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ぼくの夏休み自由研究は、遠野で河童を釣ることです 〜妖怪好きの小学五年生、人間に化けた妖怪たちと三週間暮らす〜  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第6話 河童に釣られる方法

「おめえを釣る気だ」


善一が言った途端、開け放していたはずの部屋が、急に狭くなったように感じられた。


水城湊は、窓の外を見た。


川面には夏の日差しがきらきらと散り、先ほど少年が沈んだ場所にも、もう不自然なところはない。浅そうに見える水の中を、小さな魚の影が素早く横切っていった。


あんなに明るい川なのに。


見ているだけなら、怖い場所には思えない。


「人間を釣るって、どうやるんですか」


湊が尋ねると、善一は眉間へしわを寄せた。


「そこから聞くのか」


「だって、釣るなら餌が必要でしょう。ぼくの場合は何を使うんですか。妖怪図鑑とか、河童の皿とか――」


「河童に会わせてやる、で十分だべ」


善一は窓の鍵が閉まっていることを、もう一度確かめた。


「おめえは、それ聞いたら一人でもついてく。向こうは分かって言ってんだ」


「でも、あの子が本当に河童なら、会いに行くのが今回の目的です」


「目的なら、何してもいいのか」


「何でもいいとは言ってません」


「大人に言うなとまで言われて、それでも行く気だったべ」


湊は返事をしなかった。


本当は、少しだけ行くつもりだった。


少しだけ、という考え方が危ないことくらい分かっている。父親にも母親にも、ハナにも何度も注意された。それでも、遠野へ来て初めて出会った、河童かもしれない少年なのだ。


