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ぼくの夏休み自由研究は、遠野で河童を釣ることです 〜妖怪好きの小学五年生、人間に化けた妖怪たちと三週間暮らす〜  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第4話 一回目で返事をしてしまった

「何?」


返事をした声が、玄関の土間に思ったより大きく響いた。


水城湊は、そこで固まった。


駅前でハナから聞いたばかりだった。


夜、廊下で誰かに呼ばれても、三回目までは返事をしてはいけない。


今は昼間だ。


場所も廊下ではなく、玄関である。


だから決まりには当てはまらない――と考えれば、たぶん大丈夫だ。


けれど、名前を呼んだ少女の声は、玄関の奥から聞こえた。


しかも、この民宿には子どもの宿泊客はいないという。


「誰?」


湊は靴を脱がないまま、薄暗い廊下へ顔を向けた。


返事はなかった。


正面には、磨かれて黒く光る板張りの廊下が伸びている。片側には客室らしい障子戸が並び、反対側の壁には、遠野の山や田んぼを写した古い写真が飾られていた。


突き当たりに、小さな階段が見える。


二階の窓にいた赤い服の少女が、そこから降りてきたのだろうか。


「ねえ、今、誰かがぼくの名前を呼んだよね?」


湊が振り返ると、母親は旅行かばんを持ったまま立っていた。


「私は呼んでいません」


「ハナさんは?」


「呼んでねえよ」


ハナはまったく驚いた様子を見せず、玄関の戸を押さえている。


「善一さん?」


善一は湊の釣り竿を持ったまま、首を横に振った。


「じゃあ、誰ですか」


「さあな」


ハナが履物をそろえながら答えた。


「うちも古いから、いろんな音がする。柱が鳴ったり、床板がきしんだり、風が戸を揺らしたりな」


「床板が、人の名前を呼ぶんですか?」


「長く住んでりゃ、名前の一つくらい覚えるかもしれねえべ」


「今、ぼくは着いたばかりです」


「物覚えのいい床なんだろ」


「絶対、何か隠してますよね」


「客の前で、隠し事はありませんなんて言う宿のほうが怪しいぞ」


ハナはからからと笑った。


湊は納得できなかったが、奈緒に背中を押され、仕方なく靴を脱いだ。


土間から板張りの床へ上がると、足の裏にひんやりとした感触が伝わる。外は汗が流れるほど暑かったのに、建物の中は少し暗く、空気も落ち着いていた。


木の匂い。


畳の匂い。


どこかで煮物を作っているらしく、醤油と出汁の香りもする。


東京の自宅とは違う。


旅館とも少し違う。


誰かの家のようでいて、知らない人が何人も泊まれる場所だった。


「部屋へ案内する前に、手ぇ洗って昼飯だ」


ハナが言った。


「洗面所は?」


「廊下の奥。右側だ」


湊は言われた方向へ歩きかけ、すぐ足を止めた。


廊下の先に、赤いものが見えた気がした。


障子戸の陰へ、布の端が引っ込んだように見える。


「いた」


湊は荷物をその場に置き、走り出した。


「こら、廊下を走るな!」


ハナの声が背中から飛んでくる。


「女の子がいたんです!」


「女の子がいたって、走っていい理由にはなんねえ!」


「捕まえたら戻ります!」


「捕まえるな!」


最後の言葉は聞こえたが、湊は止まれなかった。


障子戸の前へ着き、勢いよく開ける。


中は八畳ほどの和室だった。


低い机。


座布団。


壁際に積まれた布団。


窓辺には古い扇風機があり、首を左右に振っている。


少女はいない。


押し入れの戸が、ほんの少し開いていた。


湊は息を整えながら近づいた。


「そこにいる?」


返事はない。


「出てきて。怒ったりしないから」


自分で言いながら、少し嘘だと思った。


勝手に名前を呼ばれた理由は聞きたいし、もし驚かせるつもりだったのなら、多少は文句を言うつもりだった。


押し入れの前へ立ち、取っ手へ指をかける。


開けようとした瞬間、背後から声がした。


「水城湊」


湊は肩を跳ねさせた。


振り向く。


誰もいない。


廊下にも人影はない。


ただ、障子戸の向こうを赤い影が通り過ぎた。


「待て!」


