第4話 一回目で返事をしてしまった
「何?」
返事をした声が、玄関の土間に思ったより大きく響いた。
水城湊は、そこで固まった。
駅前でハナから聞いたばかりだった。
夜、廊下で誰かに呼ばれても、三回目までは返事をしてはいけない。
今は昼間だ。
場所も廊下ではなく、玄関である。
だから決まりには当てはまらない――と考えれば、たぶん大丈夫だ。
けれど、名前を呼んだ少女の声は、玄関の奥から聞こえた。
しかも、この民宿には子どもの宿泊客はいないという。
「誰?」
湊は靴を脱がないまま、薄暗い廊下へ顔を向けた。
返事はなかった。
正面には、磨かれて黒く光る板張りの廊下が伸びている。片側には客室らしい障子戸が並び、反対側の壁には、遠野の山や田んぼを写した古い写真が飾られていた。
突き当たりに、小さな階段が見える。
二階の窓にいた赤い服の少女が、そこから降りてきたのだろうか。
「ねえ、今、誰かがぼくの名前を呼んだよね?」
湊が振り返ると、母親は旅行かばんを持ったまま立っていた。
「私は呼んでいません」
「ハナさんは?」
「呼んでねえよ」
ハナはまったく驚いた様子を見せず、玄関の戸を押さえている。
「善一さん?」
善一は湊の釣り竿を持ったまま、首を横に振った。
「じゃあ、誰ですか」
「さあな」
ハナが履物をそろえながら答えた。
「うちも古いから、いろんな音がする。柱が鳴ったり、床板がきしんだり、風が戸を揺らしたりな」
「床板が、人の名前を呼ぶんですか?」
「長く住んでりゃ、名前の一つくらい覚えるかもしれねえべ」
「今、ぼくは着いたばかりです」
「物覚えのいい床なんだろ」
「絶対、何か隠してますよね」
「客の前で、隠し事はありませんなんて言う宿のほうが怪しいぞ」
ハナはからからと笑った。
湊は納得できなかったが、奈緒に背中を押され、仕方なく靴を脱いだ。
土間から板張りの床へ上がると、足の裏にひんやりとした感触が伝わる。外は汗が流れるほど暑かったのに、建物の中は少し暗く、空気も落ち着いていた。
木の匂い。
畳の匂い。
どこかで煮物を作っているらしく、醤油と出汁の香りもする。
東京の自宅とは違う。
旅館とも少し違う。
誰かの家のようでいて、知らない人が何人も泊まれる場所だった。
「部屋へ案内する前に、手ぇ洗って昼飯だ」
ハナが言った。
「洗面所は?」
「廊下の奥。右側だ」
湊は言われた方向へ歩きかけ、すぐ足を止めた。
廊下の先に、赤いものが見えた気がした。
障子戸の陰へ、布の端が引っ込んだように見える。
「いた」
湊は荷物をその場に置き、走り出した。
「こら、廊下を走るな!」
ハナの声が背中から飛んでくる。
「女の子がいたんです!」
「女の子がいたって、走っていい理由にはなんねえ!」
「捕まえたら戻ります!」
「捕まえるな!」
最後の言葉は聞こえたが、湊は止まれなかった。
障子戸の前へ着き、勢いよく開ける。
中は八畳ほどの和室だった。
低い机。
座布団。
壁際に積まれた布団。
窓辺には古い扇風機があり、首を左右に振っている。
少女はいない。
押し入れの戸が、ほんの少し開いていた。
湊は息を整えながら近づいた。
「そこにいる?」
返事はない。
「出てきて。怒ったりしないから」
自分で言いながら、少し嘘だと思った。
勝手に名前を呼ばれた理由は聞きたいし、もし驚かせるつもりだったのなら、多少は文句を言うつもりだった。
押し入れの前へ立ち、取っ手へ指をかける。
開けようとした瞬間、背後から声がした。
「水城湊」
湊は肩を跳ねさせた。
振り向く。
誰もいない。
廊下にも人影はない。
ただ、障子戸の向こうを赤い影が通り過ぎた。
「待て!」
湊が追おうとすると、今度は押し入れの中から、くすくす笑う声が聞こえた。
前にも、後ろにもいる。
そんなはずはない。
一人ではないのかもしれない。
あるいは、声だけを別の場所から出せる妖怪なのか。
湊は再び押し入れへ向き直った。
「二回目だぞ」
