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ぼくの夏休み自由研究は、遠野で河童を釣ることです 〜妖怪好きの小学五年生、人間に化けた妖怪たちと三週間暮らす〜  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第5話 さよならくらい、ちゃんと言えばよかった

二階から聞こえた笑い声は、突然途切れた。


それまで騒がしかった蝉まで息を止めたように感じられ、食堂には、古い柱時計の針が動く音だけが残った。


水城湊は、自由研究ノートを胸へ抱き寄せた。


「今の、聞こえましたよね」


今度は自信があった。


母親も、ハナも、善一も、同じように天井を見上げていた。誰か一人だけが聞いたのなら、聞き間違いだと言われるかもしれない。だが全員が同じ方向を見たのだ。


もう、床が鳴ったとも、風の音とも言えない。


「女の子の笑い声でした」


湊が念を押すと、奈緒はすぐには答えなかった。


「そうね。子どもの声みたいには聞こえたわ」


「みたいじゃなくて、子どもだよ」


「どこから聞こえたかまでは分からないでしょう」


「二階」


「外から響いた可能性もあります」


「母さんって、妖怪を信じたら罰金を取られるの?」


「慎重に考えているだけです」


「慎重すぎて、百歳になっても何も信じられないよ」


「あなたは信じるのが早すぎます。会って五分の人を妖怪だと思ったり、床の染みを河童の足跡にしたり」


「思ってない。可能性を考えてるだけ」


「そういうときだけ、私と同じ言い方を使わないでください」


ハナは腕を組み、天井をにらんでいた。


いつもの豪快な笑顔が消えている。


「ハナさん」


湊が呼ぶと、ハナはゆっくり視線を戻した。


「二階に、誰かいるんでしょう」


「今の声が人ならな」


「人じゃなかったら?」


「昼飯が冷める」


「またごまかした」


「ごまかしてねえ。食べ物を粗末にすっと、もっと厄介なもんが出るぞ」


「何が出るんですか」


「腹を空かせた善一」


善一が顔を上げた。


「俺を妖怪みてえに言うな」


「食べ物の恨みが深いところは似たようなもんだべ」


「おめえが俺の煮魚を食った話なら、もう四十年前だ」


「四十年前のことを覚えてんだから、やっぱり恨みが深い」


「覚えてんのは、おめえのほうだ」


二人のやり取りに、奈緒が小さく吹き出した。


さっきまで張りつめていた空気が、ほんの少し緩む。


湊だけは笑わなかった。


「真面目に聞いてるんです。あの子は誰なんですか」


ハナは湊を見た。


その目には、困ったような色が浮かんでいた。


知らないのではない。


知っているけれど、話していいのか迷っている顔だった。


「湊」


奈緒が静かに言った。


「すぐ答えがもらえると思わないほうがいいわ」


「母さんまで隠すの?」


「私は何も知りません。でも、会ったばかりの相手へ、家のことを全部話せと言うのは違うでしょう」


「ぼくは三週間も泊まるんだよ」


「だから、三週間かけて知ればいいんじゃない?」


「その間に、何かされたらどうするの」


「さっきは妖怪に会いたいと言っていたでしょう」


「会いたいのと、何をされてもいいのは違う」


「そこに気づいたなら、少しは進歩しました」


奈緒はそう言って、自分の椀を持ち上げた。


湊は不満だった。


母親はいつも、最後に少しだけ正しいことを言う。完全に正しいから、言い返しにくい。


それがいちばん腹立たしい。


昼食を終えると、善一が湊の部屋へ荷物を運んだ。


二階の廊下は、下から見たときよりも長かった。


左側に客室が四つ。右側には窓が並び、窓の外には畑と、その向こうを流れる細い川が見えた。さらに遠くには緑の山々が重なり、夏の雲が山の上へ大きく膨らんでいる。


東京なら、二階の窓から見えるのは隣のマンションか電線だった。


ここでは、人の作ったものより、山と空のほうがずっと大きい。


「夜は真っ暗になりそう」


湊が言うと、奈緒が隣で答えた。


「星がきれいでしょうね」


「妖怪も動きやすそう」


「あなたは何を見ても、そこへ戻るのね」


「母さんだって、すぐ星にするじゃん」


「星は実在します」


「妖怪だって実在するかもしれないだろ」


「また最初から話し合います?」


「時間がないからやめとく」


言ってから、湊はまた胸の奥がざらつくのを感じた。


