第3話 民宿かざぐるま荘には、変な決まりがある
「母さん、今の見た?」
水城湊は、遠野駅のホームに残った濡れた足跡を指さした。
裸足の子どもが歩いたような跡は、柱の前まで続き、そこで途切れている。
柱の向こうは壁だった。
よじ登れるような出っ張りもない。近くに水道もなければ、誰かが水をこぼした形跡もなかった。
しかし奈緒は、湊の指した床ではなく、息子の顔を見た。
「何を?」
「足跡だよ。ここから、ここまで」
「どこ?」
「だから、そこ」
湊はしゃがみ込み、指先を床へ近づけた。
確かに、さっきまであったはずなのだ。
一つ、二つ、三つ。
小さな濡れた足跡が、壁に向かって並んでいた。
ところが今は、乾いた床に薄い染みが残っているだけで、足の形は崩れてしまっている。
「ほら、ここがかかとで、こっちが指。五本あった」
「湊」
母親は、ホームの時計を見上げた。
「あなたは遠野に着いてから、まだ三分もたっていません」
「三分でも河童には会えるだろ」
「河童だと決まったの?」
「さっきの男の子が、ぼくのことを知ってたんだよ。河童を釣りに来たって」
「釣り竿を持っていれば、釣りに来たと思うのは普通でしょう」
「魚じゃなくて、河童って言った」
奈緒は少し眉を寄せた。
「本当に?」
「本当だよ。それで柱の後ろに隠れて、いなくなった」
「走って行ったんじゃなくて?」
「壁があるって言ってるだろ」
「子どもが通れるような隙間は?」
「ない」
「ホームから線路へ降りたとか」
「それは危ないし、そんな音もしなかった」
質問されるたび、湊はだんだん腹が立ってきた。
どうして大人は、信じる前に「見間違いではないか」「勘違いではないか」と考えるのだろう。
それなら最初から、「信じない」と言ってくれたほうが話は早い。
「母さんも、ぼくが嘘をついてると思ってるの?」
「嘘とは言っていません」
「じゃあ信じる?」
「分からないから、聞いています」
「そういう言い方、先生と同じだよ」
「青木先生はいい先生ね」
「褒めてない」
奈緒はしゃがみ、床に残った染みへ指を当てた。
しばらく考えたあと、においまで確かめる。
「ただの水みたいね」
「河童の足跡から毒が出てたら困るだろ。触るなよ」
「先に言ってください」
母親は慌ててハンカチで指を拭いた。
その様子がおかしくて、湊の怒りが少しだけしぼんだ。
「母さんだって、ちょっと怖いんじゃん」
「毒と言われれば怖いでしょう。河童かどうかとは別問題です」
「毒は出ないと思うけど」
「今、適当に言ったの?」
「可能性の話」
「人を可能性で脅さないでください」
ホームの向こうから、駅員がこちらを見ていた。
奈緒は小さく会釈すると、湊の背中を押した。
「迎えの方を待たせています。行きますよ」
「でも、足跡を記録しないと」
「写真は一枚だけ」
湊は急いでスマートフォンを取り出し、薄く残った染みを撮影した。
画面で確認すると、ただの汚れた床にしか見えない。
目で見たときには、もっとはっきりしていたはずなのに。
「写真に写りにくい妖怪なのかも」
「掃除をしている人に怒られそうな研究ね」
「母さんは、もうちょっと夢のあることを言えないの?」
「夢のある人が現実の荷物を持つべきです」
奈緒はそう言って、湊の大きなリュックを指さした。
「自分で持ちなさい」
「さっきまで持ってくれてたのに」
「遠野に着いたので、三週間の自立生活を始めます」
「駅を出てからでいいだろ」
「自立に改札は関係ありません」
母親は、ときどき妙なところで厳しい。
湊はリュックを背負い、釣り竿と小さな旅行かばんも引き受けた。重い。東京の家を出たときより重くなっている気がする。
岩手県の空気を吸った本が、重くなったのかもしれない。
そんなはずはないが、何もかも現実だけで考えると面白くないので、そういうことにしておいた。
改札を出ると、駅舎の外には夏の日差しが広がっていた。
東京とは空が違う。
高い建物に切り取られておらず、青い空が山の稜線までずっと続いている。その下には、駅前の建物や道路があり、車も走っているのに、町全体が緑の山々に抱えられているように見えた。
風が吹くと、どこかから水の匂いがする。
駅前には河童を思わせるものもあり、湊は荷物の重さを忘れて首を巡らせた。
「母さん、見て。やっぱり遠野は河童の町なんだよ」
「観光用に置いてあるものを見て、本物がいる証拠にしないでください」
