表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぼくの夏休み自由研究は、遠野で河童を釣ることです 〜妖怪好きの小学五年生、人間に化けた妖怪たちと三週間暮らす〜  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/9

第7話 母さんの声をした、母さんではないもの

「湊、迎えに来たわよ」


障子戸の向こうから、母親の声がした。


声だけなら、奈緒そのものだった。


少し低くて、疲れているときには語尾がわずかにかすれる。湊を叱るときよりも、学校から帰ってきた息子へ「おかえり」と言うときに近い声だ。


けれど、母親が今ここにいるはずはない。


夕方の列車で東京へ戻った。新幹線に乗っているか、乗り換えの駅にいるころだろう。どれほど急いでも、民宿の廊下に立てるわけがない。


分かっている。


それなのに、湊の右手は障子戸へ伸びた。


「湊」


戸の向こうで、母親がもう一度呼ぶ。


先ほどの三回には数えないのだろうか。


それとも、もう四回目だから返事をしてもいいのか。


湊は唇を強く結んだ。


返事をしてはいけない。


開けてもいけない。


しかし、もし本当に母親だったら。


仕事がなくなり、心配になって戻ってきたのかもしれない。駅から電話をしたのに通じず、ハナに送ってもらった可能性だって、まったくないとは言えない。


障子戸の下から流れ込んだ水が、湊の足元へ触れた。


冷たい。


畳の目に沿って広がっていく水には、川底の泥のような匂いが混じっていた。


「開けて」


奈緒の声が言った。


「お母さん、手がふさがっているの」


湊の指先が、取っ手へ触れた。


その瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。


母親は、自分のことを「お母さん」と呼ぶ。


それは珍しくない。


けれど、旅行かばんや荷物で手がふさがっているなら、先に「悪いけど開けて」と言うはずだ。迎えに来たとも言わない。自分が帰る側なのだから、「戻ってきた」か「ただいま」だろう。