湊が追おうとすると、今度は押し入れの中から、くすくす笑う声が聞こえた。


前にも、後ろにもいる。


そんなはずはない。


一人ではないのかもしれない。


あるいは、声だけを別の場所から出せる妖怪なのか。


湊は再び押し入れへ向き直った。


「二回目だぞ」


思わず口に出した。


少女の声に返事をした回数を数えているのだ。


最初は玄関。


今が二回目。


三回目までは返事をしてはいけないというなら、もう次は答えない。


いや、最初に答えてしまった時点で遅いのだろうか。


そもそも、三回目「までは」という言い方なら、一回目、二回目、三回目の全部に答えてはいけないのか。それとも三回目だけはいいのか。


日本語として少し分かりにくい。


ハナには、もっと正確な決まりを教える責任がある。


湊が真剣に考え込んでいると、突然、押し入れの戸が内側から開いた。


「うわっ!」


尻もちをついた。


押し入れから出てきたのは、赤い服の少女ではなかった。


丸められた布団だった。


一組、二組、三組。


雪崩のように倒れ込み、湊の頭と肩を埋める。


「何してんだ、おめえは」


戸口から、呆れた声がした。


布団の間から顔を出すと、ハナが腰に手を当てている。その後ろには母親と善一もいた。


「違うんです。勝手に布団が落ちてきて」


「押し入れを開けたからだべ」


「中から開いたんです」


「布団が?」


「女の子が」


「どこにいんだ?」


湊は押し入れの中をのぞいた。


空だった。


上段にも下段にも、人が隠れられる場所はない。奥の板壁には穴も隙間もなかった。


「今まで、いたんです」


「来て早々、うちの布団さひっくり返して、妖怪のせいにするとは大したもんだな」


「妖怪だとはまだ言ってません」


「女の子だって言ったべ」


「人間の女の子かもしれない」


「うちにはいねえって言った」


「だったら妖怪じゃないですか」


「結局、言ってんじゃねえか」


ハナが笑い、奈緒は額へ手を当てた。


「申し訳ありません。着いた初日から」


「子どもが布団崩したくらいで謝ることねえよ。自分で直させりゃいい」


「えっ、ぼくが全部?」


湊は布団の山を見た。


三組どころではない。押し入れの奥から、さらに二組ほど傾いている。


「崩した人が直すのは当然でしょう」


奈緒が言った。


「崩してないって」


「押し入れを開けなければ、落ちなかったんでしょう?」


「でも女の子がいたから」


「いたとしても、ハナさんへ先に話せばよかったでしょう」


「逃げると思ったんだよ」


「だからといって、知らない部屋の押し入れを開けてはいけません」


「もう押し入れは見ないで、帰れってこと?」


「そんな極端なことは言っていません」


「大人はすぐ、駄目なことを一個見つけると、全部ぼくが悪いみたいに言う」


奈緒の表情が変わった。


「全部あなたが悪いとは言っていません。今、勝手に走って、よその部屋の押し入れを開けたことについて話しています」


「よその部屋って、ぼくも泊まる民宿だろ」


「泊まる場所と、自分の家は違います」


「今日から家だって、さっきハナさんが言った」


「言葉どおりに受け取らないの」


「都合が悪くなったときだけ、言葉どおりじゃないって言うんだ」


湊は自分でも、少し言いすぎていると分かっていた。


母親は、別に河童や少女のことを否定したいだけではない。三週間、よその家へ預けるのだから、迷惑をかけないようにしてほしいのだ。


けれど、それを分かっているからこそ、素直に謝りづらい。


先に自分が折れたら、少女を見たことまで間違いにされる気がした。


奈緒も同じなのだろう。


息子が妙な意地を張っていると分かっていて、簡単には引かない。


母親と子どもの喧嘩は、どちらか一方が完全に正しい場合より、両方に少しずつ言い分があるときのほうが長くなる。


「はい、そこまで」


ハナが二人の間へ入った。


「布団は逃げねえし、河童も昼飯の間くらい待つべ。まず飯だ」


「でも、片づけないと」


奈緒が言う。


「あとで湊にやらせる。腹減ってると、親子喧嘩は余計ひどくなるからな」


「ぼくは腹が減ってるから怒ってるんじゃありません」


