第2話 遠野へ行く列車
遠野へ出発する朝、湊は目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ました。
普段なら母親に二度起こされ、三度目に布団をはがされ、それでも「あと一分」と粘る。ところがその日は、ぱちりと目を開けた瞬間から頭の中が妙に明るかった。
河童を釣りに行く。
そう思った途端、眠気はどこかへ逃げていった。
湊は布団から飛び出し、枕元に置いておいた腕時計を見た。
午前五時二十七分。
まだ目覚まし時計は鳴っていない。
これは、かなり珍しいことである。
もしかすると妖怪に会いに行く人間には、出発前から不思議な力が働くのかもしれない。
そう考えたところで、隣の部屋から母親の声がした。
「湊、起きてる?」
「起きてる!」
「本当に?」
「返事しただろ!」
「寝ながら返事することがあるから、信用できません」
「今日は起きてる!」
ドアを開けると、母親はすでに着替えを済ませ、髪を後ろでまとめていた。眠そうな顔をしているのに、動きだけは普段より速い。
「顔を洗ってきなさい。朝ごはんは新幹線の中で食べるから」
「歯磨きは?」
「それも顔を洗うついでにしてください」
「分かってるよ。確認しただけ」
「確認しないと忘れる人は、分かっているとは言いません」
母親はそう言いながら、湊の大きなリュックを持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
正確には、少しだけ浮いて、すぐ床へ戻った。
「……何を入れたの?」
「必要なもの」
「昨日、荷物を減らしたでしょう」
「減らしたよ」
「この重さで?」
母親はリュックの口を開けた。
その瞬間、湊はしまったと思った。
中から、河童に関する本が四冊出てきた。
「二冊までと言いました」
「そのうち一冊は薄いから、半冊として数えて」
「本に半冊という数え方はありません」
「じゃあ三冊。これは図鑑じゃなくて資料集だから、別の種類」
「お菓子は別腹みたいに言わないでください」
さらに母親が手を入れると、虫取り網の柄、小型の水中観察ケース、双眼鏡、折りたたみ式の魚とり網が出てきた。
「魚とり網まで持っていくの?」
「河童が針にかからなかったとき用」
「網で捕まえるつもりなの?」
「捕まえるというか、調査するだけ」
「捕まえられる側からしたら、どちらも同じです」
母親はため息をついた。
「置いていきます」
「全部?」
「魚とり網と本を二冊」
「網は必要だよ」
「三週間分の下着より?」
「下着は現地で買えるけど、河童用の網は売ってないかもしれないだろ」
「河童用として買ったわけじゃないでしょう」
玄関のほうから、小さな笑い声がした。
妹の美海が、パジャマ姿でこちらを見ている。
「お兄ちゃん、怒られてる」
「おまえは寝てろよ」
「お見送りする」
「駅まで来るの?」
「玄関まで」
ずいぶん短い見送りだった。
美海は眠そうに目をこすりながら、湊のところへ来た。そして、背中に隠していた何かを差し出した。
きゅうりだった。
一本だけ。
冷蔵庫から出したばかりらしく、表面に水滴がついている。
「これ、あげる」
「何で?」
「河童のおみやげ」
「河童を釣る餌にするんだよ」
「じゃあ、先に食べられちゃうじゃん」
美海は心配そうな顔になった。
「おみやげは別に買えばいいだろ」
「でも河童、きゅうりが好きなんでしょ?」
「好きだと言われてる。でも、全部の河童が好きかは分からない」
昨日の教室で青木先生に言われたことを思い出し、湊は少し言い直した。
「もしかしたら、きゅうりが嫌いな河童もいるかもしれない」
「じゃあ、何が好きなの?」
「それを聞いてくる」
美海は納得したような、していないような顔でうなずいた。
「仲良くなったら、電話してね」
「河童と?」
「うん」
「河童が電話を使えるか分からないだろ」