思わず口に出した。
少女の声に返事をした回数を数えているのだ。
最初は玄関。
今が二回目。
三回目までは返事をしてはいけないというなら、もう次は答えない。
いや、最初に答えてしまった時点で遅いのだろうか。
そもそも、三回目「までは」という言い方なら、一回目、二回目、三回目の全部に答えてはいけないのか。それとも三回目だけはいいのか。
日本語として少し分かりにくい。
ハナには、もっと正確な決まりを教える責任がある。
湊が真剣に考え込んでいると、突然、押し入れの戸が内側から開いた。
「うわっ!」
尻もちをついた。
押し入れから出てきたのは、赤い服の少女ではなかった。
丸められた布団だった。
一組、二組、三組。
雪崩のように倒れ込み、湊の頭と肩を埋める。
「何してんだ、おめえは」
戸口から、呆れた声がした。
布団の間から顔を出すと、ハナが腰に手を当てている。その後ろには母親と善一もいた。
「違うんです。勝手に布団が落ちてきて」
「押し入れを開けたからだべ」
「中から開いたんです」
「布団が?」
「女の子が」
「どこにいんだ?」
湊は押し入れの中をのぞいた。
空だった。
上段にも下段にも、人が隠れられる場所はない。奥の板壁には穴も隙間もなかった。
「今まで、いたんです」
「来て早々、うちの布団さひっくり返して、妖怪のせいにするとは大したもんだな」
「妖怪だとはまだ言ってません」
「女の子だって言ったべ」
「人間の女の子かもしれない」
「うちにはいねえって言った」
「だったら妖怪じゃないですか」
「結局、言ってんじゃねえか」
ハナが笑い、奈緒は額へ手を当てた。
「申し訳ありません。着いた初日から」
「子どもが布団崩したくらいで謝ることねえよ。自分で直させりゃいい」
「えっ、ぼくが全部?」
湊は布団の山を見た。
三組どころではない。押し入れの奥から、さらに二組ほど傾いている。
「崩した人が直すのは当然でしょう」
奈緒が言った。
「崩してないって」
「押し入れを開けなければ、落ちなかったんでしょう?」
「でも女の子がいたから」
「いたとしても、ハナさんへ先に話せばよかったでしょう」
「逃げると思ったんだよ」
「だからといって、知らない部屋の押し入れを開けてはいけません」
「もう押し入れは見ないで、帰れってこと?」
「そんな極端なことは言っていません」
「大人はすぐ、駄目なことを一個見つけると、全部ぼくが悪いみたいに言う」
奈緒の表情が変わった。
「全部あなたが悪いとは言っていません。今、勝手に走って、よその部屋の押し入れを開けたことについて話しています」
「よその部屋って、ぼくも泊まる民宿だろ」
「泊まる場所と、自分の家は違います」
「今日から家だって、さっきハナさんが言った」
「言葉どおりに受け取らないの」
「都合が悪くなったときだけ、言葉どおりじゃないって言うんだ」
湊は自分でも、少し言いすぎていると分かっていた。
母親は、別に河童や少女のことを否定したいだけではない。三週間、よその家へ預けるのだから、迷惑をかけないようにしてほしいのだ。
けれど、それを分かっているからこそ、素直に謝りづらい。
先に自分が折れたら、少女を見たことまで間違いにされる気がした。
奈緒も同じなのだろう。
息子が妙な意地を張っていると分かっていて、簡単には引かない。
母親と子どもの喧嘩は、どちらか一方が完全に正しい場合より、両方に少しずつ言い分があるときのほうが長くなる。
「はい、そこまで」
ハナが二人の間へ入った。
「布団は逃げねえし、河童も昼飯の間くらい待つべ。まず飯だ」
「でも、片づけないと」
奈緒が言う。
「あとで湊にやらせる。腹減ってると、親子喧嘩は余計ひどくなるからな」
「ぼくは腹が減ってるから怒ってるんじゃありません」
「そういうやつほど、食ったら静かになる」
「なりません」
「じゃあ、食ってから続けろ。聞きながら茶ぁ飲むから」
ハナはそう言って、布団の一番上を持ち上げた。
