ紐が絡まっていたらしい。


善一が、喉の奥で笑った。


「笑わないでください」


「笑ってねえ」


「肩が動いてます」


「咳だ」


「咳でそんなに楽しそうな顔になりません」


湊は鍋を岸へ引き上げた。


穴が空き、半分は赤茶色にさびている。


自由研究ノートへ書くべきか迷う。


河童ではない。


しかし河童釣り一日目に釣れたものとして、記録する価値はあるかもしれない。


「写真、撮るか」


善一が言った。


「鍋を?」


「最初の獲物だべ」


「獲物じゃありません」


「東京へ持って帰るか」


「いりません」


「鱗より大きい証拠になるぞ」


「何の証拠ですか」


「遠野の川には鍋がいる」


湊は善一をにらんだ。


この人は無口だと思っていたが、慣れてくると意外にからかってくる。


鍋を脇へ置き、もう一度餌をつけた。


そのとき、川向こうの木陰から声がした。


「そんなもんで釣れるわけねえだろ」


湊は顔を上げた。


駅で会った少年が、大きな岩の上に座っていた。


紺色の半袖。


水に濡れた黒い髪。


裸足の足を川へ入れ、面白そうにこちらを見ている。


「やっと出たな!」


湊が叫ぶ。


「朝から待ってたのか、東京ぼっちゃん」


「今、始めたところだよ」


「鍋釣って喜んでたくせに」


「喜んでない!」


少年は笑った。


善一は立ち上がらず、少年をじっと見ている。


少年も善一へ目を向けた。


二人の間に、見えない糸が張ったような沈黙が生まれた。


「知り合いなんでしょう」


湊が善一へ尋ねる。


「知らん」


少年も同時に言った。


「知らねえじいさんだ」


声がそろっている。


どう見ても、何かを隠している。


「じゃあ、どうして二人ともそんな嫌そうな顔をしてるんだよ」


「おまえがうるせえからだ」


少年が答えた。


「ぼくのせいにするな」


「河童を釣るって騒いで、きゅうりを川へ投げてるやつが静かだと思うか?」


「投げてない。仕掛けにつけてる」


「同じだ」


「同じじゃない」


「河童は、きゅうりなんかで釣れねえよ」


少年は岩から立ち上がった。


「それに、きゅうりが好きだって決めつけられるの、迷惑なんだよ」


湊は竿を握ったまま、少年を見つめた。


「どうして、おまえが河童の気持ちを知ってるんだ」


「知ってるからだ」


「河童に聞いたのか?」


「さあな」


「おまえ自身が河童なのか?」


少年の顔から笑いが消えた。


川の音が、急に大きく聞こえる。


善一が低い声で言った。


「湊。そこまでにしろ」


「でも」


「本人が言いたくねえことを追うなって、昨日覚えたばっかりだべ」


湊は口を閉じた。


少年は意外そうに善一を見たあと、鼻で笑った。


「少しはましなじいさんになったな」


「おめえに言われたくねえ」


善一が返した。


やはり知り合いだ。


「名前くらい教えてよ」


湊は質問を変えた。


「ぼくは水城湊。知ってるみたいだけど」


少年はしばらく答えなかった。


川から足を上げ、岩の上へしゃがみ込む。


「川守九郎」


「かわもり、くろう?」


「何だよ」


「九郎って、九人兄弟の九番目?」


「違う」


「じゃあ、どうして九郎?」


「知らねえよ。つけたやつに聞け」


「家族はどこにいるの?」


「質問は一個ずつにしろ!」


九郎が声を上げた。


湊はノートを開き、名前を書き込んだ。


『川守九郎。地元の少年。河童について詳しい。きゅうりが好きだと決めつけられることを嫌う。』


「勝手に書くな」


九郎が岩の上から身を乗り出す。


「記録です」


「消せ」


「名前しか書いてない」


「その次も読める」


「目がいいな」


「いいから消せ!」


「間違ってるなら訂正するよ」


「全部だ!」


九郎は川へ飛び込んだ。


水しぶきが上がる。


次の瞬間には、流れの速い川の中を、こちらへ向かって歩いていた。


膝。


腰。


胸。


それほど深い場所なのに、流される気配がない。


湊が驚いている間に、九郎は岸へ上がった。


服も髪もびしょ濡れだった。


しかし息一つ乱れていない。


「ノートを貸せ」


「嫌だ」


「貸せ!」


「破る気だろ!」


「そのページだけだ!」


「それを破るって言うんだよ!」


二人でノートを引っ張り合う。


善一が間へ手を出した。


「やめろ。破れるぞ」


「こいつが勝手に書くからだ!」


「名前を教えたのはおまえだべ」


「書いていいとは言ってねえ!」


「九郎の言い分も分かります」


湊は手を緩めずに言った。


「だったら放せ!」


「でも、ぼくの自由研究です」


「俺は研究材料じゃねえ!」


その一言に、湊の手から力が抜けた。


九郎が勢い余って後ろへ転びそうになり、善一に襟をつかまれる。


「急に放すな!」


「放せって言っただろ」


「今のは放し方が悪い!」


「面倒くさいな!」


「おまえに言われたくねえ!」


昨日、赤い少女とも同じ会話をした気がする。


遠野で出会うものは、人間でも妖怪でも面倒な者ばかりなのかもしれない。


湊はノートを開き、先ほど書いた文章へ線を引いた。


名前だけを残し、その下へ書き直す。


『本人の許可なく、詳しいことを書かない。』


九郎が目を細めた。


「それも書くのか」


「忘れないように」


「そんなこと、いちいち書かなきゃ忘れるのかよ」


「忘れるかもしれないから書くんだよ」


「変なやつ」


「おまえも」


二人はにらみ合った。


善一が間でため息をつく。


「似たもん同士だな」


「どこが!」


湊と九郎の声が、また同時に重なった。


その瞬間、川に垂らしたままだった釣り竿が、大きく引かれた。


竿が丸太から落ち、川へ滑っていく。


「しまった!」


湊が手を伸ばしたが、届かない。


九郎が素早く竿をつかんだ。


ところが川の中の何かは、九郎ごと引き込もうとするほど強い。


「何だ、これ」


九郎の顔色が変わった。


「河童?」


「違う!」


水面の下で、黒い影がうごめいた。


昨日の夜、障子戸へ映ったものと同じように、頭が大きく、腕の長い影。


九郎は竿を手放さない。


「放せ!」


善一が叫んだ。


「こいつ、湊の名前を覚えやがった!」


川の中から、母親の声がした。


「湊、こっちへおいで」


釣り糸が激しく引かれる。


九郎の裸足が、川岸の泥を滑った。


湊は反射的に九郎の腰へしがみついた。


「離せ、東京ぼっちゃん!」


「おまえが流されるだろ!」


「俺は平気だ!」


「平気なやつは、そんな顔しない!」


善一も二人をつかむ。


人間と、河童かもしれない少年と、七十三歳の老人が、一本の安い釣り竿を挟んで川の何かと引っ張り合った。


河童釣り一日目。


湊が最初に釣り上げかけたのは、河童ではなかった。


昨夜、母親の声を盗んだものだった。


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