「本物がいるから観光に使ってるのかもしれないだろ」
「その理屈だと、遊園地には本物のお姫様や海賊が住んでいることになります」
「住んでるかもしれない」
「着ぐるみを脱いだ人なら住んでいるでしょうね」
「そういうことじゃない」
二人が言い合っていると、駅前の端から大きな声が飛んできた。
「水城さーん!」
振り向くと、一人の女性が手を振りながら歩いてきた。
背は奈緒より少し低いが、歩き方に勢いがある。麦わら帽子の下から白髪交じりの短い髪がのぞき、紺色の作業着の上に花柄のエプロンを着けていた。
駅へ迎えに来る格好として正しいのか、湊には分からない。
「奈緒ちゃん、久しぶりだなあ。いやあ、変わってねえ……って言おうと思ったけど、やっぱり少し疲れた顔になったな」
「ハナさん、ご無沙汰しています。最初にそこを言います?」
奈緒は笑いながら頭を下げた。
「昔より正直になったんだよ」
「昔から十分に正直でした」
女性は豪快に笑い、今度は湊を見た。
「ほう。この子が河童さ釣り上げるっていう、東京の先生か」
「先生じゃありません。水城湊です」
「妖怪の先生なんだべ?」
「学校では妖怪博士って呼ばれてますけど、博士号を取ったわけじゃないので、正式には違います」
「はかせごう?」
ハナは奈緒を見た。
「難しいこと言う子だな」
「難しくありません。博士には、ちゃんと――」
「湊」
母親が肩に手を置いた。
「最初の挨拶をしてください」
湊は口を閉じた。
また説明しすぎた。
自分でも分かっているのに、知っている話になると途中で止められない。止めようとすると、喉のあたりに言葉がつかえて、むずむずする。
「三週間、お世話になります」
頭を下げると、ハナも真面目な顔になった。
「はい。預かったからには、飯は食わせるし、寝る場所も用意する。ただし、うちには決まりがある」
「決まり?」
「三つだ」
湊はすぐに自由研究ノートを出そうとした。
ハナが手で止める。
「宿の決まりまで研究すんのか?」
「忘れたら困るから」
「忘れたら、そのたび怒るから大丈夫だ」
「怒られたくないので書きます」
「生真面目なんだか、要領が悪いんだか分かんねえなあ」
ハナは笑いながら、指を一本立てた。
「一つ。朝飯の前に、顔を洗う」
「普通ですね」
「普通のことができねえ客もいるんだよ」
「湊は休みの日、昼近くまで顔を洗わないことがあります」
奈緒が余計なことを言った。
「今はぼくの悪いところを紹介する時間じゃないだろ」
「預ける側として必要な情報です」
ハナは二本目の指を立てた。
「二つ。川さ行ぐときは、必ず誰かに声かける。一人で深いところさ入らねえ」
「分かってます」
「今の返事は軽いな」
「本当に分かってます」
「本当に分かってる人間は、すぐ『分かってる』って言わねえんだ」
湊は母親を見た。
奈緒が満足そうにうなずいている。
父親と母親だけではない。
岩手県の人まで同じことを言う。
これは大人全体に伝わっている秘密の決まりなのだろうか。
「三つ目は?」
「夜、廊下で誰かに呼ばれても、三回目までは返事をしない」
湊はノートへ走らせていたペンを止めた。
「どうして?」
「寝ぼけた客が、よその部屋さ入るからだ」
「それなら一回目から返事をしたほうがいいんじゃないですか」
「そうかもしれねえな」
「じゃあ、どうして三回目まで返事をしちゃ駄目なんですか」
「うちの決まりだからだ」
「理由になってない」
ハナは、にやりと笑った。
「理由が全部分かってたら、世の中つまんねえべ?」
湊の胸が少し高鳴った。
ただの民宿の決まりではない。
絶対に何かある。
「ハナさん」
奈緒が、困ったように笑った。
「あまり怖がらせないでください。この子、冗談を本気にしますから」
「本気にしたほうが、おもしれえこともあんだよ」
「夜に眠れなくなったら、ハナさんが付き合ってくださいね」
「そんときは草むしりでもさせるか」
「眠れない子に?」
「疲れりゃ寝るべ」
「それ、児童の預かり方として大丈夫ですか?」
母親とハナは、笑いながら話している。
しかし湊は笑えなかった。
三回目まで返事をするな。
昔話で、似たような決まりを読んだことがある。
夜中に名前を呼ぶもの。
返事をした人間を連れていくもの。
声だけを真似る妖怪。
「かざぐるま荘には、妖怪がいるんですか」
湊が真顔で尋ねると、ハナはすぐには答えなかった。