何より、奈緒なら障子戸の前で大人しく待っていない。


返事がなければ、勝手に開ける。


「母さん」


湊は、戸を開けずに言った。


返事をしてしまった。


まずいと思ったが、もう声は出ている。


障子戸の向こうで、何かが息を吸う音がした。


「なあに?」


やはり母親の声だった。


湊は喉の渇きを感じながら尋ねた。


「ぼくが二年生のとき、遠足に何を忘れた?」


戸の向こうが静かになった。


「……水筒でしょう?」


「違う」


「お弁当?」


「それも違う」


湊は戸から一歩離れた。


二年生の春の遠足で忘れたのは、敷物だった。


正確には、忘れたのではない。母親が玄関へ置いてくれたのに、自分が持たずに出た。昼食のとき、和也の敷物へ無理やり半分入れてもらい、狭いと文句を言われた。


母親は今でも、ときどきその話をする。


「母さんじゃない」


湊が言うと、向こうの声が少し低くなった。


「どうして?」


「母さんなら覚えてる」


「忘れることもあるわ」


「母さんは、ぼくの失敗だけはずっと覚えてるんだよ」


言っていて少し悲しくなったが、それは事実だった。


戸の向こうで、くす、と笑う声がした。


母親の笑い方ではない。


もっと幼く、それでいて冷たい笑いだった。


「開けてよ、湊」


声が変わった。


今度は妹の美海だった。


「お兄ちゃん。河童、いた?」


湊の背中に鳥肌が立った。


「美海も来たよ。開けて」


戸の下から流れ込む水が増えた。


畳の半分ほどまで濡れ、湊の靴下にも染み込んでいる。


「開けてくれないの?」


美海の声が、寂しそうに言う。


「お兄ちゃん、わたしのこと嫌い?」


「そういうこと言うなよ」


思わず答えると、戸の向こうで笑い声が上がった。


湊は口を押さえた。


返事をさせようとしている。


何のために。


返事をするたび、相手はこちらへ近づいているのかもしれない。


障子戸の紙に、黒い影が映った。


子どもの形ではない。


頭が大きく、背中が丸く盛り上がっている。両腕は膝より長く、指先が床へつきそうだった。


影が一歩近づく。


障子紙が、水を吸ったようにじわりと黒くなった。


「湊」


今度は父親の声だった。


「開けなさい。お父さんだ」


「父さんは、ぼくにそんな言い方しない」


「では、何と言う?」


戸の外のものは、父親の声のまま尋ねた。


その質問がおかしかった。


本物の父親なら、自分が何と言うかを湊に聞いたりしない。


「教えない」


「どうして?」


「次から真似するつもりだろ」


返事はなかった。


代わりに、戸が小さく揺れた。


がた。


湊は机の上にあったスマートフォンをつかんだ。


ハナか善一へ電話をしようとする。


しかし画面の上には、圏外と表示されていた。


昼間はつながっていたはずだ。


民宿の中だから電波が弱いだけかもしれない。それでも今、この瞬間だけつながらないのは偶然とは思えなかった。


戸がもう一度揺れた。


がた、がた。


取っ手が少しずつ下がっていく。


鍵はない。


向こうから開けようと思えば、簡単に開けられる。


湊は部屋の中を見回した。


武器になりそうなものは、釣り竿くらいしかない。


河童を釣るために持ってきた竿を、人間の声を真似る妖怪に向けることになるとは思わなかった。


竿を両手で握り、障子戸へ向ける。


「入ってきたら、たたくからな」


声が少し震えた。


戸の向こうから、和也の声がした。


「怖いんだろ、妖怪博士」


「和也まで真似するな!」


「妖怪に会いたかったんじゃないのかよ」


教室で聞いたような、からかう声。


「本物が出たのに、隠れてるの?」


「会いたいのと、勝手に部屋へ入られるのは違う!」


「言い訳ばっかり」


「おまえに言われたくない!」


返事をした。


また乗せられた。


自分でも分かっているのに、腹の立つことを言われると黙っていられない。


障子戸が、ほんの一センチほど開いた。


隙間から、濡れた指が差し込まれる。


人間の指より細長く、爪の間には黒い泥が詰まっていた。


湊は釣り竿を振り下ろした。


「出ていけ!」


竿の先が指へ当たる寸前、部屋の隅から赤い影が飛び出した。


赤い服の少女だった。


少女は湊の机へ飛び乗ると、そこに置かれていた湯飲みをつかみ、障子戸へ向かって投げた。


「何するんだ!」


湯飲みは戸へぶつからなかった。


宙を飛んでいる途中で、中から水が広がった。


昼間に飲んだお茶ではない。


透き通った水が、まるで薄い布のように広がり、障子戸を内側から覆った。


戸の向こうで、低いうなり声が上がる。


母親でも妹でも父親でもない。


川底で大きな石をこすり合わせたような、不快な音だった。


濡れた指が引っ込む。


戸の隙間から黒い水が噴き出したが、少女が両手を広げると、見えない壁にぶつかったように床へ落ちた。


「おまえ……」


湊が呼びかける。


少女は振り向き、人差し指を唇へ当てた。


しゃべるな。


そう言っているらしい。


廊下から、また奈緒の声がした。


「湊。開けて」


少女は首を横に振る。


「母さんが心配でしょう?」


湊は黙った。


「電話が来ないのは、事故に遭ったからよ」


胸が跳ねた。


八時を過ぎても連絡がない。


列車が止まったのかもしれない。


何かあったのかもしれない。