善一も黙って手伝う。
湊が立ち上がろうとすると、母親が手を差し出した。
一瞬、つかむか迷った。
さっきまで言い合っていたので、素直に手を借りるのは少し負けたような気がした。
けれど、立ち上がるときに布団へ足を取られて転ぶほうが、もっと格好悪い。
湊は母親の手を取った。
「女の子は、本当にいたから」
小声で言う。
奈緒も声を落とした。
「いなかったとは言ってないでしょう」
「でも、信じてない顔してた」
「見ていないものを、すぐ信じた顔はできません」
「母さんは、ぼくのことも信じられないの?」
奈緒は少し困ったように湊を見た。
「あなたが見たと思っていることは信じています」
「それ、見間違いだと思ってる人の言い方じゃん」
「面倒くさい子ね」
「母さんの子だから」
「そういうところだけ、うれしそうに言わないでください」
奈緒の口元が少し緩んだ。
湊も笑いそうになったが、まだ喧嘩の途中だったことを思い出し、慌てて真面目な顔へ戻した。
昼食は、広い座敷に用意されていた。
低い長机の上には、大きな器に入った汁物と、おにぎり、漬物、つやのあるきゅうり、甘辛く煮た小魚が並んでいる。
湊は座布団へ座るなり、汁椀の中をのぞいた。
平たくちぎられた小麦粉の生地と、鶏肉、にんじん、ごぼう、きのこが入っている。
「これが、ひっつみ?」
「そうだ」
ハナが湊の向かいへ座った。
「小麦粉をこねたやつを、手でひっつまんで汁さ入れるから、ひっつみ。土地や家によって具も味も違うけどな」
「すいとんとは違うんですか?」
「似たようなもんだって言う人もいるし、違うって怒る人もいる」
「どっちが正しいんですか」
「食ってうまけりゃいいんじゃねえか?」
「研究では、そういう曖昧なのは困ります」
「飯にまで研究持ち込むと、まずくなるぞ」
「どうして?」
「食う前に考えすぎるからだ」
ハナは自分の椀を持ち、湯気へ息を吹きかけた。
「昔から食ってるもんには、家ごとの言い方や作り方があんだ。どれが一つだけ正しいって決めたら、残りの家は全部間違いになっちまうべ」
湊は箸を止めた。
妖怪の話にも似ている。
同じ河童でも、地方によって姿や性質が違う。緑色だと書く本もあれば、赤いと伝える地域もある。亀のような甲羅を持つものもいれば、猿のような姿で描かれるものもいた。
一つを正しいと決めれば、ほかは間違いになる。
けれど、全部が同じ妖怪ではない可能性もある。
「それ、ノートに書いていいですか」
「ひっつみの話を?」
「妖怪にも使えそうだから」
「好きにしろ。ただし、冷める前に食え」
湊はまず汁をすすった。
鶏肉と野菜の味が溶けた汁は、見た目よりあっさりしている。平たい生地は、端が薄く、真ん中が少し厚い。噛む場所によって柔らかさが違った。
「おいしい」
思わず言うと、ハナは得意そうに笑った。
「そうだべ」
「生地がもちもちしてる。でも、うどんとも違う」
「善一がこねたからな」
湊は驚いて善一を見た。
善一は無言でおにぎりを食べている。
「善一さんが料理したんですか」
「ひっつみをこねるのは、昔から善一のほうがうまい」
「金づちしか使わない人だと思ってました」
「人を大工道具みてえに言うな」
善一が初めて少し長く話した。
「しゃべれるんですね」
「しゃべる」
「さっきからほとんど話さないから、必要な言葉が一日に決まってるのかと思いました」
善一はおにぎりを置き、湊を見た。
「おめえは、必要でねえ言葉まで多すぎる」
ハナが声を上げて笑った。
奈緒まで笑っている。
「母さんまで笑うことないだろ」
「善一さんが、こんなに早く人へ突っ込むのは珍しいのよ」
「昔から知ってるんですか?」
「私が大学生のころ、夏休みに一度ここへ泊まったの。そのあとも何度か来たわ」
「そんな話、聞いてない」
「聞かれなかったから」
「遠野に来たことあるなら、もっと早く話してよ」
「話そうとすると、あなたが河童の説明を始めるから、入る隙がなかったの」