麦わら帽子のつばを少し持ち上げ、湊の目をのぞき込む。
「おめえは、いたらどうする?」
「観察します。話を聞いて、可能なら写真も――」
「そうじゃねえ」
ハナの口調から、笑いが消えた。
「見つけたら、人さ言うのかって聞いてんだ」
湊は答えに詰まった。
見つけたら、証明する。
そのために遠野まで来たのだ。
写真を撮り、学校のみんなへ見せる。
自由研究として発表する。
最初から、そう決めていた。
「それは……妖怪がいたら、ですか?」
「いたらの話だ」
「本人が嫌がらなければ」
「嫌だって言わなかったら?」
「それは、いいっていう意味じゃないんですか」
「人間だって、嫌だと言えねえときがあるべ」
ハナはそう言うと、また普段の笑顔へ戻った。
「まあ、難しい話は腹が減ってからじゃ考えられねえ。車さ乗れ。昼飯、食いっぱぐれるぞ」
荷物を軽々と持ち上げ、駐車場へ向かって歩き出す。
湊はその背中を見送りながら、母親へ小声で尋ねた。
「ハナさんって、妖怪を見たことあると思う?」
「会って五分で、何でも妖怪に結びつけないの」
「ハナさんを妖怪だとは言ってないよ」
「今、一瞬そう思ったでしょう」
「ちょっとだけ」
「聞こえてんぞー!」
前を歩いていたハナが振り返らずに叫んだ。
湊は驚いて黙った。
「耳がいいだけだからな。山姥じゃねえぞ!」
「まだ山姥とは言ってません!」
「まだ、ってことは、そのうち言う気だべ!」
奈緒が吹き出した。
湊は耳まで熱くなりながら、重い荷物を引いて二人の後を追った。
駐車場に止まっていたのは、少し古い銀色の軽ワゴンだった。
荷台には野菜の入った籠や段ボール箱、長靴、縄、折りたたんだ網が積まれている。
湊は網を見つけ、身を乗り出した。
「これ、河童を捕まえる網ですか?」
「トマトを守る網だ」
「河童から?」
「鳥から」
「でも、河童にも使えるかもしれないですよね」
「うちのトマト守る網で河童なんか捕まえんな。破られたら困っぺ」
ハナは後部座席の荷物を乱暴に寄せ、湊と奈緒が座れる場所を作った。
車が駅前を離れる。
湊は窓を開けた。
入ってきた風は熱かったが、じっと座っているより気持ちがいい。町なかを抜けると、建物の間から田んぼが見え始めた。
緑の稲が一面に広がり、風が通るたび、表面に大きな波が生まれる。
向こうには山がある。
手前には細い水路が流れ、道端には東京では見慣れないほど背の高い草が伸びていた。
「すごい」
湊は窓枠へ両腕を置いた。
「全部、緑だ」
「東京には緑がないみたいに言うな」
奈緒が言った。
「あるけど、並べ方が違うんだよ」
「並べ方?」
「東京は、建物の隙間に木がある。ここは、山とか田んぼの隙間に家がある」
ハナが運転席から笑った。
「うまいこと言うな。けど、住んでる人間からすりゃ、草刈っても草刈っても生えてくるし、虫は入ってくるし、冬になりゃ雪も降る。眺めてるだけならきれいでも、暮らすとなると面倒なもんだ」
「妖怪も出ますか?」
「熊は出る」
「熊は妖怪じゃありません」
「河童より怖えぞ」
「熊は捕まえません」
「河童も捕まえんなって言ったべ」
「調査するだけです」
「東京の子は、言い方変えりゃ何でも許されると思ってんのか?」
湊は言葉に詰まった。
ハナは口が悪い。
けれど、教室でからかわれたときとは違い、嫌な感じはしなかった。
笑いながらでも、こちらの言葉をちゃんと聞いている。
それに、何かを知っている。
湊の知らない、遠野の秘密を。
車は小さな川に沿って進んだ。
水は驚くほど澄んでいる。川底の石まで見え、陽の光が水面で細かく跳ねていた。
「この川にも河童はいますか」
「さあな」
「魚は?」
「いる」
「何が釣れます?」
「ヤマメだの、イワナだの。場所にもよるけどな」
「河童は?」
「しつけえなあ」
「自由研究なので」
「自由研究って言えば、何回聞いても許されると思うなよ」
「じゃあ一回だけ、ちゃんと答えてください」
「知らねえ」
「さっきから全部それじゃないですか」
「知らねえもんは知らねえ。見たことあるって言ったって、信じねえ人は信じねえし、見たことねえって言ったって、いるものはいんのかもしれねえ。そんなの、自分の目で確かめろ」
「だから来たんです」
「なら、人に答えを聞いて楽すんな」
湊は口を閉じた。
何だか悔しい。
けれど、少しうれしくもあった。
教室では、みんな「河童なんていない」で話を終わらせた。
ハナは、いないとは言わない。