時間がない。


母親は、もうすぐ帰る。


案内された部屋は、廊下の一番奥だった。


六畳の和室に、小さな机と座布団、木でできた洋服掛けがある。窓を開けると、川から吹いてくる風がカーテンを膨らませた。


エアコンはない。


代わりに、壁際で古い扇風機が首を振っている。


「夜、暑くないですか」


「山から風が下りてくっから、夜は案外涼しいぞ」


ハナは押し入れから布団を出しながら言った。


「それでも暑かったら、窓を少し開けとけ。ただし網戸は閉めろ。虫が入る」


「どんな虫ですか」


「蚊、蛾、カメムシ。運が悪けりゃ、もっと大きいのも来る」


「もっと大きいって?」


「名前を聞いたら眠れなくなるやつだ」


「教えてください」


「眠れなくなりてえのか?」


湊は少し考えた。


知らないまま窓の外から音がするほうが怖い気もする。だが具体的な虫の姿を想像しながら眠るのも嫌だった。


「朝になってから教えてください」


「都合のいい怖がり方すんなあ」


ハナは笑い、布団を押し入れへ戻した。


奈緒は旅行かばんを開き、着替えを一枚ずつ取り出していく。


「下着はこの袋。洗濯するものはこっちへ入れる。薬は机の引き出し。虫よけは玄関へ持っていく鞄の中」


「分かってる」


「まだ何も見ていないでしょう」


「昨日、聞いたから」


「昨日は河童の本を隠すことへ夢中で、半分も聞いていませんでした」


「半分は聞いてた」


「どの半分?」


「大事な半分」


「それを自分で決めるのが問題なの」


奈緒は着替えを洋服掛けへ収めながら、何度も同じ説明をした。


夜は必ず電話すること。


川へ行く前に、ハナか善一へ伝えること。


知らない人の車へ乗らないこと。


山道へ一人で入らないこと。


具合が悪くなったら我慢せず言うこと。


湊は最初こそ返事をしていたが、四つ目あたりから面倒になってきた。


「さっきも聞いたよ」


「何度言っても忘れるからです」


「忘れない」


「去年の宿泊学習で、歯ブラシを忘れました」


「あれは忘れたんじゃなくて、洗面所に置いてきたんだよ」


「それを忘れたと言います」


「帰ってから思い出した」


「思い出すのが遅いの」


「今回は歯ブラシあるから大丈夫」


「歯ブラシだけあっても、川へ落ちたときには役に立ちません」


「川へ落ちることを前提にしないでよ」


「落ちる子は、落ちる前には自分が落ちると思っていません」


「母さん、ぼくが何をしても失敗すると思ってるだろ」


奈緒の手が止まった。


「そんなことは思っていません」


「じゃあ、何で同じことばっかり言うんだよ」


「心配だからでしょう」


思いがけず、まっすぐな答えが返ってきた。


湊は黙った。


母親は、畳の上に置かれた靴下をたたみ直しながら続けた。


「三週間も離れるのは初めてだから、私だって不安なの。あなたがちゃんと食事をするか。夜に眠れるか。川へ夢中になって周りが見えなくならないか」


「ぼくは小さい子じゃない」


「知っています。でも、五年生になったから急に心配しなくなるわけではないの」


「心配なら帰らなきゃいいじゃん」


言ってしまった。


奈緒が顔を上げる。


湊は目をそらした。


「さっきは、いないほうが都合がいいと言ったでしょう」


「それとこれとは別」


「どう別なの?」


「別だから別なんだよ」


「説明になっていません」


「全部説明しなくても分かってよ」


口にした瞬間、階下で善一が言った言葉を思い出した。


黙っていても分かれという顔をする。


ハナは、それを面倒くさいと言っていた。


自分も同じことをしている。


けれど気づいてしまうと、ますます引き返せなくなった。


「湊」


奈緒の声が少しやわらかくなった。


「寂しいなら、寂しいと言っていいのよ」


「寂しくない」


「そう」


「本当に」


「分かりました」


母親は追及しなかった。


それが逆に腹立たしかった。


もっと聞いてほしいような、聞かれたくないような気持ちが、胸の中で絡まっている。


「母さんのほうが寂しいんじゃないの」


「寂しいわよ」


奈緒はあっさり答えた。


湊は顔を上げた。


「認めるんだ」


「認めたら負けなの?」


「別に」


「私は寂しいし、心配です。でも、湊が自分で行きたいと言ったことを、途中で怖くなったからやめなさいとは言いたくない」


「怖くなってない」


「私の話です」