「助けに行かなくていいの?」


戸の向こうの声は、湊の心の中を読んだように続けた。


「川に来れば分かるわ」


赤い少女が机から飛び降り、湊のすねを蹴った。


痛い。


だがその痛みで、頭の中の霧が少し晴れた。


母親が事故に遭ったのなら、川に行っても分かるはずがない。


これは湊を川へ連れ出したいだけだ。


「行かない」


湊は、できるだけはっきり言った。


赤い少女が、また唇へ指を当てる。


「これは返事じゃない。断っただけ」


湊が小声で言うと、少女は呆れたように目を細めた。


戸の外から、少年の声が聞こえた。


「怖がり」


遠野駅と川辺で会った、あの少年の声だった。


「来るって言ったのに」


「言ってない!」


また答えてしまった。


赤い少女が額を押さえた。


「だって、言ってないだろ」


湊は少女へ言い訳した。


少女は両手で大きな丸を作り、それから指を三本立てた。


三回。


すでに数えきれないほど答えている。


「最初にちゃんと説明してくれなかったハナさんも悪いと思う」


少女の眉がつり上がった。


どうやら、今はハナのせいにする場面ではないらしい。


障子戸の外で、水をかく音がした。


ばしゃり。


ばしゃり。


何かが廊下を歩いている。


影が戸の前から離れ、少しずつ遠ざかっていく。


階段の方向へ向かっているようだった。


「帰った?」


湊が小声で尋ねると、赤い少女は耳を澄ませた。


そのとき、湊のスマートフォンが鳴った。


大きな着信音に、二人とも飛び上がった。


画面には「母さん」と表示されている。


湊はすぐに通話ボタンを押しかけ、指を止めた。


本物だろうか。


電話まで真似できる妖怪かもしれない。


「出ないの?」


赤い少女が、初めて口を開いた。


思っていたより普通の、幼い女の子の声だった。


「しゃべれるの?」


「出ないの?」


「これ、本物の母さんかな」


「知らない」


「知らないのかよ」


「わたし、おまえの母さん知らないもん」


もっともだった。


着信音は鳴り続けている。


湊は恐る恐る通話ボタンを押した。


「もしもし」


『湊? ごめん、遅くなって』


奈緒の声だった。


先ほど戸の外から聞こえた声と同じはずなのに、まったく違って聞こえた。


息づかいがある。


駅の放送らしい音が、遠くに混じっている。


『乗り換えの途中で連絡しようと思ったら、スマートフォンの充電が切れたの。今、駅で充電器を借りて――湊? 聞こえてる?』


「聞こえてる」


『怒ってる?』


「少し」


『それはそうよね。忘れないと言ったのに』


「事故じゃない?」


『事故? 何の話?』


「何でもない」


本物だ。


本物の母親は、湊が突然言ったことを理解できずに聞き返す。


妖怪のように、都合よく話をつなげたりしない。


安心した途端、目の奥が熱くなった。


『湊、本当に大丈夫?』


「大丈夫」


『声が変よ』


「変じゃない」


『泣いてるの?』


「泣いてない。さっきから、みんなそればっかり言う」


『みんなって誰?』


湊は赤い少女を見た。


少女は床へ座り込み、湊の自由研究ノートを勝手に開いている。


『ハナさんたちと一緒なの?』


「一人じゃない」


嘘ではない。


ただし相手が人間かどうかは分からない。


『昼間はごめんね』


母親が言った。


『急に帰ることになったのに、ちゃんと話せなくて』


「ぼくも、ごめん」


言葉は驚くほど簡単に出た。


目の前にいると、どうして言えなかったのだろう。


『何が?』


「邪魔だから帰るんだって言ったこと。母さんがいないほうがいいって言ったこと。本当は、ちょっとだけ……」


寂しかった。


そう言おうとした。


しかし、やはり途中で止まった。


『ちょっとだけ?』


「駅まで見送りに行けばよかった」


それが限界だった。


奈緒はしばらく黙った。


『私も、もう少し一緒にいたかった』


「仕事なのに?」


『仕事でも寂しいものは寂しいの』


「大人なのに?」


『大人になったら寂しくなくなるなんて、誰が言ったの』


ハナも善一も、似たようなことを言っていた。


大人だから分かるわけではない。


大人だから平気なわけでもない。


『でも、三週間たったら迎えに行くから』


「うん」


『自由研究、無茶しないでね』


「無茶の基準が分からない」


『大人に言うなと言われた場所へ、一人で行かない』


湊は黙った。


どうして母親は、見ていないのに分かるのだろう。


『今、心当たりがあるでしょう』


「ないとは言ってない」


『やっぱりあるのね』


「行ってないよ」


『これからも行かないで』


「一人では行かない」


『その言い方、誰かとなら行くつもりでしょう』


「善一さんとか」


『善一さんがいいと言ったらね』


「分かってる」


『本当に?』


「本当に分かってる人は、すぐ本当にって言わないんだろ。もう何回も聞いた」


電話の向こうで奈緒が笑った。


『遠野の大人たちにも言われたの?』


「大人はみんな同じこと言う」


『それだけ、湊の返事が信用されていないということよ』


「母さんまで言うなよ」


母親との通話が終わったころには、床に広がっていた水は消えていた。


畳は乾いている。


障子戸も濡れていない。


まるで何も起きなかったようだった。