「そういうやつほど、食ったら静かになる」


「なりません」


「じゃあ、食ってから続けろ。聞きながら茶ぁ飲むから」


ハナはそう言って、布団の一番上を持ち上げた。


善一も黙って手伝う。


湊が立ち上がろうとすると、母親が手を差し出した。


一瞬、つかむか迷った。


さっきまで言い合っていたので、素直に手を借りるのは少し負けたような気がした。


けれど、立ち上がるときに布団へ足を取られて転ぶほうが、もっと格好悪い。


湊は母親の手を取った。


「女の子は、本当にいたから」


小声で言う。


奈緒も声を落とした。


「いなかったとは言ってないでしょう」


「でも、信じてない顔してた」


「見ていないものを、すぐ信じた顔はできません」


「母さんは、ぼくのことも信じられないの?」


奈緒は少し困ったように湊を見た。


「あなたが見たと思っていることは信じています」


「それ、見間違いだと思ってる人の言い方じゃん」


「面倒くさい子ね」


「母さんの子だから」


「そういうところだけ、うれしそうに言わないでください」


奈緒の口元が少し緩んだ。


湊も笑いそうになったが、まだ喧嘩の途中だったことを思い出し、慌てて真面目な顔へ戻した。


昼食は、広い座敷に用意されていた。


低い長机の上には、大きな器に入った汁物と、おにぎり、漬物、つやのあるきゅうり、甘辛く煮た小魚が並んでいる。


湊は座布団へ座るなり、汁椀の中をのぞいた。


平たくちぎられた小麦粉の生地と、鶏肉、にんじん、ごぼう、きのこが入っている。


「これが、ひっつみ?」


「そうだ」


ハナが湊の向かいへ座った。


「小麦粉をこねたやつを、手でひっつまんで汁さ入れるから、ひっつみ。土地や家によって具も味も違うけどな」


「すいとんとは違うんですか?」


「似たようなもんだって言う人もいるし、違うって怒る人もいる」


「どっちが正しいんですか」


「食ってうまけりゃいいんじゃねえか?」


「研究では、そういう曖昧なのは困ります」


「飯にまで研究持ち込むと、まずくなるぞ」


「どうして?」


「食う前に考えすぎるからだ」


ハナは自分の椀を持ち、湯気へ息を吹きかけた。


「昔から食ってるもんには、家ごとの言い方や作り方があんだ。どれが一つだけ正しいって決めたら、残りの家は全部間違いになっちまうべ」


湊は箸を止めた。


妖怪の話にも似ている。


同じ河童でも、地方によって姿や性質が違う。緑色だと書く本もあれば、赤いと伝える地域もある。亀のような甲羅を持つものもいれば、猿のような姿で描かれるものもいた。


一つを正しいと決めれば、ほかは間違いになる。


けれど、全部が同じ妖怪ではない可能性もある。


「それ、ノートに書いていいですか」


「ひっつみの話を?」


「妖怪にも使えそうだから」


「好きにしろ。ただし、冷める前に食え」


湊はまず汁をすすった。


鶏肉と野菜の味が溶けた汁は、見た目よりあっさりしている。平たい生地は、端が薄く、真ん中が少し厚い。噛む場所によって柔らかさが違った。


「おいしい」


思わず言うと、ハナは得意そうに笑った。


「そうだべ」


「生地がもちもちしてる。でも、うどんとも違う」


「善一がこねたからな」


湊は驚いて善一を見た。


善一は無言でおにぎりを食べている。


「善一さんが料理したんですか」


「ひっつみをこねるのは、昔から善一のほうがうまい」


「金づちしか使わない人だと思ってました」


「人を大工道具みてえに言うな」


善一が初めて少し長く話した。


「しゃべれるんですね」


「しゃべる」


「さっきからほとんど話さないから、必要な言葉が一日に決まってるのかと思いました」


善一はおにぎりを置き、湊を見た。


「おめえは、必要でねえ言葉まで多すぎる」


ハナが声を上げて笑った。


奈緒まで笑っている。


「母さんまで笑うことないだろ」


「善一さんが、こんなに早く人へ突っ込むのは珍しいのよ」


「昔から知ってるんですか?」


「私が大学生のころ、夏休みに一度ここへ泊まったの。そのあとも何度か来たわ」


「そんな話、聞いてない」


「聞かれなかったから」


「遠野に来たことあるなら、もっと早く話してよ」


