第1話 ぼくの自由研究は、河童を釣ることです
「夏休みの自由研究、まだ決まっていない人はいますか?」
一学期最後の教室で、担任の青木先生がそう尋ねた。
窓の外では、校庭の桜の木に止まった蝉が、朝から壊れかけの目覚まし時計みたいな声で鳴いている。教室のエアコンは動いていたけれど、三十五人分の体温と、もうすぐ夏休みだという浮ついた気分までは冷やしてくれなかった。
五年二組のみんなは、先生の話を聞いているようで、ほとんど聞いていない。
机の下で指を折って、終業式までの時間を数えている者。
配られた夏休みの予定表に、もう海や花火の絵を描いている者。
後ろの席では、田辺大地が小さく丸めたプリントを、ゴミ箱へ投げ入れようとしていた。
外れた。
紙の玉は、ゴミ箱の横で床に落ちた。
「田辺君」
黒板を向いたまま、青木先生が言った。
「はい」
「自分で拾うことまでが、紙くず投げです」
「まだ投げてません」
「先生には背中にも目があります」
「妖怪じゃん」
誰かが言い、教室に笑いが起きた。
その言葉を聞いて、水城湊は顔を上げた。
妖怪。
ただそれだけで、さっきまで半分眠りかけていた頭が急に目を覚ます。
青木先生は背中に目がある妖怪ではない。背中や後頭部にも目玉がある妖怪といえば、江戸時代の絵巻物に描かれた――。
「湊」
隣の席から、小声で呼ばれた。
見ると、幼稚園から同じ学校の佐伯和也が、呆れた顔をしている。
「今、説明しようとしただろ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が説明してた」
「顔で説明なんかできないだろ」
「おまえはできる。妖怪って聞いた瞬間、口の横がむずむずしてた」
湊は慌てて口元を押さえた。
別に、説明してはいけないわけではない。
むしろ、間違った知識が広まる前に訂正するのは大切なことだ。けれど以前、給食中に小豆洗いについて話したところ、女子の一人から「今それを聞いたら、あんこが食べられなくなる」と怒られた。
小豆洗いは小豆を洗う音を立てる妖怪であって、あんこに何かをするわけではない。そう説明したら、もっと怒られた。
世の中には、正しい説明をすればするほど機嫌が悪くなる人がいる。
小学五年生になって、湊はようやくそのことを学び始めていた。
「では、順番に発表してもらいます」
青木先生が、出席簿を閉じた。
教室のあちこちから不満そうな声が上がる。
「ええー、発表するの?」
「まだ仮でも構いません。人に話すと、考えがまとまることもありますから」
「決まってない人は?」
「今日の帰りまでに決めましょう」
「それ、決まってない人が一番困るやつじゃん」
「困るから考えるんです」
青木先生は、そういうところでは容赦がなかった。
窓側の最前列から、順番に発表が始まった。
アサガオの成長。
十円玉をきれいにする調味料の比較。
近所で見つけた昆虫。
犬がどんな言葉を聞き分けられるか。
一日に食べたおやつの量。
最後のものには先生から、「研究が終わる前に、おうちの人から止められる可能性があります」と注意が入った。
どれも悪くはないと思う。
ただ、湊には少し物足りなかった。
せっかく一か月以上も休みがあるのだ。
普段できないことを調べるべきではないか。誰も知らないものを見つけて、みんなを驚かせるべきではないか。
教室を半分ほど回ったころ、和也の番が来た。
和也は椅子から立ち上がり、面倒くさそうに頭をかいた。
「僕は、サッカーボールの空気の量で、飛ぶ距離がどれくらい変わるか調べます」
「いいですね。どうやって条件をそろえますか?」
「毎回、同じ場所から蹴ります」
「蹴る強さが変わってしまいませんか?」
「そこは……できるだけ同じにします」
「測る回数を増やすと、結果が分かりやすくなるかもしれませんね」
「はい」
和也が座ると、次は湊だった。
椅子を引いて立ち上がった瞬間、和也が机の陰から見上げてきた。
やめておけ。
声には出していないが、顔にそう書いてある。
湊は無視した。
この日のために、六月から母親を説得してきたのだ。
途中で何度も反対された。
お父さんにも、「自由研究というより、ほとんど旅行ではないか」と言われた。
妹の美海からは、「河童を持って帰ってきたら、どこで飼うの」と聞かれた。