赤い少女は机の前へ座り、湊のノートへ何かを書いていた。


「勝手に書くなよ」


少女は振り向かない。


「それ、ぼくの自由研究だから」


少女がノートを閉じ、湊へ放り投げた。


開くと、今日の日付の下に赤い字が増えている。


『にせものは、しりたいことをいう』


その下に、少し間を空けて。


『ほんものは、ききたくないこともいう』


湊は思わず笑った。


「確かに母さんは、聞きたくないことばっかり言う」


少女も少しだけ笑った。


「名前、教えてよ」


湊が尋ねると、少女の笑顔が消えた。


「言わない」


「じゃあ、座敷わらし?」


「ちがう」


「でも、この家に昔からいて、赤い服で、子どもの姿をしていて――」


少女は湊の枕をつかみ、顔へ投げつけた。


「本より先に決めるな!」


善一と同じことを言った。


枕を受け止めた湊は、むっとして少女を見る。


「じゃあ、自分で教えろよ」


「いや」


「教えないのに、間違えると怒るの?」


「怒る」


「面倒くさいな」


「おまえも」


少女は即答した。


言い返そうとしたが、否定しきれなかった。


「さっきのは何?」


「川のまねっこ」


「妖怪の名前?」


「知らない」


「どうして助けてくれたの?」


「うるさかったから」


「ぼくが?」


「あいつが」


少女は障子戸を指さした。


「名前を呼んで、返事をもらって、声を覚える。声を覚えたら、大事な人のまねをする。外へ出たら、川まで連れていく」


「川へ連れていって、どうするの?」


少女は少し考え、両手で何かを水中へ引き込むしぐさをした。


「沈める?」


「遊ぶ」


「沈められるほうは遊びじゃないよ」


「向こうは遊び」


それがいちばん厄介だった。


悪いことをしているつもりがない相手は、反省しない。


「駅で会った少年と、同じやつ?」


少女は首を横に振った。


「ちがう」


「じゃあ、あの少年の声も真似しただけ?」


「半分」


「半分って何だよ」


「半分は、あいつ」


「どっちのあいつ?」


「川の」


話がまったく分からない。


湊が質問を重ねようとしたとき、階下で玄関戸の開く音がした。


「ただいまー! 善一、湊は川さ行ってねえべな!」


ハナの声だった。


続いて善一が下から答える。


「行ってねえ」


「本当か?」


「川辺までは行った」


「行ってんじゃねえか!」


「俺も一緒だ」


「先にそれ言え!」


赤い少女が、すっと立ち上がった。


「ハナさんに会わないの?」


湊が尋ねる。


少女は答えず、押し入れを開けた。


「またそこ?」


「見るな」


「人の部屋の押し入れだぞ」


「わたしの家」


「今日から、ぼくの部屋でもある」


「三週間だけ」


その一言が、なぜか胸へ引っかかった。


少女は押し入れへ入り、戸を閉めかけた。


「待って」


湊が呼び止める。


「また会える?」


少女は隙間から片目だけを見せた。


「追いかけなければ」


「それ、会えるのか会えないのか、どっち?」


「おまえが面倒じゃなければ」


戸が閉まった。


「おまえにだけは言われたくない」


湊が押し入れへ言い返したところで、ハナが部屋へ入ってきた。


濡れた畳も、黒い影も見ていないハナは、枕を抱えて押し入れへ文句を言う湊を見て、深いため息をついた。


「母ちゃんが帰って三時間で、もう押し入れと喧嘩してんのか」


「違います。中に女の子が」


「開けんなよ」


「どうして?」


「さっき布団、直したばっかりだからだ」


ハナは部屋を見回し、わずかに鼻を動かした。


「川の匂いがするな」


湊は黙った。


ハナの顔から笑いが消える。


「誰に呼ばれた」


「母さんの声に」


ハナは押し入れを見た。


それから、湊のノートに書かれた赤い文字を見る。


「返事したか」


「何回か」


「何回だ」


「途中から数えてません」


ハナは額へ手を当てた。


「三回目まで返事すんなって言ったべ!」


「説明が曖昧なんですよ! 三回目までは駄目なら、四回目からいいみたいに聞こえるでしょう!」


「一回もするなって意味に決まってっぺ!」


「だったら最初から、一回もするなって言ってください!」


廊下に立っていた善一が、ぼそりと言った。


「それはハナが悪い」


「何で私だけ悪者なんだ!」


「言い方が悪い」


「昔から、この言い方なんだよ!」


「東京の子には通じん」


「おめえまで、この子の味方すんのか!」


三人の声が重なり、静かだった民宿が急に騒がしくなった。


押し入れの奥から、くすくすと笑う声が聞こえる。


ハナは押し入れをにらみつけた。


「おめえも笑ってねえで、先に知らせろ!」


返事の代わりに、丸めた靴下が一足、押し入れから飛んできた。


ハナの顔へ当たる。


湊は耐えきれずに笑った。


ハナは靴下をつかみ、湊へ投げ返す。


「笑うな! それ、おめえの靴下だべ!」


「ぼくのじゃありません」


「名前、書いてあんぞ」


見ると、確かに「みずきみなと」と母親の字で書かれている。


「いつ取ったんだよ!」


押し入れの向こうから、少女の楽しそうな笑い声がした。


遠野で過ごす最初の夜は、まだ始まったばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