明日まで待っている間に、いなくなってしまうかもしれない。


ほかの場所へ移ってしまうかもしれない。


二度と会えなくなるかもしれない。


そう考えると、約束を一つや二つ破るくらい、大したことではないように思えてしまう。


善一は湊の顔を見て、ため息をついた。


「今、どうやって抜け出すか考えたな」


「考えてません」


「考えた顔してる」


「和也にも同じこと言われたけど、ぼくの顔は説明書じゃありません」


「分かりやすい顔だ」


「じゃあ、今ぼくが何を考えてるか、全部当ててください」


「河童に会いたい。止められるのは腹が立つ。けど、一人で行くのは少し怖い。だから誰かについてきてほしいが、自分から頼むのは格好悪い」


湊は口を開けたまま、善一を見た。


だいたい合っていた。


最後の一つは、自分でもまだ言葉にしていなかった。


「……善一さん、本当は人の心を読む妖怪ですか」


「七十年以上、人間やってりゃ、子どもの考えることくらい分かる」


「ぼくは普通の子どもとは違います」


「普通の子どもは、みんな自分をそう思ってる」


善一は畳へ腰を下ろし、窓辺に立てかけてあった湊の釣り竿を手に取った。


竿の継ぎ目を確かめ、糸を指で引く。


「安い竿だな」


「初心者用です。でも店の人は、丈夫だって言ってました」


「魚を釣るならな」


「河童でも大丈夫です」


「河童の重さを知ってんのか」


「種類によります」


「知らねえってことだべ」


「調べるために来たんです」


「便利な言葉だな、自由研究」


善一は糸を巻き取りながら、ほんの少し口元を緩めた。


湊は善一の向かいに座った。


先ほどの「おめえを釣る」という言葉が頭から離れない。


「善一さんは、あの子を知ってるんですか」


「知らん」


「嘘です」


「何でだ」


「知らない人を見て、あんなに怖い顔はしません」


「俺はいつもこういう顔だ」


「さっき、ひっつみを食べてるときは、もっと普通でした」


「飯食ってるときまで怖い顔してたら、消化に悪いべ」


「名前は?」


「知らん」


「住んでいるところは?」


「知らん」


「河童なんですか」


「知らん」


「何なら知ってるんですか」


善一は答えず、釣り竿の先を見た。


その沈黙が長くなったところで、廊下から足音が聞こえた。


軽い足音だった。


一歩。


二歩。


三歩。


この家に今いるのは、湊と善一だけのはずだ。


ハナは母親を駅へ送っている。


猫の足音にしては重い。


湊と善一は、ほとんど同時に部屋の入口へ目を向けた。


足音が止まる。


障子戸の下に、細い影が落ちていた。


「誰?」


湊が声をかけると、善一が釣り竿の先で頭を軽くたたいた。


「痛っ。何するんですか」


「返事すんなと言ったべ」


「今は名前を呼ばれてません」


「屁理屈ばっかり達者だな」


障子戸が、すっと横へ動いた。


しかし、向こうには誰もいなかった。


廊下の窓から差し込む光の中で、白い紙が一枚、床へ落ちる。


湊はすぐに拾った。


自分の自由研究ノートから破られた紙だった。


「これ、ぼくのです」


紙には、黒いクレヨンで川の絵が描かれていた。


左右に木。


中央に丸い石。


その石の上には、釣り竿を持つ棒人間がいる。


おそらく湊だ。


川の中には、頭の皿と甲羅のある河童が描かれている。


ただし河童が引っ張っているのは、釣り糸ではない。


棒人間の足首から伸びた、黒い縄だった。


「さっきの『おめえを釣る』って、こういうこと?」


湊が紙を差し出すと、善一はしばらく黙って見ていた。


「誰が描いた」


「赤い服の女の子です。たぶん」


「会ったのか」


「何度も言ったでしょう。二階の窓と、押し入れと、机の下で見ました。ハナさんはごまかしてたけど、善一さんは座敷わらしって言ったとき、反応しました」


「してねえ」


「しました」


「してねえ」


「しました」


「しつこい」


「知ってるのに教えないほうが悪い」


「教えたら、おめえはもっと追いかけ回すべ」


「追いかけません。話を聞くだけです」


「押し入れまで開けたやつの言葉は信用ならん」


湊は唇を結んだ。


善一はずるい。


実際にした失敗を持ち出されると、反論しにくい。


「じゃあ、もう追いかけません。約束します」


「軽いな」


「本気です」


「本当に分かってるやつは、すぐ分かったと言わねえ」


「それ、もう聞きました!」


「何度聞いても同じことするからだ」


湊は紙を握りしめそうになり、慌てて指の力を抜いた。


自由研究の大事な証拠である。


少女が絵を描いたところを見たわけではないが、少なくとも自分で描いてはいない。


写真を撮って記録しておくべきだ。


スマートフォンを取り出すと、善一が言った。


「何する」


「撮影します」


「やめとけ」


「どうして?」


「撮られるの嫌いなやつもいる」


「絵だけですよ。本人じゃありません」