それでも、ついに許可をもらった。
今さら引き下がれるはずがない。
「水城君」
青木先生が促した。
湊は、すうっと息を吸った。
「ぼくの夏休みの自由研究は、岩手県の遠野市で、本物の河童を釣ることです」
教室が静かになった。
エアコンの風の音と、窓の外の蝉の声だけが聞こえた。
湊は少しだけ胸を張った。
これほど全員が静かになったのだから、つかみは成功したに違いない。
最初に吹き出したのは、後ろの席の大地だった。
「河童って、あの河童?」
「ほかにどの河童がいるんだよ」
「いや、寿司屋のやつとか」
「それは店の名前だろ」
「頭に皿があるやつ?」
「皿という呼び方は一般的だけど、頭頂部のくぼみに水をためているという説もあって――」
そこで、和也が机に額をぶつけた。
ごつん、と結構大きな音がした。
「佐伯君、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと先が読めただけです」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
湊の頬が熱くなった。
まただ。
まだ何も説明していないのに、どうして笑うのだろう。
河童の話は、昔から日本各地に残っている。特に遠野には、河童にまつわる話が多い。目撃談だってある。河童を釣るための許可証まであると、本で読んだ。
宇宙の果てを調べるより、ずっと近い。
恐竜を生き返らせるより、現実的だ。
「笑うことないだろ」
湊が言うと、大地が悪びれずに答えた。
「だって河童なんていないじゃん」
「見たことないだけだろ」
「見たことないってことは、いないんじゃないの?」
「じゃあ大地は、ブラジルにいる人を全員見たことあるのかよ」
「なんでブラジル?」
「見たことがないものが、全部いないことになるわけじゃないって話」
「でも河童は妖怪じゃん」
「妖怪がいないって、誰が証明したんだよ」
「じゃあ湊は、いるって証明できるの?」
大地は、からかっている。
いつもなら途中で分かるのに、今日は止まれなかった。
「するよ」
「どうやって?」
「だから釣るんだよ。本物を」
「釣ったあと、どうすんの?」
「写真を撮る。それから大きさを測って、手足の形と、皮膚の色と、頭の皿の――」
「やっぱり皿じゃん」
「今は分かりやすく言っただけで、正式には――」
「河童の正式って何だよ!」
笑い声が大きくなった。
誰かが、「きゅうりで釣るの?」と尋ねた。
別の誰かが、「魚の餌みたい」と言った。
大地は両手を頭に当て、甲羅を背負ったような格好で歩き始めた。
「おいら河童だぞー。きゅうりをよこせー」
また笑いが起きる。
湊は唇をかんだ。
妖怪の話をすると、だいたいこうなる。
二年生のころは、みんなもっと聞いてくれた。
三年生でも、トイレの花子さんの話なら盛り上がった。
けれど五年生になると、妖怪を本気で信じるのは子どもっぽいという空気が、いつの間にか教室にできていた。
同じ十歳や十一歳なのに、信じていないほうが少し大人で、信じているほうが幼いことにされる。
それが湊には、どうしても納得できなかった。
「静かに」
青木先生が、手を二回たたいた。
大声ではなかったが、教室の笑いは徐々に収まった。
先生は大地を座らせると、湊を見た。
「水城君は、夏休み中、遠野市へ行くんですか?」
「はい。三週間です」
「三週間も?」
和也まで驚いた声を出した。
「聞いてないぞ」
「昨日決まったから」
「普通、そういう大事な話は先に友だちにしない?」
「母さんが民宿に電話して、ちゃんと予約できるまで言うなって言ったんだよ。途中で駄目になったら、ぼくがうるさいから」
「お母さん、自分の息子をよく分かってるな」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
青木先生が、少し笑った。
「ご家族と一緒に?」
「最初の日は母さんと行きます。でも母さんは次の日に帰ります。ぼくだけ、知り合いの民宿に泊まります」
今度は、さっきとは違うざわめきが教室に広がった。
三週間、家族と離れて遠い町に泊まる。
河童より、そちらのほうが驚かれるとは思わなかった。
「一人で大丈夫なの?」
前の席の女子が尋ねた。
「一人じゃない。民宿の人がいる」