「それは母さんが話し始めるのが遅いんだよ」
「会話には、人の話が終わるのを待つ時間が必要です」
「ぼくは終わってた」
「二十分ほど続いていました」
「河童の地方別の特徴を説明するなら、二十分は短いよ」
「ほら、また始まった」
奈緒は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
湊はおにぎりを手に取った。
白いご飯の中には、甘じょっぱい味噌が入っている。表面には少し焦げ目がつき、香ばしい。
きゅうりは味噌をつけて食べた。
かじると、ぱきりと小気味のよい音がして、冷たい水分が口いっぱいに広がる。
「これ、東京で食べるきゅうりより味が濃い」
「朝、畑から採ったばっかりだからな」
「河童も好きそう」
「まだ言うか」
「一本だけ、持っていっていいですか」
「川へ行くのは明日からだ」
「今日は場所を見るだけでも」
「母ちゃんが帰る前に、荷物ほどいて、宿の中を覚えろ」
ハナの言葉に、湊は母親を見た。
奈緒が東京へ戻るのは、明日の朝だと思っていた。
「母さん、今日泊まるよね?」
「その予定だったけれど」
奈緒は少し言いにくそうに箸を置いた。
「仕事の連絡が入って、今日の夕方の列車で帰ることになったの」
湊の手が止まった。
「聞いてない」
「駅に着いたあとで連絡が来たの。さっき、ハナさんには話しました」
「明日の朝って言ったじゃん」
「ごめん。でも、今日のうちに戻らないと、明日の仕事に間に合わなくて」
「一日くらい休めばいいだろ」
「急に休めない仕事もあります」
「ぼくは三週間、一人で泊まるのに?」
「一人ではないでしょう。ハナさんと善一さんがいるし、毎晩電話もするわ」
「そういう話じゃない」
湊は自分の声が大きくなるのを止められなかった。
昨日まで、母親が早く帰れば、すぐ自由に河童を探せると思っていた。
何時に出かけても注意されない。
川辺で泥だらけになっても、その場では叱られない。
妖怪を見たと言っても、疑う顔をされない。
そのほうがいいはずだった。
なのに、いざ今日帰ると言われると、胸の中に急に穴が開いたような気がした。
「最初から、そのつもりだったんじゃないの」
「違います」
「ぼくが邪魔だから、早く帰りたかったんだろ」
奈緒の顔から笑みが消えた。
「そういう言い方はやめなさい」
「だって、三週間も預けるんだよ」
「あなたが来たいと言ったんでしょう」
「母さんがいいって言ったんだろ!」
「だから、できるように準備しました。ハナさんにもお願いして、お父さんとも相談して、仕事の予定も調整したの」
「でも今日は帰る」
「仕事だからです。あなたが邪魔だからではありません」
分かっている。
本当は分かっていた。
母親は、この旅行のために何度も電話をしてくれた。着替えをそろえ、薬を用意し、持ち物に名前まで書いた。
それでも、口から出た言葉は戻せない。
奈緒は怒っている。
同時に、傷ついているようにも見えた。
湊は謝ろうとした。
しかし喉の奥から出てきたのは、謝罪とは別の言葉だった。
「もういい。帰れば」
「湊」
「河童を探すのに、母さんがいないほうが都合いいから」
強がりだと、自分でも分かる。
奈緒にも、ハナにも、たぶん善一にも分かっている。
分かっているのに、誰もすぐには指摘しなかった。
気まずい沈黙が、湯気の立つ食卓に落ちた。
外から、蝉の声が聞こえる。
さっきまでおいしかったひっつみが、急に喉を通りづらくなった。
「湊」
ハナが静かに呼んだ。
「母ちゃんが帰る前に、言いてえことがあるなら言っとけ」
「別にない」
「ねえ顔してるぞ」
「ないです」
「あとで電話で言えばいいと思ってんなら、電話じゃ言えねえこともあるからな」
「ハナさんには関係ない」
言った瞬間、しまったと思った。
三週間世話になる相手に、最初の日から言う言葉ではない。
ハナは怒るかもしれない。
しかしハナは湊を叱らなかった。
