第7話 母さんの声をした、母さんではないもの
「湊、迎えに来たわよ」
障子戸の向こうから、母親の声がした。
声だけなら、奈緒そのものだった。
少し低くて、疲れているときには語尾がわずかにかすれる。湊を叱るときよりも、学校から帰ってきた息子へ「おかえり」と言うときに近い声だ。
けれど、母親が今ここにいるはずはない。
夕方の列車で東京へ戻った。新幹線に乗っているか、乗り換えの駅にいるころだろう。どれほど急いでも、民宿の廊下に立てるわけがない。
分かっている。
それなのに、湊の右手は障子戸へ伸びた。
「湊」
戸の向こうで、母親がもう一度呼ぶ。
先ほどの三回には数えないのだろうか。
それとも、もう四回目だから返事をしてもいいのか。
湊は唇を強く結んだ。
返事をしてはいけない。
開けてもいけない。
しかし、もし本当に母親だったら。
仕事がなくなり、心配になって戻ってきたのかもしれない。駅から電話をしたのに通じず、ハナに送ってもらった可能性だって、まったくないとは言えない。
障子戸の下から流れ込んだ水が、湊の足元へ触れた。
冷たい。
畳の目に沿って広がっていく水には、川底の泥のような匂いが混じっていた。
「開けて」
奈緒の声が言った。
「お母さん、手がふさがっているの」
湊の指先が、取っ手へ触れた。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
母親は、自分のことを「お母さん」と呼ぶ。
それは珍しくない。
けれど、旅行かばんや荷物で手がふさがっているなら、先に「悪いけど開けて」と言うはずだ。迎えに来たとも言わない。自分が帰る側なのだから、「戻ってきた」か「ただいま」だろう。
何より、奈緒なら障子戸の前で大人しく待っていない。
返事がなければ、勝手に開ける。
「母さん」
湊は、戸を開けずに言った。
返事をしてしまった。
まずいと思ったが、もう声は出ている。
障子戸の向こうで、何かが息を吸う音がした。
「なあに?」
やはり母親の声だった。
湊は喉の渇きを感じながら尋ねた。
「ぼくが二年生のとき、遠足に何を忘れた?」
戸の向こうが静かになった。
「……水筒でしょう?」
「違う」
「お弁当?」
「それも違う」
湊は戸から一歩離れた。
二年生の春の遠足で忘れたのは、敷物だった。
正確には、忘れたのではない。母親が玄関へ置いてくれたのに、自分が持たずに出た。昼食のとき、和也の敷物へ無理やり半分入れてもらい、狭いと文句を言われた。
母親は今でも、ときどきその話をする。
「母さんじゃない」
湊が言うと、向こうの声が少し低くなった。
「どうして?」
「母さんなら覚えてる」
「忘れることもあるわ」
「母さんは、ぼくの失敗だけはずっと覚えてるんだよ」
言っていて少し悲しくなったが、それは事実だった。
戸の向こうで、くす、と笑う声がした。
母親の笑い方ではない。
もっと幼く、それでいて冷たい笑いだった。
「開けてよ、湊」
声が変わった。
今度は妹の美海だった。
「お兄ちゃん。河童、いた?」
湊の背中に鳥肌が立った。
「美海も来たよ。開けて」
戸の下から流れ込む水が増えた。
畳の半分ほどまで濡れ、湊の靴下にも染み込んでいる。
「開けてくれないの?」
美海の声が、寂しそうに言う。
「お兄ちゃん、わたしのこと嫌い?」
「そういうこと言うなよ」
思わず答えると、戸の向こうで笑い声が上がった。
湊は口を押さえた。
返事をさせようとしている。
何のために。
返事をするたび、相手はこちらへ近づいているのかもしれない。
障子戸の紙に、黒い影が映った。
子どもの形ではない。
頭が大きく、背中が丸く盛り上がっている。両腕は膝より長く、指先が床へつきそうだった。
影が一歩近づく。
障子紙が、水を吸ったようにじわりと黒くなった。
「湊」
今度は父親の声だった。
「開けなさい。お父さんだ」
「父さんは、ぼくにそんな言い方しない」
「では、何と言う?」
戸の外のものは、父親の声のまま尋ねた。
その質問がおかしかった。
本物の父親なら、自分が何と言うかを湊に聞いたりしない。
「教えない」
「どうして?」
「次から真似するつもりだろ」
返事はなかった。
代わりに、戸が小さく揺れた。