「でも、夜とか怖くない?」
「妖怪が出たら、むしろいいだろ」
「そういうことじゃなくて」
「妹がいないから、静かに寝られると思う」
その言葉を聞いた和也が、肩をすくめた。
「そう言ってるやつに限って、二日目くらいで帰りたいって泣くんだよ」
「泣かない」
「夜に電話してくるなよ」
「和也に電話するわけないだろ」
「じゃあ誰にするんだよ」
「誰にもしない」
言い切ったものの、胸の奥がほんの少しだけざらついた。
三週間という長さを、湊はまだ正しく想像できていない。
旅行なら、家族と二泊したことがある。
学校の宿泊学習なら、一泊した。
けれど三週間は、そのどちらとも違う。
朝起きても母親はいない。
夜になっても父親は帰ってこない。
美海が勝手に部屋へ入ってきて、妖怪図鑑をぐちゃぐちゃにすることもない。
そんな日が二十一日も続く。
寂しくなるかもしれない、とは考えていた。
ただ、それを口にしたら、母親が計画を取りやめるのではないかと思い、一度も言わなかった。
「水城君」
青木先生に呼ばれ、湊は顔を戻した。
「河童を釣ることが研究の目的なのですね」
「はい。写真も撮ります。できれば、体についているものを少しもらって持ち帰ります。鱗とか、髪の毛とか」
「河童に鱗があるんですか?」
「そこも調べます」
「なるほど」
先生は笑わなかった。
それだけで、湊は少し救われた気がした。
「では、河童が釣れなかった場合は、どうしますか?」
予想していなかった質問だった。
「釣れます」
「釣れるかもしれません。ただ、研究では、予想どおりの結果にならないこともあります」
「毎日やれば釣れます」
「雨で川へ行けない日もあるでしょう」
「雨の日は、河童について聞き込みをします」
「誰に?」
「地元の人にです」
「全員が河童を信じているとは限りませんよ」
「遠野の人なのに?」
「東京に住んでいる人が、全員、東京タワーへ毎日行くわけではないでしょう。それと同じです」
あちこちで、「確かに」と声が上がった。
湊は少し不満だった。
先生まで河童がいない場合の話をする。
信じているような顔をして、やはり信じていないのではないか。
「もし、本当に一匹も釣れなかったら」
青木先生は、急かさずに続けた。
「なぜ釣れなかったのかを考えても、立派な自由研究になります。場所が違ったのか。餌が悪かったのか。時間帯の問題か。それとも、河童を釣るという方法そのものが正しくなかったのか」
「河童がいないから、とは言わないんですか」
「それも一つの可能性です。でも先生が今ここで決めてしまったら、水城君が調べに行く意味がないでしょう?」
湊は答えなかった。
青木先生は、ときどきずるい。
信じているとも、信じていないとも言わないのに、こちらが反論しづらいことを言う。
「何も見つからなかったとしても、三週間、毎日きちんと観察して記録すれば、その時間は無駄にはなりません」
「でも、本物を見つけないと、みんなは信じません」
口に出してから、それが自分の本当の目的だったのだと気づいた。
河童を見たい。
それは間違いない。
けれど、それだけではなかった。
教室で笑った大地に、写真を突きつけたい。
妖怪の話をすると面倒そうな顔をする和也にも、「湊の言ったとおりだった」と認めさせたい。
誰より詳しいだけでは足りない。
誰も持っていない証拠が欲しかった。
青木先生はしばらく湊を見ていたが、やがて静かに言った。
「それなら、水城君が自分で確かめてきてください」
「はい」
「ただし、河童にも都合があるかもしれません。見つけたからといって、乱暴に扱わないこと」
また笑いが起きた。
今度は、湊も少しだけ笑った。
「分かってます。ちゃんと話を聞いてから、写真を撮ります」
「釣り上げたあとに?」
「逃げなかったら」
「逃げるに決まってるだろ」
和也がぼそりと言った。
湊は座りながら、隣の机を肘で軽く押した。
「見てろよ。絶対に写真を送ってやる」
「加工したやつはなしな」
「しないよ」
「おじさんが緑色に塗っただけの写真もなし」
「そんなことするか」
「きゅうりに顔を描いたやつもなし」
「河童ときゅうりの区別くらいつく!」
二人の声に、青木先生が咳払いをした。
湊は口を閉じたが、心の中ではもう遠野の川辺に立っていた。
深い緑に囲まれた、冷たい川。