「話そうとすると、あなたが河童の説明を始めるから、入る隙がなかったの」


「それは母さんが話し始めるのが遅いんだよ」


「会話には、人の話が終わるのを待つ時間が必要です」


「ぼくは終わってた」


「二十分ほど続いていました」


「河童の地方別の特徴を説明するなら、二十分は短いよ」


「ほら、また始まった」


奈緒は呆れながらも、どこか楽しそうだった。


湊はおにぎりを手に取った。


白いご飯の中には、甘じょっぱい味噌が入っている。表面には少し焦げ目がつき、香ばしい。


きゅうりは味噌をつけて食べた。


かじると、ぱきりと小気味のよい音がして、冷たい水分が口いっぱいに広がる。


「これ、東京で食べるきゅうりより味が濃い」


「朝、畑から採ったばっかりだからな」


「河童も好きそう」


「まだ言うか」


「一本だけ、持っていっていいですか」


「川へ行くのは明日からだ」


「今日は場所を見るだけでも」


「母ちゃんが帰る前に、荷物ほどいて、宿の中を覚えろ」


ハナの言葉に、湊は母親を見た。


奈緒が東京へ戻るのは、明日の朝だと思っていた。


「母さん、今日泊まるよね?」


「その予定だったけれど」


奈緒は少し言いにくそうに箸を置いた。


「仕事の連絡が入って、今日の夕方の列車で帰ることになったの」


湊の手が止まった。


「聞いてない」


「駅に着いたあとで連絡が来たの。さっき、ハナさんには話しました」


「明日の朝って言ったじゃん」


「ごめん。でも、今日のうちに戻らないと、明日の仕事に間に合わなくて」


「一日くらい休めばいいだろ」


「急に休めない仕事もあります」


「ぼくは三週間、一人で泊まるのに?」


「一人ではないでしょう。ハナさんと善一さんがいるし、毎晩電話もするわ」


「そういう話じゃない」


湊は自分の声が大きくなるのを止められなかった。


昨日まで、母親が早く帰れば、すぐ自由に河童を探せると思っていた。


何時に出かけても注意されない。


川辺で泥だらけになっても、その場では叱られない。


妖怪を見たと言っても、疑う顔をされない。


そのほうがいいはずだった。


なのに、いざ今日帰ると言われると、胸の中に急に穴が開いたような気がした。


「最初から、そのつもりだったんじゃないの」


「違います」


「ぼくが邪魔だから、早く帰りたかったんだろ」


奈緒の顔から笑みが消えた。


「そういう言い方はやめなさい」


「だって、三週間も預けるんだよ」


「あなたが来たいと言ったんでしょう」


「母さんがいいって言ったんだろ!」


「だから、できるように準備しました。ハナさんにもお願いして、お父さんとも相談して、仕事の予定も調整したの」


「でも今日は帰る」


「仕事だからです。あなたが邪魔だからではありません」


分かっている。


本当は分かっていた。


母親は、この旅行のために何度も電話をしてくれた。着替えをそろえ、薬を用意し、持ち物に名前まで書いた。


それでも、口から出た言葉は戻せない。


奈緒は怒っている。


同時に、傷ついているようにも見えた。


湊は謝ろうとした。


しかし喉の奥から出てきたのは、謝罪とは別の言葉だった。


「もういい。帰れば」


「湊」


「河童を探すのに、母さんがいないほうが都合いいから」


強がりだと、自分でも分かる。


奈緒にも、ハナにも、たぶん善一にも分かっている。


分かっているのに、誰もすぐには指摘しなかった。


気まずい沈黙が、湯気の立つ食卓に落ちた。


外から、蝉の声が聞こえる。


さっきまでおいしかったひっつみが、急に喉を通りづらくなった。


「湊」


ハナが静かに呼んだ。


「母ちゃんが帰る前に、言いてえことがあるなら言っとけ」


「別にない」


「ねえ顔してるぞ」


「ないです」


「あとで電話で言えばいいと思ってんなら、電話じゃ言えねえこともあるからな」


「ハナさんには関係ない」


言った瞬間、しまったと思った。


三週間世話になる相手に、最初の日から言う言葉ではない。


ハナは怒るかもしれない。


しかしハナは湊を叱らなかった。


お茶を一口飲み、椀を机へ置いた。


「そうだな。親子のことは、うちには全部分からねえ」