「ああ」


「お父さんも美海も、心配しています。美海なんて、昨日の夜、河童に持っていかれないように、お兄ちゃんの靴へ自分の名前を書こうとしていたのよ」


「何で美海の名前を書くんだよ」


「自分のものなら、河童も持っていかないと思ったらしいわ」


「靴に名前、書いてないよね?」


「止めました」


「どこに書こうとしたの?」


「内側」


「内側なら、ちょっとくらい――いや、やっぱり嫌だ」


二人は顔を見合わせた。


同時に少しだけ笑う。


喧嘩が完全に終わったわけではない。


謝ってもいない。


けれど、先ほどより息がしやすくなった。


荷物を片づけ終えると、奈緒が腕時計を見た。


「そろそろ駅へ向かわないと」


その言葉で、部屋の空気が急に変わった。


湊は窓の外へ顔を向けた。


山は変わらずそこにある。


川も流れている。


蝉も鳴いている。


母親だけが帰る。


「駅まで行く?」


奈緒が尋ねた。


「行かない」


答えは早かった。


本当は行きたい。


けれど、駅まで行けば列車へ乗りたくなるかもしれない。帰る母親の隣に座り、そのまま東京へ戻ってしまいたくなるかもしれない。


そんな自分を見たくなかった。


「そう。じゃあ、ここで」


奈緒は、湊の麦わら帽子のつばを直した。


「毎晩、八時に電話します」


「分かってる」


「お風呂に入っていて出られなかったら、あとでかけ直して」


「分かってる」


「川へ行くときは――」


「それも分かってる」


「最後まで言わせて」


「何回も聞いたよ」


「別れる前くらい、母親の話を黙って聞けませんか」


「母さんだって、ぼくが分かってるって言ってるのを信じてよ」


また言い合いになりそうだった。


奈緒が先に息を吐いた。


「……そうね。ごめん」


母親が謝った。


湊も謝るべきだった。


さっき、邪魔だから帰るのだと言ったこと。


関係ないとハナへ言ったこと。


押し入れを勝手に開けたこと。


言うべきことはいくつもあった。


けれど喉の奥へ集まった言葉は、どれも口から出てこなかった。


代わりに出たのは、どうでもいい質問だった。


「東京に着いたら、何食べるの」


「まだ決めていません」


「駅弁?」


「帰りの新幹線で考えます」


「ふうん」


会話が途切れた。


奈緒は湊の頭へ手を伸ばしかけ、途中でやめた。


もう五年生だから、頭をなでられるのは嫌だと思ったのかもしれない。


湊は、本当は少しくらいなら構わなかった。


しかし自分から頭を近づけることもできない。


結局、二人は妙に離れた距離のまま階段を下りた。


玄関では、ハナが車の鍵を持って待っていた。


「駅まで送ってくる。善一、湊を頼むぞ」


「おう」


「勝手に川さ行かせんなよ」


「行かせん」


「台所の鍋、火ぃ止めたか?」


「止めた」


「戸締まりは?」


「まだ昼だ」


「一応聞いただけだ」


ハナは人へ注意するときだけでなく、自分が出かけるときにも話が多い。


善一は慣れているらしく、短い返事だけで受け流していた。


奈緒が靴を履き、振り返る。


「じゃあ、湊」


「うん」


「行ってきます、でいいのかしら」


三週間後には、また迎えに来る。


だから、さようならではない。


「行ってらっしゃい」


湊は答えた。


それだけだった。


気をつけて。


仕事頑張って。


来てくれてありがとう。


寂しい。


いろいろな言葉があったのに、一つも言えなかった。


奈緒は少し待った。


何か続くと思ったのかもしれない。


しかし湊が黙っていると、笑顔を作って玄関を出た。


軽ワゴンのエンジンがかかる。


砂利を踏む音がし、車がゆっくり動き出した。


湊は玄関の中から見送った。


外へ出るつもりはなかった。


けれど車が門を曲がる直前、足が勝手に動いた。


「母さん!」


サンダルも履かず、靴下のまま外へ飛び出した。


車が止まる。


助手席の窓が開き、奈緒が顔を出す。


「どうしたの?」


湊は走りながら考えた。


寂しいと言おう。


さっきはごめんと言おう。


ちゃんと毎日電話すると言おう。


ところが車のそばへ着くと、また言葉が変わった。


「ぼくの部屋に、充電器忘れてない?」


奈緒はしばらく湊を見た。


「机の引き出しに入れました」


「あ、そう」


「ほかには?」


「別に」


「本当に?」


「うん」