「ところで、昼ごはんは何ですか」
奈緒が話題を変えた。
「ひっつみ汁と、おにぎり。朝採ったきゅうりもあるぞ」
「きゅうり!」
湊は再び身を乗り出した。
「河童用に少しもらっていいですか?」
「まず人間が食え。河童さやるのは、それからだ」
「河童に残さなくていいんですか」
「腹減ってる子どもが、会うかどうかも分からねえ河童に飯譲ってどうすんだ」
「でも、餌がないと釣れない」
「河童さ会う前に、おめえが倒れたら面倒だべ」
ハナの言い方は乱暴だったが、湊はそれ以上反論できなかった。
しばらくして車は、細い道へ曲がった。
木々の間を抜けると、少し開けた場所に古い木造の建物が見えてきた。
二階建てで、黒っぽい屋根の下に長い縁側がある。玄関脇には小さな風車がいくつも立てられ、風を受けて、くるくる回っていた。
新しいホテルのような派手さはない。
けれど窓が大きく開け放たれ、白い暖簾が揺れている。軒先には干した玉ねぎが下がり、その隣では猫が丸くなって眠っていた。
看板に、少し薄くなった字で書かれている。
『民宿 かざぐるま荘』
「ここだ」
ハナが言った。
「今日から三週間、おめえの家だ」
湊は車から降り、建物を見上げた。
開いた二階の窓。
薄暗い廊下。
風もないのに、奥でゆっくり揺れている白いカーテン。
玄関から、一人の老人が出てきた。
小柄だが、日に焼けた腕は太い。白い髪を短く刈り、作業用のズボンをはいている。手には金づちを持っていた。
ハナが紹介した。
「うちの善一。愛想はねえが、壊れたもんなら大抵直す」
老人は湊を見て、小さくうなずいた。
「こんにちは。三週間、お世話になります」
湊が頭を下げる。
善一は答えなかった。
湊は顔を上げた。
老人は、まだこちらを見ている。
「……聞こえましたか?」
「聞こえた」
「じゃあ、返事をしてくれてもいいと思います」
善一は少し考えたあと、もう一度うなずいた。
「おう」
それだけだった。
「本当に愛想がないですね」
「湊!」
奈緒に叱られた。
しかし善一は怒らず、湊の肩から伸びる釣り竿を見た。
「河童か」
「はい」
善一は川のある方角へ目を向けた。
その表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
懐かしそうな。
それとも、困ったような顔だった。
「夕方には行くな」
「どうしてですか」
「帰れなくなる」
それだけ言うと、善一は釣り竿を湊の手から取り、金づちと一緒に肩へ担いだ。
玄関へ向かって歩いていく。
「帰れなくなるって、迷うからですか?」
湊は後を追った。
善一は答えない。
「暗くなるから? 熊が出るから? それとも河童に引っ張られるんですか?」
「湊、質問しすぎ」
奈緒が旅行かばんを引きながら言った。
「だって、答えてくれないんだよ」
「善一さんは昔から、必要なことしか話さない方なの」
「今の話は必要だろ」
善一が玄関の前で立ち止まった。
ゆっくり振り返り、湊を見た。
「夕方の川で、名前を呼ばれても返事すんな」
湊の背中に、冷たいものが走った。
駅前でハナから聞いた三つ目の決まりと似ている。
夜の廊下で名前を呼ばれても、三回目までは返事をしない。
そして今度は、夕方の川で名前を呼ばれても、返事をするな。
「誰が呼ぶんですか」
湊が尋ねた。
善一は答えなかった。
その代わり、二階を見上げた。
湊もつられて顔を上げる。
開いた窓の向こうに、誰かがいた。
赤い服を着た、小さな女の子。
長い黒髪の間から顔を半分だけのぞかせ、じっと湊を見下ろしている。
目が合った。
少女は、にいっと笑った。
「母さん、二階に女の子がいる」
「どこ?」
奈緒が見上げたときには、窓の向こうから少女の姿は消えていた。
ハナが玄関の鍵を開けながら、何でもないように言った。
「うちには子どもは泊まってねえぞ」
湊は、開いた窓を見つめた。
白いカーテンだけが、ゆっくり揺れている。
その向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
くす、くす、くす。
湊は慌てて自由研究ノートを開き、三行目を書いた。
『かざぐるま荘の二階に、赤い服の女の子。宿泊客ではない。』
そこで、玄関の中から声がした。
「水城湊」
女の子の声だった。
湊は反射的に顔を上げた。
「何?」
答えたあとで、気づいた。
まだ一回目だった。