お茶を一口飲み、椀を机へ置いた。
「そうだな。親子のことは、うちには全部分からねえ」
その言い方が、かえって胸へ刺さった。
怒鳴られたほうが楽だったかもしれない。
「でもな、言わなくても分かると思ってると、そのうち本当に分かんなくなるぞ。親でも子でも、妖怪でも同じだ」
「妖怪と親子を一緒にしないでください」
「面倒くせえところは似たようなもんだ」
善一が、ぼそりと言った。
「黙ってても分かれって顔しやがる」
ハナが善一を振り返る。
「それ、誰の話だ?」
「誰でもねえ」
「今、こっち見ただろ」
「見てねえ」
「七十三にもなって、ごまかし方が子どもと同じだな」
「飯が冷める」
「話そらした」
今度は、奈緒が小さく笑った。
湊も笑いそうになったが、母親と目が合うと、気まずくなって視線を落とした。
机の下で、何かが足へ触れた。
猫かと思った。
先ほど玄関先で寝ていた猫が入ってきたのだろう。
湊が足を少し動かすと、細い指のようなものが、足首をつかんだ。
息が止まった。
ゆっくり机の下をのぞく。
暗がりの中に、赤い服の少女がしゃがんでいた。
長い黒髪の間から、白い顔がのぞいている。
少女は片手で湊の足首をつかみ、もう片方の手には、湊のきゅうりを持っていた。
目が合う。
少女はきゅうりを一口かじった。
ぱきり。
静かな食卓に、音が響いた。
「いた!」
湊が立ち上がり、机へ膝をぶつけた。
湯飲みが揺れる。
「何だ!」
ハナが身を乗り出す。
「机の下! 赤い服の女の子!」
奈緒とハナが同時にのぞき込んだ。
善一だけは、なぜか動かなかった。
机の下には誰もいない。
ただ、湊の食べかけだったきゅうりが、床に転がっていた。
先端には、小さな歯形がついている。
「ぼくは食べてない」
湊はきゅうりを拾った。
「こんな小さい歯形じゃない。女の子が食べたんです」
ハナが歯形を見た。
「ネズミじゃねえか?」
「ネズミは赤い服を着ません」
「今どきのネズミは、おしゃれかもしれねえぞ」
「ごまかさないでください」
奈緒も歯形を眺め、首をかしげた。
「本当に小さいわね」
「だから言っただろ」
「でも、机の下に子どもが入ってきたら、私たちにも分かるはずでしょう」
「妖怪なら分からないかもしれない」
「すぐ妖怪にするな」
善一が、漬物をつまみながら言った。
「座敷わらしかもしれないだろ」
湊は言い返した。
その瞬間、善一の箸が止まった。
ほんのわずかだったが、湊は見逃さなかった。
「善一さん、知ってますね」
「知らん」
「今、動きが止まりました」
「漬物が硬かった」
「それだけで、そんな顔しません」
「どんな顔だ」
「見つかったって顔」
「おめえは、人の顔へ勝手に字を書くな」
善一は再び漬物をかじった。
ハナは何も言わず、床のきゅうりを受け取ると、台所へ持っていった。
その背中にも、少しだけ緊張があるように見えた。
絶対に、何か知っている。
この民宿には、赤い服の少女がいる。
人間ではないかもしれない。
そして少女は、湊の名前を知っている。
湊は自由研究ノートを開き、食事の途中で記録を始めた。
『到着初日。かざぐるま荘で、赤い服の少女を三回目撃。宿の人には見えない可能性あり。きゅうりを食べた。座敷わらしの可能性――』
そこまで書いたとき、ページの端に赤い文字が浮かび上がった。
ペンで書いた字ではない。
赤いクレヨンを強く押しつけたような、太くて乱暴な字だった。
『ちがう』
湊は息をのんだ。
「母さん、これ」
奈緒へ見せようとノートを持ち上げる。
ところが、赤い文字は消えていた。
代わりに、ページの隅へ下手な河童の絵が描かれている。
頭の皿。
大きな甲羅。
そして、なぜか泣いている顔。
絵の下には、小さく一言だけ書かれていた。
『つるな』
湊が顔を上げたとき、二階から、あの少女の笑い声が聞こえた。
くす、くす、くす。
今度は、食卓にいた全員が同時に天井を見上げた。
笑い声は、誰にでも聞こえていた。




