第6話 河童に釣られる方法
「おめえを釣る気だ」
善一が言った途端、開け放していたはずの部屋が、急に狭くなったように感じられた。
水城湊は、窓の外を見た。
川面には夏の日差しがきらきらと散り、先ほど少年が沈んだ場所にも、もう不自然なところはない。浅そうに見える水の中を、小さな魚の影が素早く横切っていった。
あんなに明るい川なのに。
見ているだけなら、怖い場所には思えない。
「人間を釣るって、どうやるんですか」
湊が尋ねると、善一は眉間へしわを寄せた。
「そこから聞くのか」
「だって、釣るなら餌が必要でしょう。ぼくの場合は何を使うんですか。妖怪図鑑とか、河童の皿とか――」
「河童に会わせてやる、で十分だべ」
善一は窓の鍵が閉まっていることを、もう一度確かめた。
「おめえは、それ聞いたら一人でもついてく。向こうは分かって言ってんだ」
「でも、あの子が本当に河童なら、会いに行くのが今回の目的です」
「目的なら、何してもいいのか」
「何でもいいとは言ってません」
「大人に言うなとまで言われて、それでも行く気だったべ」
湊は返事をしなかった。
本当は、少しだけ行くつもりだった。
少しだけ、という考え方が危ないことくらい分かっている。父親にも母親にも、ハナにも何度も注意された。それでも、遠野へ来て初めて出会った、河童かもしれない少年なのだ。
明日まで待っている間に、いなくなってしまうかもしれない。
ほかの場所へ移ってしまうかもしれない。
二度と会えなくなるかもしれない。
そう考えると、約束を一つや二つ破るくらい、大したことではないように思えてしまう。
善一は湊の顔を見て、ため息をついた。
「今、どうやって抜け出すか考えたな」
「考えてません」
「考えた顔してる」
「和也にも同じこと言われたけど、ぼくの顔は説明書じゃありません」
「分かりやすい顔だ」
「じゃあ、今ぼくが何を考えてるか、全部当ててください」
「河童に会いたい。止められるのは腹が立つ。けど、一人で行くのは少し怖い。だから誰かについてきてほしいが、自分から頼むのは格好悪い」
湊は口を開けたまま、善一を見た。
だいたい合っていた。
最後の一つは、自分でもまだ言葉にしていなかった。
「……善一さん、本当は人の心を読む妖怪ですか」
「七十年以上、人間やってりゃ、子どもの考えることくらい分かる」
「ぼくは普通の子どもとは違います」
「普通の子どもは、みんな自分をそう思ってる」
善一は畳へ腰を下ろし、窓辺に立てかけてあった湊の釣り竿を手に取った。
竿の継ぎ目を確かめ、糸を指で引く。
「安い竿だな」
「初心者用です。でも店の人は、丈夫だって言ってました」
「魚を釣るならな」
「河童でも大丈夫です」
「河童の重さを知ってんのか」
「種類によります」
「知らねえってことだべ」
「調べるために来たんです」
「便利な言葉だな、自由研究」
善一は糸を巻き取りながら、ほんの少し口元を緩めた。
湊は善一の向かいに座った。
先ほどの「おめえを釣る」という言葉が頭から離れない。
「善一さんは、あの子を知ってるんですか」
「知らん」
「嘘です」
「何でだ」
「知らない人を見て、あんなに怖い顔はしません」
「俺はいつもこういう顔だ」
「さっき、ひっつみを食べてるときは、もっと普通でした」
「飯食ってるときまで怖い顔してたら、消化に悪いべ」
「名前は?」
「知らん」
「住んでいるところは?」
「知らん」
「河童なんですか」
「知らん」
「何なら知ってるんですか」
善一は答えず、釣り竿の先を見た。
その沈黙が長くなったところで、廊下から足音が聞こえた。
軽い足音だった。
一歩。
二歩。
三歩。
この家に今いるのは、湊と善一だけのはずだ。
ハナは母親を駅へ送っている。
猫の足音にしては重い。
湊と善一は、ほとんど同時に部屋の入口へ目を向けた。
足音が止まる。