「お兄ちゃんの電話を貸せばいいじゃん」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、写真送って」
「写真を嫌がったら撮れない」
口にしてから、湊は自分で少し驚いた。
昨日までなら、絶対に撮ると言っていたはずだった。
母親がこちらを見ていたが、何も言わなかった。
代わりに、美海からきゅうりを受け取り、台所へ戻した。
「これは置いていきます。新幹線の中でリュックからきゅうりが出てきたら、たぶん周りの人が困ります」
「誰も困らないよ」
「少なくとも私は困ります」
結局、魚とり網と本二冊ときゅうりを置き、湊たちは家を出た。
父親は仕事の都合で駅まで来られなかったが、出発前に何度も同じことを言った。
川へ一人で入らない。
知らない山道へ行かない。
民宿の人の言うことを聞く。
毎晩連絡する。
湊が「分かってる」と答えるたび、父親は「本当に分かっている人間は、そんなに早く返事をしない」と言った。
母親にも似たようなことを言われた気がする。
大人たちは、家族になると同じ言い回しを覚えるのだろうか。
東京駅は、朝から人でいっぱいだった。
大きな旅行かばんを引く人。仕事用の鞄を抱え、小走りで進む人。弁当を選びながら家族で揉めている人。
湊は人波にはぐれないよう、母親の後ろを歩いた。
「もう五年生なんだから、手はつながないよ」
母親が言った。
「つなごうとしてない」
「私のバッグの紐をつかんでいます」
湊は黙って手を離した。
「別に、はぐれそうだからじゃない。人にぶつからないようにしてただけ」
「そういうことにしておきます」
ホームへ上がると、長い鼻のような先頭部分を持つ新幹線が止まっていた。
湊は何度か乗ったことがある。それでも、遠くへ行く朝の新幹線は、普段と少し違って見えた。
車体の向こうに、まだ知らない場所まで線路が続いている。
その先に遠野がある。
河童もいる。
たぶん。
席に着くと、湊は窓側へ体を寄せた。
「お母さん、そっちでもいい?」
「あなたが窓側でしょう」
「新幹線が動き出すときだけ、こっちのほうが見やすいかもしれない」
「何が?」
「ホーム」
「どちらの窓からも見えます」
母親は駅弁の袋を膝に置きながら言った。
「落ち着きなさい。遠野は逃げません」
「河童は逃げるかもしれない」
「まだ東京駅です」
発車の合図が鳴り、列車はゆっくり動き始めた。
建物が後ろへ流れ、高いビルが並ぶ景色が少しずつ遠ざかっていく。
湊は自由研究ノートを開いた。
一ページ目の上に、丁寧な字で書く。
『遠野妖怪観察ノート』
その下に、日付。
さらに目的。
『本物の河童を発見し、その姿、性格、食べ物、暮らし方を調査する』
そこでペンが止まった。
昨日の夜、白いページの端にあった濡れた指の跡は、朝には消えていた。
母親に話そうかと思ったが、荷物を減らす話で揉めているうちに忘れた。
それに、指の跡くらいなら自分でつけたのかもしれない。
水を触った手でノートを開いた。
それだけだ。
きっとそうだ。
「最初から難しい顔をして、何を書いてるの?」
「研究の目的」
「河童を釣る、ではないの?」
「釣るだけじゃ研究にならないから、いろいろ調べる」
「昨日より少し賢くなったわね」
「昨日から賢いよ」
「昨日は網で捕まえようとしていました」
「置いてきたんだから、もういいだろ」
朝食の弁当を食べ終え、列車が北へ進むにつれて、窓の外の景色が変わった。
建物の間が広くなる。
田んぼが増える。
遠くの山が、最初は薄い青色の壁のように見えていたのに、いつの間にか木々の形まで分かるほど近づいてくる。
母親は途中から眠ってしまった。
湊は眠れなかった。
窓の外に何か妙なものが見えたら、見逃してしまうからだ。
山の斜面。
川の浅瀬。
田んぼの中。
橋の下。
妖怪は、そういう場所にいる。
もっとも、新幹線の速さでは、妖怪が立っていても発見したときには通り過ぎているだろう。
「妖怪を見るには、速すぎるな」