水面から、ぬるりと緑色の頭が現れる。
湊と河童の目が合う。
驚いた河童が逃げようとする。
けれど釣り糸は、しっかりと河童をつかまえている。
そんな場面を思い浮かべた。
本物の河童を見つけたら、何を最初に尋ねよう。
きゅうりは本当に好きなのか。
頭の皿が乾くと力が出なくなるのか。
相撲が得意なのか。
尻子玉とは、本当は何なのか。
質問はいくらでもあった。
ただし、このときの湊はまだ知らなかった。
河童にも、聞かれたくないことがある。
写真に撮られたくない日がある。
誰にも明かしたくない名前がある。
そして、河童を釣ろうとするなら、自分も何かを釣り上げられる覚悟が必要なのだということを。
終業式を翌日に控えた、その日の夜。
湊は自分の部屋の床いっぱいに、遠野へ持っていく荷物を広げていた。
虫よけ。
懐中電灯。
双眼鏡。
方位磁石。
防水の手袋。
妖怪図鑑が三冊。
河童に関する本が四冊。
予備のノートが五冊。
そこへ、母親の奈緒が入ってきた。
しばらく黙って荷物を見下ろしたあと、ため息をつく。
「湊。これ、全部持っていくつもり?」
「必要なものだけだよ」
「着替えが二組しかないんだけど」
「向こうで洗えばいい」
「本は七冊あるのに?」
「着替えは洗えるけど、本は向こうで生えてこないだろ」
母親は河童の本を一冊持ち上げ、ぱらぱらとめくった。
「図書館で借りた本は置いていきなさい。汚したら困るから」
「でも、現地で確認したいことが出てくるかもしれない」
「スマートフォンで調べればいいでしょう」
「ネットには間違った情報も多いんだよ」
「本にも間違いはあります」
「これは専門家が書いた本だから」
「その専門家の先生は、河童を捕まえたことがあるの?」
湊は黙った。
母親は少し得意そうな顔をした。
大人は、子どもを言い負かすと、ときどき本気でうれしそうにする。
「とにかく、本は二冊まで。残りの場所には下着と靴下を入れます」
「靴下は三足あれば足りる」
「三週間泊まる子の発言じゃありません」
「洗うって言ってるだろ」
「毎日、自分で?」
「民宿の人に頼む」
「自分で洗濯する約束で、三週間預かっていただくことになったんですが」
初耳だった。
「聞いてない」
「今、言いました」
「そういう大事なことは、もっと早く言ってよ」
「今日の教室で、和也君にも同じことを言われたんじゃない?」
湊は母親の顔を見た。
「なんで知ってるの」
「あなたの考えそうなことくらい分かります」
母親まで背中に目があるのかもしれない。
そう考えたとき、廊下から小さな足音が近づいてきた。
小学二年生の妹、美海が、半分だけ開いたドアから顔を出す。
「お兄ちゃん、河童、持って帰ってくる?」
「持って帰らない。写真を撮るだけ」
「一匹も?」
「一匹も」
「じゃあ、どうして釣るの?」
「調べるためだよ」
「釣られた河童、痛くないの?」
「河童用の釣り方があるから、大丈夫」
本当は、絶対に痛くないかどうかまでは知らない。
しかし妹の前で曖昧なことを言うと、同じ質問を形を変えて何度も繰り返してくる。
「お兄ちゃん」
「何」
「河童に釣られないでね」
「人間は河童に釣られないよ」
「分かんないよ。河童も自由研究してるかもしれないもん」
美海はそれだけ言うと、満足したように廊下を走っていった。
湊は笑いかけたが、母親は本の整理をしながら言った。
「案外、美海のほうが大事なところを分かっているかもしれないわね」
「どういう意味?」
「向こうへ行ったら考えなさい」
「母さんまで、先生みたいな言い方するのやめてよ」
「大人は、全部説明すると疲れるの」
「子どもだって、説明されないと疲れるよ」
「じゃあ、まずはその靴下をしまって。話はそれから」
湊は不満を言いながら、床に散らばった荷物を拾った。
遠野へ出発するまで、あと二日。
河童を釣るまで、あと何日かは分からない。
けれど湊は、このとき本気で信じていた。
三週間もあれば十分だ。
毎日川へ通えば、必ず河童に会える。
そして本物を見つけたら、自分を笑ったみんなに証明できる。
妖怪はいる。
自分は間違っていなかったのだと。
ただ、その自由研究の最初の一行に、湊はまだ何も書いていなかった。
白いページの端には、なぜか濡れた小さな指で触れたような跡が、五つ並んでいた。