がた。
湊は机の上にあったスマートフォンをつかんだ。
ハナか善一へ電話をしようとする。
しかし画面の上には、圏外と表示されていた。
昼間はつながっていたはずだ。
民宿の中だから電波が弱いだけかもしれない。それでも今、この瞬間だけつながらないのは偶然とは思えなかった。
戸がもう一度揺れた。
がた、がた。
取っ手が少しずつ下がっていく。
鍵はない。
向こうから開けようと思えば、簡単に開けられる。
湊は部屋の中を見回した。
武器になりそうなものは、釣り竿くらいしかない。
河童を釣るために持ってきた竿を、人間の声を真似る妖怪に向けることになるとは思わなかった。
竿を両手で握り、障子戸へ向ける。
「入ってきたら、たたくからな」
声が少し震えた。
戸の向こうから、和也の声がした。
「怖いんだろ、妖怪博士」
「和也まで真似するな!」
「妖怪に会いたかったんじゃないのかよ」
教室で聞いたような、からかう声。
「本物が出たのに、隠れてるの?」
「会いたいのと、勝手に部屋へ入られるのは違う!」
「言い訳ばっかり」
「おまえに言われたくない!」
返事をした。
また乗せられた。
自分でも分かっているのに、腹の立つことを言われると黙っていられない。
障子戸が、ほんの一センチほど開いた。
隙間から、濡れた指が差し込まれる。
人間の指より細長く、爪の間には黒い泥が詰まっていた。
湊は釣り竿を振り下ろした。
「出ていけ!」
竿の先が指へ当たる寸前、部屋の隅から赤い影が飛び出した。
赤い服の少女だった。
少女は湊の机へ飛び乗ると、そこに置かれていた湯飲みをつかみ、障子戸へ向かって投げた。
「何するんだ!」
湯飲みは戸へぶつからなかった。
宙を飛んでいる途中で、中から水が広がった。
昼間に飲んだお茶ではない。
透き通った水が、まるで薄い布のように広がり、障子戸を内側から覆った。
戸の向こうで、低いうなり声が上がる。
母親でも妹でも父親でもない。
川底で大きな石をこすり合わせたような、不快な音だった。
濡れた指が引っ込む。
戸の隙間から黒い水が噴き出したが、少女が両手を広げると、見えない壁にぶつかったように床へ落ちた。
「おまえ……」
湊が呼びかける。
少女は振り向き、人差し指を唇へ当てた。
しゃべるな。
そう言っているらしい。
廊下から、また奈緒の声がした。
「湊。開けて」
少女は首を横に振る。
「母さんが心配でしょう?」
湊は黙った。
「電話が来ないのは、事故に遭ったからよ」
胸が跳ねた。
八時を過ぎても連絡がない。
列車が止まったのかもしれない。
何かあったのかもしれない。
「助けに行かなくていいの?」
戸の向こうの声は、湊の心の中を読んだように続けた。
「川に来れば分かるわ」
赤い少女が机から飛び降り、湊のすねを蹴った。
痛い。
だがその痛みで、頭の中の霧が少し晴れた。
母親が事故に遭ったのなら、川に行っても分かるはずがない。
これは湊を川へ連れ出したいだけだ。
「行かない」
湊は、できるだけはっきり言った。
赤い少女が、また唇へ指を当てる。
「これは返事じゃない。断っただけ」
湊が小声で言うと、少女は呆れたように目を細めた。
戸の外から、少年の声が聞こえた。
「怖がり」
遠野駅と川辺で会った、あの少年の声だった。
「来るって言ったのに」
「言ってない!」
また答えてしまった。
赤い少女が額を押さえた。
「だって、言ってないだろ」
湊は少女へ言い訳した。
少女は両手で大きな丸を作り、それから指を三本立てた。
三回。
すでに数えきれないほど答えている。
「最初にちゃんと説明してくれなかったハナさんも悪いと思う」
少女の眉がつり上がった。
どうやら、今はハナのせいにする場面ではないらしい。
障子戸の外で、水をかく音がした。
ばしゃり。
ばしゃり。
何かが廊下を歩いている。
影が戸の前から離れ、少しずつ遠ざかっていく。
階段の方向へ向かっているようだった。
「帰った?」
湊が小声で尋ねると、赤い少女は耳を澄ませた。
そのとき、湊のスマートフォンが鳴った。
大きな着信音に、二人とも飛び上がった。
画面には「母さん」と表示されている。
湊はすぐに通話ボタンを押しかけ、指を止めた。