湊がつぶやくと、目を閉じたまま母親が答えた。
「何が?」
「新幹線」
「歩いて行くつもり?」
「そうじゃないけど」
「なら、今は早いほうがいいでしょう」
「大人はすぐそういう答えにする」
「正しい答えは、だいたい面白くないものです」
「それ、先生にも言ってた?」
「言っていません。今、適当に考えました」
湊は母親を見た。
大人は、ときどきもっともらしい顔で適当なことを言う。
これも観察ノートに書いておくべきかもしれない。
新花巻駅で新幹線を降りると、東京とは空気が違った。
冷たいわけではない。
夏だから、やはり暑い。
けれど風の中に、湿った草と土の匂いが混じっていた。東京の駅で感じる、熱くなった道路や車の排気の匂いとは違う。
湊はホームで大きく息を吸った。
「どうしたの?」
「岩手県の空気を吸ってる」
「東京でも息はしてください」
「してるよ」
「急に止めたのかと思いました」
「止めたら死ぬだろ」
新幹線の駅から在来線の乗り場へ移り、遠野へ向かう列車へ乗り換えた。
新幹線より、ずっと短い列車だった。
乗客も少ない。
座席へ腰を下ろすと、向かいに座った白髪の女性が、湊のリュックから出ている釣り竿を見て笑った。
「釣りに行ぐの?」
湊は一瞬、何と言われたのか考えた。
「はい。河童を釣ります」
母親が隣で、小さく息をついた。
たぶん、初対面の人にいきなり河童の話をするなという意味だ。
だが女性は笑わなかった。
「ああ、河童か。遠野さ行ぐなら、気ぃつけねばな」
「いるんですか?」
湊は身を乗り出した。
「河童、見たことありますか? どこの川ですか? 何時ごろですか? 色は緑でしたか、それとも赤っぽかったですか?」
「湊、一度に聞きすぎ」
母親が腕を引いた。
女性は目尻のしわを深くした。
「いるか、いねえかは、自分で見てみればええ。遠野のものは、探してる人の前より、探してねえ人の前さ出ることもあるからな」
「どういう意味ですか?」
「さあなあ」
「知らないんですか?」
「知ってても、全部しゃべるとは限らねえべ」
女性は楽しそうに窓の外を見た。
教えてくれたのか、からかわれたのか分からない。
湊は少し不満だったが、ノートを開いて書き留めた。
『遠野へ向かう列車の女性。河童について何か知っている可能性あり。ただし質問に答えない。』
それを横から見た母親が言った。
「人を勝手に妖怪関係者みたいに書かないの」
「関係者とは書いてない」
「可能性あり、と書いています」
「可能性はあるだろ」
「あなたのノートを読んだら、世の中の人が全員妖怪になりそうね」
列車は町を離れ、山と田んぼの間を進んだ。
緑色の稲が風に揺れ、その向こうに黒い屋根の家が点々と並んでいる。細い川が線路と並んで走り、ところどころで木々の中へ隠れ、また姿を見せた。
東京では、景色の奥に必ず建物がある。
ここでは、景色の奥に山があった。
その山のさらに向こうにも、また山がある。
「こんなに山があるなら」
湊は窓に額を近づけた。
「妖怪が隠れる場所も多そうだな」
「普通は、自然がきれいだとか言うところじゃない?」
「きれいだよ。でも、きれいなだけじゃない」
木が密集した暗い斜面を見ていると、誰かがこちらをのぞいているような気がする。
田んぼの脇に立つ古い小屋も、ただの物置とは思えない。
細い道が森の中へ消えているのを見ると、その先に人間の知らない集落があるのではないかと想像してしまう。
景色が、見えているものだけで終わっていない。
東京では、妖怪を探すために、目を細めて隙間をのぞかなければならなかった。
ここでは、向こうから隠れきれずにはみ出している気がした。
列車が大きな橋を渡った。
窓の下に、川と石造りのような橋脚がちらりと見えた。
湊が振り向いたときには、もう後ろへ流れている。
「今の橋、見た?」
「見たわよ」
「下に何かいた」
「鳥じゃない?」
「人みたいだった」
「橋の下に?」