「本人の描いたもんかもしれん」


「でも、何も残らなかったら、ぼくが嘘をついたことにされます」


言葉にした瞬間、教室で笑われたときのことがよみがえった。


大地の声。


みんなの笑い。


和也の呆れた顔。


本物を見つけても証拠がなければ、誰にも信じてもらえない。


湊はスマートフォンを構えた。


「一枚だけです」


善一は止めなかった。


ただ、嫌そうな顔をしていた。


画面の中央へ紙を入れ、撮影ボタンを押す。


小さな音が鳴った。


直後、窓の外で何かが落ちる音がした。


ばしゃん。


川へ石でも投げ込まれたような音だった。


湊は窓へ駆け寄った。


「開けるな」


善一が言ったが、鍵は開けず、ガラス越しに外をのぞいた。


川辺に誰かがいる。


赤い服の少女だった。


長い黒髪を風に揺らしながら、こちらを見上げている。


少女は怒っていた。


笑っていない顔を見るのは初めてだった。


「いました」


湊は振り返らずに言った。


「善一さんにも見えますか」


返事がない。


少女は両手で何かを持ち上げた。


湊の自由研究ノートだった。


「えっ」


湊は自分の手元を見た。


先ほどまで持っていたはずのノートが消えている。


少女はノートを開き、ページを一枚破った。


びりっ。


窓越しでも、その音が聞こえた気がした。


「やめろ!」


湊が窓をたたく。


少女はもう一枚破った。


びりっ。


「それ、学校へ提出するんだぞ!」


少女は三枚目へ指をかけた。


「悪かった! 写真を撮って悪かったから!」


少女の手が止まる。


湊は窓へ額がつくほど顔を近づけた。


「消す! 今の写真は消すから、ノートを破らないで!」


赤い少女が、首をかしげる。


まるで本当に消すのかと尋ねているようだった。


湊は写真を開き、削除しようとした。


しかし指が止まった。


これは証拠だ。


初日に起きた、最初の怪異。


写真がなくなれば、また自分の言葉だけになる。


赤い少女は三枚目を破った。


「分かった! 消すって!」


湊は目を閉じ、削除を押した。


確認画面が出る。


もう一度押す。


写真が消えた。


その途端、窓の外に少女はいなくなった。


川辺には、湊の自由研究ノートだけが置かれている。


開かれたページを風がめくっていた。


「取りに行く!」


窓を開けようとすると、善一が腕をつかんだ。


「待て」


「ノートが濡れます」


「川へ下りるなら、俺も行く」


「見えてたんですか」


善一は答えなかった。


「今の女の子、見えてましたよね?」


「先に靴履け。靴下のまま外へ出たの、もう忘れたのか」


自分の足を見ると、母親を見送ったときに汚した靴下のままだった。


「見えてたかどうか聞いてます」


「返事が欲しけりゃ、歩きながら聞け」


二人で階段を下り、玄関から裏手へ回った。


建物の裏には、小さな畑があった。


赤くなり始めたトマト。つるを伸ばしたきゅうり。葉の間に紫色の花をつけたナス。畑の向こうには草地があり、その先を澄んだ川が流れている。


湊は走りかけたが、善一に襟をつかまれた。


「転ぶぞ」


「急がないと飛ばされます」


「走って転んだら、もっと遅くなる」


言われて歩いたものの、気持ちは先へ走っている。


川辺へ着くと、ノートは丸い石の上に置かれていた。


破られたはずのページは、なくなっていない。


確認すると、一枚も欠けていなかった。


「どうなってるんだ」


ページをめくる。


少女が描いた河童の絵も、そのまま残っている。


ただし絵の横に、赤い文字が増えていた。


『うそつき』


湊の胸が、ちくりと痛んだ。


最初は「写真を撮るだけ」と思った。


本人ではないのだから構わないと思った。


けれど少女にとっては、自分の描いた絵も、自分の一部だったのかもしれない。


善一が後ろからノートをのぞく。


「何て書いてある」


「読めるでしょう」


「おめえのことだな」


「分かってます」


「怒るな」


「怒ってません」


「怒ってる顔だ」


「善一さんは、ぼくの顔を読みすぎです」


湊は石へ腰を下ろした。


目の前を流れる川は、冷たそうだった。川底には白や灰色の石が並び、水草が流れに合わせて揺れている。


手を入れてみたい。


けれど善一に止められると思い、やめておいた。


「ぼくは、証拠が欲しいだけです」


「何のために」


「妖怪がいるって、みんなに信じてもらうため」


「誰に」


「学校の人とか、友だちとか」


「信じてもらったら、どうなる」


湊は考えた。


大地が謝る。


和也が驚く。


先生が褒める。


もしかしたらテレビ局が来る。


妖怪博士と呼ばれるとき、もう誰も笑わなくなる。


「ぼくが正しかったって分かります」


「そのために、あの子が困ってもいいのか」


「困らせるつもりはありません」


「つもりがなけりゃ、何しても許されるわけでねえ」


また、反論しにくいことを言われた。