障子戸の下に、細い影が落ちていた。
「誰?」
湊が声をかけると、善一が釣り竿の先で頭を軽くたたいた。
「痛っ。何するんですか」
「返事すんなと言ったべ」
「今は名前を呼ばれてません」
「屁理屈ばっかり達者だな」
障子戸が、すっと横へ動いた。
しかし、向こうには誰もいなかった。
廊下の窓から差し込む光の中で、白い紙が一枚、床へ落ちる。
湊はすぐに拾った。
自分の自由研究ノートから破られた紙だった。
「これ、ぼくのです」
紙には、黒いクレヨンで川の絵が描かれていた。
左右に木。
中央に丸い石。
その石の上には、釣り竿を持つ棒人間がいる。
おそらく湊だ。
川の中には、頭の皿と甲羅のある河童が描かれている。
ただし河童が引っ張っているのは、釣り糸ではない。
棒人間の足首から伸びた、黒い縄だった。
「さっきの『おめえを釣る』って、こういうこと?」
湊が紙を差し出すと、善一はしばらく黙って見ていた。
「誰が描いた」
「赤い服の女の子です。たぶん」
「会ったのか」
「何度も言ったでしょう。二階の窓と、押し入れと、机の下で見ました。ハナさんはごまかしてたけど、善一さんは座敷わらしって言ったとき、反応しました」
「してねえ」
「しました」
「してねえ」
「しました」
「しつこい」
「知ってるのに教えないほうが悪い」
「教えたら、おめえはもっと追いかけ回すべ」
「追いかけません。話を聞くだけです」
「押し入れまで開けたやつの言葉は信用ならん」
湊は唇を結んだ。
善一はずるい。
実際にした失敗を持ち出されると、反論しにくい。
「じゃあ、もう追いかけません。約束します」
「軽いな」
「本気です」
「本当に分かってるやつは、すぐ分かったと言わねえ」
「それ、もう聞きました!」
「何度聞いても同じことするからだ」
湊は紙を握りしめそうになり、慌てて指の力を抜いた。
自由研究の大事な証拠である。
少女が絵を描いたところを見たわけではないが、少なくとも自分で描いてはいない。
写真を撮って記録しておくべきだ。
スマートフォンを取り出すと、善一が言った。
「何する」
「撮影します」
「やめとけ」
「どうして?」
「撮られるの嫌いなやつもいる」
「絵だけですよ。本人じゃありません」
「本人の描いたもんかもしれん」
「でも、何も残らなかったら、ぼくが嘘をついたことにされます」
言葉にした瞬間、教室で笑われたときのことがよみがえった。
大地の声。
みんなの笑い。
和也の呆れた顔。
本物を見つけても証拠がなければ、誰にも信じてもらえない。
湊はスマートフォンを構えた。
「一枚だけです」
善一は止めなかった。
ただ、嫌そうな顔をしていた。
画面の中央へ紙を入れ、撮影ボタンを押す。
小さな音が鳴った。
直後、窓の外で何かが落ちる音がした。
ばしゃん。
川へ石でも投げ込まれたような音だった。
湊は窓へ駆け寄った。
「開けるな」
善一が言ったが、鍵は開けず、ガラス越しに外をのぞいた。
川辺に誰かがいる。
赤い服の少女だった。
長い黒髪を風に揺らしながら、こちらを見上げている。
少女は怒っていた。
笑っていない顔を見るのは初めてだった。
「いました」
湊は振り返らずに言った。
「善一さんにも見えますか」
返事がない。
少女は両手で何かを持ち上げた。
湊の自由研究ノートだった。
「えっ」
湊は自分の手元を見た。
先ほどまで持っていたはずのノートが消えている。
少女はノートを開き、ページを一枚破った。
びりっ。
窓越しでも、その音が聞こえた気がした。
「やめろ!」
湊が窓をたたく。
少女はもう一枚破った。
びりっ。
「それ、学校へ提出するんだぞ!」
少女は三枚目へ指をかけた。
「悪かった! 写真を撮って悪かったから!」
少女の手が止まる。
湊は窓へ額がつくほど顔を近づけた。
「消す! 今の写真は消すから、ノートを破らないで!」