本物だろうか。
電話まで真似できる妖怪かもしれない。
「出ないの?」
赤い少女が、初めて口を開いた。
思っていたより普通の、幼い女の子の声だった。
「しゃべれるの?」
「出ないの?」
「これ、本物の母さんかな」
「知らない」
「知らないのかよ」
「わたし、おまえの母さん知らないもん」
もっともだった。
着信音は鳴り続けている。
湊は恐る恐る通話ボタンを押した。
「もしもし」
『湊? ごめん、遅くなって』
奈緒の声だった。
先ほど戸の外から聞こえた声と同じはずなのに、まったく違って聞こえた。
息づかいがある。
駅の放送らしい音が、遠くに混じっている。
『乗り換えの途中で連絡しようと思ったら、スマートフォンの充電が切れたの。今、駅で充電器を借りて――湊? 聞こえてる?』
「聞こえてる」
『怒ってる?』
「少し」
『それはそうよね。忘れないと言ったのに』
「事故じゃない?」
『事故? 何の話?』
「何でもない」
本物だ。
本物の母親は、湊が突然言ったことを理解できずに聞き返す。
妖怪のように、都合よく話をつなげたりしない。
安心した途端、目の奥が熱くなった。
『湊、本当に大丈夫?』
「大丈夫」
『声が変よ』
「変じゃない」
『泣いてるの?』
「泣いてない。さっきから、みんなそればっかり言う」
『みんなって誰?』
湊は赤い少女を見た。
少女は床へ座り込み、湊の自由研究ノートを勝手に開いている。
『ハナさんたちと一緒なの?』
「一人じゃない」
嘘ではない。
ただし相手が人間かどうかは分からない。
『昼間はごめんね』
母親が言った。
『急に帰ることになったのに、ちゃんと話せなくて』
「ぼくも、ごめん」
言葉は驚くほど簡単に出た。
目の前にいると、どうして言えなかったのだろう。
『何が?』
「邪魔だから帰るんだって言ったこと。母さんがいないほうがいいって言ったこと。本当は、ちょっとだけ……」
寂しかった。
そう言おうとした。
しかし、やはり途中で止まった。
『ちょっとだけ?』
「駅まで見送りに行けばよかった」
それが限界だった。
奈緒はしばらく黙った。
『私も、もう少し一緒にいたかった』
「仕事なのに?」
『仕事でも寂しいものは寂しいの』
「大人なのに?」
『大人になったら寂しくなくなるなんて、誰が言ったの』
ハナも善一も、似たようなことを言っていた。
大人だから分かるわけではない。
大人だから平気なわけでもない。
『でも、三週間たったら迎えに行くから』
「うん」
『自由研究、無茶しないでね』
「無茶の基準が分からない」
『大人に言うなと言われた場所へ、一人で行かない』
湊は黙った。
どうして母親は、見ていないのに分かるのだろう。
『今、心当たりがあるでしょう』
「ないとは言ってない」
『やっぱりあるのね』
「行ってないよ」
『これからも行かないで』
「一人では行かない」
『その言い方、誰かとなら行くつもりでしょう』
「善一さんとか」
『善一さんがいいと言ったらね』
「分かってる」
『本当に?』
「本当に分かってる人は、すぐ本当にって言わないんだろ。もう何回も聞いた」
電話の向こうで奈緒が笑った。
『遠野の大人たちにも言われたの?』
「大人はみんな同じこと言う」
『それだけ、湊の返事が信用されていないということよ』
「母さんまで言うなよ」
母親との通話が終わったころには、床に広がっていた水は消えていた。
畳は乾いている。
障子戸も濡れていない。
まるで何も起きなかったようだった。
赤い少女は机の前へ座り、湊のノートへ何かを書いていた。
「勝手に書くなよ」
少女は振り向かない。
「それ、ぼくの自由研究だから」
少女がノートを閉じ、湊へ放り投げた。
開くと、今日の日付の下に赤い字が増えている。
『にせものは、しりたいことをいう』
その下に、少し間を空けて。
『ほんものは、ききたくないこともいう』
湊は思わず笑った。
「確かに母さんは、聞きたくないことばっかり言う」
少女も少しだけ笑った。
「名前、教えてよ」
湊が尋ねると、少女の笑顔が消えた。
「言わない」
「じゃあ、座敷わらし?」
「ちがう」
「でも、この家に昔からいて、赤い服で、子どもの姿をしていて――」
少女は湊の枕をつかみ、顔へ投げつけた。