善一もハナも、どうして最後に少しだけ正しい言葉を置くのだろう。


「遠野の人は、みんな妖怪を隠すんですか」


「みんなじゃねえ」


「善一さんは隠してます」


「守ってんのかもしれん」


「何から?」


善一は、川上へ目を向けた。


先ほどの少年が指さした方向である。


木々の枝が重なり、川は奥へ行くほど暗く見えた。


「見つけたもんを、すぐ自分のものにしたがる人間からだ」


「ぼくは自分のものにしません」


「釣り上げて、写真撮って、学校へ持ってく話をするやつがか」


「持っていくのは鱗とかです。河童本人じゃありません」


「本人の体から取るんだべ」


「許可をもらいます」


「嫌だって言えねえ相手だったら?」


駅前でハナにも、同じことを言われた。


嫌だと言わなかったら、いいという意味なのか。


人間だって、嫌だと言えないときがある。


湊はノートに書かれた『うそつき』を指でなぞった。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


「自分で考えろ」


「大人は、分からないときにすぐそれを言う」


「大人にも分からんからな」


「善一さんは知ってるでしょう」


「何を」


「あの少年のことも、赤い女の子のことも」


善一は川辺の草を一本抜き、指先で土を落とした。


「赤い子は、昔からこの家にいる」


湊は勢いよく顔を上げた。


「やっぱり座敷わらしですか」


「名前を決めつけんな」


「でも、古い家にいて、赤い服を着た子どもの姿で、いたずらをして――」


「本に書いてあることを、本人より先に信じるな」


「じゃあ、本人に聞きます」


「聞いて、答えたくねえと言われたら」


「待ちます」


善一は湊を見た。


試すような目だった。


「追いかけねえか」


「……たぶん」


「たぶんか」


「絶対って言って、また嘘つきって書かれるよりいいでしょう」


善一の口元が少し緩んだ。


「少しは考えるようになったな」


「最初から考えてます」


「考えるのと、都合のいい答えを出すのは違う」


「それも誰かに言われたんですか」


「長く生きてりゃ、自分で失敗する」


善一は立ち上がった。


「戻るぞ。ハナも帰ってくる」


「少年のことは?」


「明るいうちでも、一人では行くな」


「善一さんとなら、行っていいんですか」


「今日は行かん」


「明日は?」


「朝になってから考える」


「それ、大人が約束を避ける言い方です」


「便利だべ」


「ずるい」


二人が民宿へ戻りかけたとき、川上から何かが流れてきた。


緑色のきゅうりだった。


一本、二本、三本。


川の中央を、妙に整った間隔で流れてくる。


湊は足を止めた。


きゅうりの一つに、白い紙が巻きつけてある。


「善一さん」


「触るな」


「でも、手紙です」


「だから触るな」


きゅうりは二人の目の前を通り過ぎるはずだった。


ところが紙の巻かれた一本だけが、流れに逆らうように岸へ近づいてきた。


石へぶつかり、湊の靴の先で止まる。


紙には、黒い文字が書かれていた。


『にげたのか、東京ぼっちゃん』


「逃げてない!」


思わず川上へ叫ぶ。


木々の奥から、少年の笑い声が返ってきた。


「じゃあ日が沈んだら来い!」


「一人で行くわけないだろ!」


「母ちゃんがいねえと、何にもできねえのか!」


湊の顔が熱くなった。


善一が肩をつかむ。


「乗せられんな」


「分かってます」


「今、行く顔だ」


「行きません!」


「声がでかい」


「行かないって言ってるでしょう!」


川上から、さらに声が飛んできた。


「怖がり!」


湊は歯を食いしばった。


行かない。


絶対に行かない。


善一と約束したからではない。


怖いからでもない。


ただ、今日だけは行かない。


明日の朝になれば、大人と一緒に行けるかもしれない。


そう自分へ言い聞かせた。


その夜、八時になっても、母親から電話は来なかった。


八時五分。


八時十分。


八時十五分。


湊は部屋の机にスマートフォンを置き、画面が暗くなるたびに指で触れた。


「忘れないって言ったのに」


つぶやいた直後、廊下から声がした。


「水城湊」


赤い少女の声ではなかった。


川で会った少年の声だった。


「水城湊」


二回目。


湊は息を止めた。


夜、廊下で名前を呼ばれても、三回目までは返事をしてはいけない。


障子戸の下から、水が流れ込んできた。


畳へ細い筋を作り、湊の足元まで近づいてくる。


そして三回目の声がした。


「水城湊。母ちゃんが、川で待ってるぞ」


湊は立ち上がった。


母親が川にいるはずはない。


分かっている。


それでも障子戸の向こうから聞こえたのは、間違いなく奈緒の声だった。


「湊、迎えに来たわよ」


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