その言い方が、かえって胸へ刺さった。


怒鳴られたほうが楽だったかもしれない。


「でもな、言わなくても分かると思ってると、そのうち本当に分かんなくなるぞ。親でも子でも、妖怪でも同じだ」


「妖怪と親子を一緒にしないでください」


「面倒くせえところは似たようなもんだ」


善一が、ぼそりと言った。


「黙ってても分かれって顔しやがる」


ハナが善一を振り返る。


「それ、誰の話だ?」


「誰でもねえ」


「今、こっち見ただろ」


「見てねえ」


「七十三にもなって、ごまかし方が子どもと同じだな」


「飯が冷める」


「話そらした」


今度は、奈緒が小さく笑った。


湊も笑いそうになったが、母親と目が合うと、気まずくなって視線を落とした。


机の下で、何かが足へ触れた。


猫かと思った。


先ほど玄関先で寝ていた猫が入ってきたのだろう。


湊が足を少し動かすと、細い指のようなものが、足首をつかんだ。


息が止まった。


ゆっくり机の下をのぞく。


暗がりの中に、赤い服の少女がしゃがんでいた。


長い黒髪の間から、白い顔がのぞいている。


少女は片手で湊の足首をつかみ、もう片方の手には、湊のきゅうりを持っていた。


目が合う。


少女はきゅうりを一口かじった。


ぱきり。


静かな食卓に、音が響いた。


「いた!」


湊が立ち上がり、机へ膝をぶつけた。


湯飲みが揺れる。


「何だ!」


ハナが身を乗り出す。


「机の下! 赤い服の女の子!」


奈緒とハナが同時にのぞき込んだ。


善一だけは、なぜか動かなかった。


机の下には誰もいない。


ただ、湊の食べかけだったきゅうりが、床に転がっていた。


先端には、小さな歯形がついている。


「ぼくは食べてない」


湊はきゅうりを拾った。


「こんな小さい歯形じゃない。女の子が食べたんです」


ハナが歯形を見た。


「ネズミじゃねえか?」


「ネズミは赤い服を着ません」


「今どきのネズミは、おしゃれかもしれねえぞ」


「ごまかさないでください」


奈緒も歯形を眺め、首をかしげた。


「本当に小さいわね」


「だから言っただろ」


「でも、机の下に子どもが入ってきたら、私たちにも分かるはずでしょう」


「妖怪なら分からないかもしれない」


「すぐ妖怪にするな」


善一が、漬物をつまみながら言った。


「座敷わらしかもしれないだろ」


湊は言い返した。


その瞬間、善一の箸が止まった。


ほんのわずかだったが、湊は見逃さなかった。


「善一さん、知ってますね」


「知らん」


「今、動きが止まりました」


「漬物が硬かった」


「それだけで、そんな顔しません」


「どんな顔だ」


「見つかったって顔」


「おめえは、人の顔へ勝手に字を書くな」


善一は再び漬物をかじった。


ハナは何も言わず、床のきゅうりを受け取ると、台所へ持っていった。


その背中にも、少しだけ緊張があるように見えた。


絶対に、何か知っている。


この民宿には、赤い服の少女がいる。


人間ではないかもしれない。


そして少女は、湊の名前を知っている。


湊は自由研究ノートを開き、食事の途中で記録を始めた。


『到着初日。かざぐるま荘で、赤い服の少女を三回目撃。宿の人には見えない可能性あり。きゅうりを食べた。座敷わらしの可能性――』


そこまで書いたとき、ページの端に赤い文字が浮かび上がった。


ペンで書いた字ではない。


赤いクレヨンを強く押しつけたような、太くて乱暴な字だった。


『ちがう』


湊は息をのんだ。


「母さん、これ」


奈緒へ見せようとノートを持ち上げる。


ところが、赤い文字は消えていた。


代わりに、ページの隅へ下手な河童の絵が描かれている。


頭の皿。


大きな甲羅。


そして、なぜか泣いている顔。


絵の下には、小さく一言だけ書かれていた。


『つるな』


湊が顔を上げたとき、二階から、あの少女の笑い声が聞こえた。


くす、くす、くす。


今度は、食卓にいた全員が同時に天井を見上げた。


笑い声は、誰にでも聞こえていた。


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