奈緒は何か言いたそうだったが、最後には笑った。


「分かりました。夜八時に」


「忘れないでよ」


「湊こそ」


窓が閉まる。


車が再び動き出した。


今度こそ、門を曲がって見えなくなった。


湊は道路の端に立ったまま、しばらく動けなかった。


熱い地面が靴下越しに伝わってくる。


川の音がした。


風に揺れる草の音がした。


知らない鳥が、山のほうで鳴いた。


東京では聞いたことのない音ばかりだった。


「追いかけりゃ、まだ間に合うぞ」


背後から善一が言った。


湊は振り向かなかった。


「追いかけません」


「そうか」


「三週間くらい平気です」


「そうか」


「一人じゃないし」


「そうだな」


「何か言ってくださいよ」


善一は少し黙った。


「おめえが全部言った」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、何て言ってほしい」


湊は答えられなかった。


慰めてほしいのか。


笑ってほしいのか。


心配するなと言ってほしいのか。


自分でも分からない。


「大人って、そういうのを考えて言うものでしょう」


「大人だって、分からんときは分からん」


善一は玄関に腰を下ろした。


「何でも分かってる顔すんのは、大人の悪い癖だ」


「善一さんは、してませんね」


「褒めてんのか」


「半分くらい」


善一の口元が、ほんの少しだけ動いた。


笑ったのかもしれない。


湊が玄関へ戻ろうとしたとき、二階の窓で赤いものが揺れた。


顔を上げる。


あの少女が、窓枠に両腕を置いていた。


今度は隠れない。


長い黒髪の間から湊を見下ろし、首をかしげている。


その手には、白いハンカチがあった。


母親がいつも鞄へ入れている、縁に青い花が刺繍されたハンカチ。


「それ、母さんのだ!」


湊が叫ぶと、少女はにいっと笑った。


そしてハンカチを頭の上で、別れの挨拶のように大きく振った。


「待て!」


湊が建物へ駆け込む。


階段を二段飛ばしで上り、自分の部屋へ向かった。


少女はどこにもいない。


窓辺には、母親のハンカチだけが置かれていた。


ハンカチの上には、水で濡れた小さな指を使って文字が書かれている。


『ちゃんといえ』


湊は、その四文字をじっと見つめた。


「分かってるよ」


誰もいない部屋で、つぶやく。


分かっていた。


分かっていたのに、言えなかったのだ。


窓の外から、くすくすと笑う声がした。


湊が身を乗り出すと、建物の裏手を流れる川のそばに、一人の少年が立っていた。


遠野駅で会った、あの少年だった。


少年は両手を口の横へ当てる。


「東京ぼっちゃん!」


大きな声が、夏の空を渡った。


「母ちゃんに言えなかったこと、川に向かって泣いて言うか?」


湊の顔が一気に熱くなった。


「泣いてない!」


「目ぇ赤いぞ!」


「暑いからだ!」


「目だけ汗かくのかよ!」


少年は腹を抱えて笑った。


湊は窓から身を乗り出し、怒鳴り返す。


「おまえ、誰なんだよ!」


少年は笑うのをやめた。


川の水を背にして、まっすぐ湊を見る。


「河童を釣りに来たんだろ」


「そうだよ」


「だったら来い。釣らせてやる」


少年は川上を指さした。


その指の先には、木々に隠れた細い道が続いている。


「日が沈む前に一人で来い。大人には言うな」


それだけ言うと、少年は川へ踏み込んだ。


膝まで。


腰まで。


胸まで水につかっても、歩みを止めない。


そして頭まで沈み、姿が消えた。


川面には、丸い波紋だけが残った。


湊は息をのんだ。


少年が消えた場所から、一枚の緑色の葉が浮かび上がる。


皿のように丸い葉だった。


背後で、床板がきしんだ。


振り返ると、善一が部屋の入口に立っていた。


「今の少年を知っていますか」


湊が尋ねる。


善一は窓の外を見た。


顔から、わずかに血の気が引いている。


「夕方には川さ行くなと言ったべ」


「でも、河童を釣らせてくれるって」


「行くな」


「どうしてですか」


善一の声が低くなった。


「今のは、おめえを河童に会わせたいんじゃねえ」


「じゃあ、何をしたいんですか」


善一は窓を閉め、鍵までかけた。


「おめえを釣る気だ」


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