赤い少女が、首をかしげる。
まるで本当に消すのかと尋ねているようだった。
湊は写真を開き、削除しようとした。
しかし指が止まった。
これは証拠だ。
初日に起きた、最初の怪異。
写真がなくなれば、また自分の言葉だけになる。
赤い少女は三枚目を破った。
「分かった! 消すって!」
湊は目を閉じ、削除を押した。
確認画面が出る。
もう一度押す。
写真が消えた。
その途端、窓の外に少女はいなくなった。
川辺には、湊の自由研究ノートだけが置かれている。
開かれたページを風がめくっていた。
「取りに行く!」
窓を開けようとすると、善一が腕をつかんだ。
「待て」
「ノートが濡れます」
「川へ下りるなら、俺も行く」
「見えてたんですか」
善一は答えなかった。
「今の女の子、見えてましたよね?」
「先に靴履け。靴下のまま外へ出たの、もう忘れたのか」
自分の足を見ると、母親を見送ったときに汚した靴下のままだった。
「見えてたかどうか聞いてます」
「返事が欲しけりゃ、歩きながら聞け」
二人で階段を下り、玄関から裏手へ回った。
建物の裏には、小さな畑があった。
赤くなり始めたトマト。つるを伸ばしたきゅうり。葉の間に紫色の花をつけたナス。畑の向こうには草地があり、その先を澄んだ川が流れている。
湊は走りかけたが、善一に襟をつかまれた。
「転ぶぞ」
「急がないと飛ばされます」
「走って転んだら、もっと遅くなる」
言われて歩いたものの、気持ちは先へ走っている。
川辺へ着くと、ノートは丸い石の上に置かれていた。
破られたはずのページは、なくなっていない。
確認すると、一枚も欠けていなかった。
「どうなってるんだ」
ページをめくる。
少女が描いた河童の絵も、そのまま残っている。
ただし絵の横に、赤い文字が増えていた。
『うそつき』
湊の胸が、ちくりと痛んだ。
最初は「写真を撮るだけ」と思った。
本人ではないのだから構わないと思った。
けれど少女にとっては、自分の描いた絵も、自分の一部だったのかもしれない。
善一が後ろからノートをのぞく。
「何て書いてある」
「読めるでしょう」
「おめえのことだな」
「分かってます」
「怒るな」
「怒ってません」
「怒ってる顔だ」
「善一さんは、ぼくの顔を読みすぎです」
湊は石へ腰を下ろした。
目の前を流れる川は、冷たそうだった。川底には白や灰色の石が並び、水草が流れに合わせて揺れている。
手を入れてみたい。
けれど善一に止められると思い、やめておいた。
「ぼくは、証拠が欲しいだけです」
「何のために」
「妖怪がいるって、みんなに信じてもらうため」
「誰に」
「学校の人とか、友だちとか」
「信じてもらったら、どうなる」
湊は考えた。
大地が謝る。
和也が驚く。
先生が褒める。
もしかしたらテレビ局が来る。
妖怪博士と呼ばれるとき、もう誰も笑わなくなる。
「ぼくが正しかったって分かります」
「そのために、あの子が困ってもいいのか」
「困らせるつもりはありません」
「つもりがなけりゃ、何しても許されるわけでねえ」
また、反論しにくいことを言われた。
善一もハナも、どうして最後に少しだけ正しい言葉を置くのだろう。
「遠野の人は、みんな妖怪を隠すんですか」
「みんなじゃねえ」
「善一さんは隠してます」
「守ってんのかもしれん」
「何から?」
善一は、川上へ目を向けた。
先ほどの少年が指さした方向である。
木々の枝が重なり、川は奥へ行くほど暗く見えた。
「見つけたもんを、すぐ自分のものにしたがる人間からだ」
「ぼくは自分のものにしません」
「釣り上げて、写真撮って、学校へ持ってく話をするやつがか」
「持っていくのは鱗とかです。河童本人じゃありません」
「本人の体から取るんだべ」
「許可をもらいます」
「嫌だって言えねえ相手だったら?」
駅前でハナにも、同じことを言われた。