「一瞬だけ。水のそばに、しゃがんでた」
母親も窓の外を見たが、すでに橋は遠く、木々の間へ隠れていた。
向かいの女性だけが、なぜか声を立てずに笑っている。
「何ですか?」
湊が尋ねると、女性は首を横に振った。
「何でもねえ。遠野に着ぐ前から忙しい子だと思ってな」
「本当にいたんです」
「なら、ノートさ書いでおけばええ」
湊はすぐに書いた。
『橋の下に、人のような影。小柄。水辺にしゃがんでいた。河童の可能性あり。』
その下に、時刻も記録した。
母親が言った。
「まだ遠野に着いていません」
「河童が遠野市から出ちゃいけない決まりはないだろ」
「それはそうですが」
「岩手県全部に妖怪がいるかもしれない」
「あなたの三週間で、県内全部を調べるのは無理です」
「来年も来ればいい」
「今年の初日も始まっていません」
母親は呆れていたが、その声は少し笑っていた。
やがて、列車は山に囲まれた盆地へ入った。
田んぼと家々の向こうに、町が広がっている。
大きな都会ではない。
けれど古い屋根と新しい建物が混じり、その向こうを緑の山々がぐるりと囲んでいる。
遠野駅へ近づくという案内が流れた。
湊は急いでノートを閉じ、リュックへしまった。
「降りる準備をして」
「分かってる」
「釣り竿を忘れないで」
「忘れないよ」
「さっき窓に夢中で、足元に落としていました」
「落としたんじゃなくて置いたの」
「床に横向きで?」
「すぐ取れるように」
「人はそれを落としたと言います」
列車が速度を落とした。
ホームが見える。
駅名標に、二文字。
遠野。
湊の胸が、急にどきどきし始めた。
本当に来た。
本の中で何度も読んだ場所。
河童や座敷わらしや、山の神の話が今も残っている町。
列車の扉が開くと、蝉の声が一気に飛び込んできた。
東京より大きい、と湊は思った。
音が大きいのではない。
周りに高い建物や車の音が少ないから、蝉の声が遠くまで広がっているのだ。
ホームへ降りた瞬間、熱い風が頬をなでた。
風の中には、草と土と、どこかから流れてくる水の匂いがした。
「ここが遠野……」
つぶやいた湊の後ろで、列車の扉が閉まった。
向かいに座っていた女性が、窓越しにこちらを見ている。
湊は軽く頭を下げた。
女性も笑い、手を振った。
列車が動き始める。
そのとき、女性の隣の席に、誰かが座っているのが見えた。
小さな子どもだった。
濡れた黒い髪。
窓に張りつくようにして、湊を見つめている。
頭のてっぺんには、葉っぱのような丸い影があった。
「母さん!」
湊が叫んだ。
「何?」
「今、列車の中に――」
振り返ったときには、窓が光を反射し、中の様子はもう見えなかった。
列車は遠ざかり、線路の先へ消えていく。
ホームには、湊と母親だけが残された。
いや。
少し離れた柱の陰に、もう一人いた。
湊と同じくらいの年の少年が、腕を組んで立っている。
日焼けした顔。
水に濡れたような黒い髪。
紺色の半袖姿で、こちらをじっと見ていた。
湊が目を向けると、少年は眉を寄せた。
「遅かったな」
まるで、ずっと待っていたような言い方だった。
湊は自分を指さした。
「ぼく?」
「ほかに誰がいる」
「知り合い?」
「知らない」
「じゃあ、何で待ってたみたいな言い方するんだよ」
少年は答えなかった。
湊の肩から伸びる釣り竿を見て、それから鼻で笑った。
「その道具で、河童を釣るつもりか」
湊の背中を、冷たいものが走った。
まだ、この町では誰にも話していない。
母親も、民宿の人も近くにはいない。
それなのに少年は、湊が何をしに来たのか知っていた。
「どうして、それを……」
湊が一歩近づくと、少年は柱の向こうへ下がった。
母親が切符を確認している、ほんの一瞬だった。
湊は柱を回り込んだ。
誰もいない。
行き止まりだった。
足元の乾いた床に、濡れた裸足の跡だけが続いている。
一つ。
二つ。
三つ。
その足跡は壁の前まで進み、そこで突然、消えていた。