「本より先に決めるな!」
善一と同じことを言った。
枕を受け止めた湊は、むっとして少女を見る。
「じゃあ、自分で教えろよ」
「いや」
「教えないのに、間違えると怒るの?」
「怒る」
「面倒くさいな」
「おまえも」
少女は即答した。
言い返そうとしたが、否定しきれなかった。
「さっきのは何?」
「川のまねっこ」
「妖怪の名前?」
「知らない」
「どうして助けてくれたの?」
「うるさかったから」
「ぼくが?」
「あいつが」
少女は障子戸を指さした。
「名前を呼んで、返事をもらって、声を覚える。声を覚えたら、大事な人のまねをする。外へ出たら、川まで連れていく」
「川へ連れていって、どうするの?」
少女は少し考え、両手で何かを水中へ引き込むしぐさをした。
「沈める?」
「遊ぶ」
「沈められるほうは遊びじゃないよ」
「向こうは遊び」
それがいちばん厄介だった。
悪いことをしているつもりがない相手は、反省しない。
「駅で会った少年と、同じやつ?」
少女は首を横に振った。
「ちがう」
「じゃあ、あの少年の声も真似しただけ?」
「半分」
「半分って何だよ」
「半分は、あいつ」
「どっちのあいつ?」
「川の」
話がまったく分からない。
湊が質問を重ねようとしたとき、階下で玄関戸の開く音がした。
「ただいまー! 善一、湊は川さ行ってねえべな!」
ハナの声だった。
続いて善一が下から答える。
「行ってねえ」
「本当か?」
「川辺までは行った」
「行ってんじゃねえか!」
「俺も一緒だ」
「先にそれ言え!」
赤い少女が、すっと立ち上がった。
「ハナさんに会わないの?」
湊が尋ねる。
少女は答えず、押し入れを開けた。
「またそこ?」
「見るな」
「人の部屋の押し入れだぞ」
「わたしの家」
「今日から、ぼくの部屋でもある」
「三週間だけ」
その一言が、なぜか胸へ引っかかった。
少女は押し入れへ入り、戸を閉めかけた。
「待って」
湊が呼び止める。
「また会える?」
少女は隙間から片目だけを見せた。
「追いかけなければ」
「それ、会えるのか会えないのか、どっち?」
「おまえが面倒じゃなければ」
戸が閉まった。
「おまえにだけは言われたくない」
湊が押し入れへ言い返したところで、ハナが部屋へ入ってきた。
濡れた畳も、黒い影も見ていないハナは、枕を抱えて押し入れへ文句を言う湊を見て、深いため息をついた。
「母ちゃんが帰って三時間で、もう押し入れと喧嘩してんのか」
「違います。中に女の子が」
「開けんなよ」
「どうして?」
「さっき布団、直したばっかりだからだ」
ハナは部屋を見回し、わずかに鼻を動かした。
「川の匂いがするな」
湊は黙った。
ハナの顔から笑いが消える。
「誰に呼ばれた」
「母さんの声に」
ハナは押し入れを見た。
それから、湊のノートに書かれた赤い文字を見る。
「返事したか」
「何回か」
「何回だ」
「途中から数えてません」
ハナは額へ手を当てた。
「三回目まで返事すんなって言ったべ!」
「説明が曖昧なんですよ! 三回目までは駄目なら、四回目からいいみたいに聞こえるでしょう!」
「一回もするなって意味に決まってっぺ!」
「だったら最初から、一回もするなって言ってください!」
廊下に立っていた善一が、ぼそりと言った。
「それはハナが悪い」
「何で私だけ悪者なんだ!」
「言い方が悪い」
「昔から、この言い方なんだよ!」
「東京の子には通じん」
「おめえまで、この子の味方すんのか!」
三人の声が重なり、静かだった民宿が急に騒がしくなった。
押し入れの奥から、くすくすと笑う声が聞こえる。
ハナは押し入れをにらみつけた。
「おめえも笑ってねえで、先に知らせろ!」
返事の代わりに、丸めた靴下が一足、押し入れから飛んできた。
ハナの顔へ当たる。
湊は耐えきれずに笑った。
ハナは靴下をつかみ、湊へ投げ返す。
「笑うな! それ、おめえの靴下だべ!」
「ぼくのじゃありません」
「名前、書いてあんぞ」
見ると、確かに「みずきみなと」と母親の字で書かれている。
「いつ取ったんだよ!」
押し入れの向こうから、少女の楽しそうな笑い声がした。
遠野で過ごす最初の夜は、まだ始まったばかりだった。