嫌だと言わなかったら、いいという意味なのか。
人間だって、嫌だと言えないときがある。
湊はノートに書かれた『うそつき』を指でなぞった。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「自分で考えろ」
「大人は、分からないときにすぐそれを言う」
「大人にも分からんからな」
「善一さんは知ってるでしょう」
「何を」
「あの少年のことも、赤い女の子のことも」
善一は川辺の草を一本抜き、指先で土を落とした。
「赤い子は、昔からこの家にいる」
湊は勢いよく顔を上げた。
「やっぱり座敷わらしですか」
「名前を決めつけんな」
「でも、古い家にいて、赤い服を着た子どもの姿で、いたずらをして――」
「本に書いてあることを、本人より先に信じるな」
「じゃあ、本人に聞きます」
「聞いて、答えたくねえと言われたら」
「待ちます」
善一は湊を見た。
試すような目だった。
「追いかけねえか」
「……たぶん」
「たぶんか」
「絶対って言って、また嘘つきって書かれるよりいいでしょう」
善一の口元が少し緩んだ。
「少しは考えるようになったな」
「最初から考えてます」
「考えるのと、都合のいい答えを出すのは違う」
「それも誰かに言われたんですか」
「長く生きてりゃ、自分で失敗する」
善一は立ち上がった。
「戻るぞ。ハナも帰ってくる」
「少年のことは?」
「明るいうちでも、一人では行くな」
「善一さんとなら、行っていいんですか」
「今日は行かん」
「明日は?」
「朝になってから考える」
「それ、大人が約束を避ける言い方です」
「便利だべ」
「ずるい」
二人が民宿へ戻りかけたとき、川上から何かが流れてきた。
緑色のきゅうりだった。
一本、二本、三本。
川の中央を、妙に整った間隔で流れてくる。
湊は足を止めた。
きゅうりの一つに、白い紙が巻きつけてある。
「善一さん」
「触るな」
「でも、手紙です」
「だから触るな」
きゅうりは二人の目の前を通り過ぎるはずだった。
ところが紙の巻かれた一本だけが、流れに逆らうように岸へ近づいてきた。
石へぶつかり、湊の靴の先で止まる。
紙には、黒い文字が書かれていた。
『にげたのか、東京ぼっちゃん』
「逃げてない!」
思わず川上へ叫ぶ。
木々の奥から、少年の笑い声が返ってきた。
「じゃあ日が沈んだら来い!」
「一人で行くわけないだろ!」
「母ちゃんがいねえと、何にもできねえのか!」
湊の顔が熱くなった。
善一が肩をつかむ。
「乗せられんな」
「分かってます」
「今、行く顔だ」
「行きません!」
「声がでかい」
「行かないって言ってるでしょう!」
川上から、さらに声が飛んできた。
「怖がり!」
湊は歯を食いしばった。
行かない。
絶対に行かない。
善一と約束したからではない。
怖いからでもない。
ただ、今日だけは行かない。
明日の朝になれば、大人と一緒に行けるかもしれない。
そう自分へ言い聞かせた。
その夜、八時になっても、母親から電話は来なかった。
八時五分。
八時十分。
八時十五分。
湊は部屋の机にスマートフォンを置き、画面が暗くなるたびに指で触れた。
「忘れないって言ったのに」
つぶやいた直後、廊下から声がした。
「水城湊」
赤い少女の声ではなかった。
川で会った少年の声だった。
「水城湊」
二回目。
湊は息を止めた。
夜、廊下で名前を呼ばれても、三回目までは返事をしてはいけない。
障子戸の下から、水が流れ込んできた。
畳へ細い筋を作り、湊の足元まで近づいてくる。
そして三回目の声がした。
「水城湊。母ちゃんが、川で待ってるぞ」
湊は立ち上がった。
母親が川にいるはずはない。
分かっている。
それでも障子戸の向こうから聞こえたのは、間違いなく奈緒の声だった。
「湊、迎えに来たわよ」




