4 予兆
それは、初めは眩いほど強く、次第に弱まっていき、ほどなく消えた。
「……な……んだ……いまの」
光源は、杖の先端にはめ込まれた水晶石。
母から最期に渡された形見。ジローが大切に持ち歩いていた、何の変哲もない杖の、はずだった。
まず幻覚を疑った。
木製の柄をぺたぺたと触り、石に触れると、指先でジュッと音がした。
「熱っ……ちい!?」
慌ててひっこめる。
「でもっ……てことは幻覚でもない」
だが独りでに光る天然石など本でも読んだことがない。
「なんだコレ……」
いままで大して気にしてこなかった。ただの飾りだと思っていた。
でも冷静になったいま…………これはいったい、“なんの石”なのだろう。
『お父さんの物よ。いつか役に立つ』
ふと母の言葉がよぎった。
「…………父さん……?」
馴染みのない呼称だ。
父親は物心ついた時からいなかった。アキラとジローがまだ小さいころ、シェルターから脱走したらしい。
理由はわからない。ある日突然、誰にも何も告げずに、地上に出ていったのだ。
この杖だけを残して。
「……なんで……」
腹の底から何かが湧き上がってくる。ずっと忘れていた懐かしい感情。
暗く狭い世界の外殻に、小さなヒビが入った気がした。
そのとき頭上でパチチ、と音がした。
「おっ……?」
一瞬、部屋から光が消え、すぐにまた明るくなる。電灯はいつもと変わらないボンヤリした白光を灯していた。
「……接触不良か?」
眉をひそめたジローの耳に、今度は廊下からけたたましいブザーが飛び込んできた。
除染室の外扉が開いた音。アキラが帰ってきたようだ。
ジローはひとまず杖をついて、部屋を出た。
壁にかかった線量計の数値が上昇している事にはまだ気づかなかった。
「あぁ……暑っつい……」
ノロノロと開いた外扉から除染室に入ると、アキラは壁のスイッチを押し、すぐに洗浄機を作動させた。
天井から高圧ノズルが放水を始め、全身に付着した血と汚染物を洗い流す。
送風機による乾燥工程が終わると、内扉が開き、ジローが入ってきた。
「おかえりィ」
「……ん」
防護マスクを脱いだアキラは肩にかけたクーラーボックスをごとんと落とす。
ジローが開けて中を見る。
「あれ……なんで二匹分あるの?」
「二匹いたからよ」
弟の問いに最低限の返答をし、さっさと除染室を後にした。
脱ぎ捨てた下着を洗濯カゴ付近に放り投げ、シャワー室に入る。
栓をひねると熱いシャワーが吹き出し、全身の汗と汚れが洗い流されていく。
更衣室の棚から綺麗に畳まれたタオルを取りだし、髪と身体を拭いて、洗濯済みの服に着替える。
ドライヤーで髪を乾かしたら貯水室へ。除染水をタンクから汲んだ水を飲んでいると、どこからともなく、肉の焼ける匂いが漂ってきた。
「…………」
ジローが料理をしているらしい。夕食か、あるいは朝食か、昼食か。その辺の感覚はアキラにはもうよくわからない。
せっかくの風呂上がりにまた肉の臭いなど嗅ぎたくないので、さっさと自室に戻った。
安定剤だけを飲み。ベッドに身を沈める。
布団に全身をしっかり包ませると、意識が吸い込まれるように、一瞬で眠りに落ちた。
夢は見なかった。
自分という存在が溶けてなくなってしまったように、何も見えず、何も聞こえない。
もうずっとここにいたい。
目覚めたくない。
現実に……戻りたくない……。
『お願いだから約束して』
だが、そう感じた時、決まって声がする。
母の息遣い。昇降機の扉の隙間から見た表情までが鮮明に浮かぶ。
『これから先、どんなことがあっても――――――』
背後から追いついてきた“奴ら”が、母を襲う。鮮血が幼い姉弟の頬を濡らし、その絶叫をかき消すように、滑車が猛回転して――。
ガチャリ、と背後で音がする。
「アキラー? 晩ごはんできたよー」
暗い部屋に外光が差し、無遠慮な声が入ってくる。
アキラは「ん……」ベッドの中で身をよじった。
「……だから……ノック……」
願望は決して許されない。目を覚ますしかない。
そういう“約束”が、彼女の脳裏には刻み込まれているのだった。
最下層における最も広い倉庫を、ふたりは“リビング”と呼んで食事場に使っている。
有り合わせの料理道具を集めたキッチンが壁際にあり、中央に小さなテーブルがある。
また隅には古びたスピーカーが置かれていて、ジローの好きな音楽が何曲か繰り返しで流れていた。
「今日は肉野菜炒めです!」
最下層におけるふたりの主食はもっぱら異獣の肉である。
最下層に閉じ込められた当初は備蓄食糧を食べていたが、最初の一、二年ですぐに尽きた。
ジローが農業プラントの予備パーツから小さな栽培室を作り、野菜を育て始めたが、それだけでは毎日の食糧はとてもまかなえず、苦肉の策として異獣を狩るようになった。
放射線により変異した生物の肉。そんな汚染物の塊のようなモノを食べて大丈夫なのか、という不安は当然ある。
だが実際、入念に火を通した肉は、食べても特に身体に異常は起こらなかった。
今のところ、ではあるが。
「いただきまーす!」
「……ただきます」
ジローが威勢よく手を合わせた。
アキラも義務感でそれに倣う。
肉野菜炒めを口に運ぶ。味付けは栽培室の大豆から作っている、自家製の醤油と味噌である。
「…………」
両者の豊かな香りに紛れて、消しきれない獣臭が鼻に抜けてくる。
なるべく息をしないように咀嚼し、コップをあおって飲み込んだ。
「ねェ、次はいつ狩り行く?」
そんな姉の様子にお構いなく、ジローは肉を頬張りながら尋ねた。その手元には、ビタミン錠剤の入ったケースが置かれている。
「ついて行きたいって話ならダメよ」
「そう言わずにさあ、聞いてよ。いい作戦、思いついたんだ」
「……作戦?」
「狩り場に僕が罠を仕掛ける。で、奴らの動きを止めた所を、アキラが仕留める! ね、いいだろ」
ニヤリと笑った顔でぐっと身を乗り出し、ハリのある声で主張した。
「……何度も言わせないでよ。あんたの役割は留守番」
アキラは箸で肉を皿の端にのけて、野菜だけを口に入れながら返す。
「なんで? 今より楽に狩りできるよ」
「関係ない」
「ないことはないでしょ」
「しつこいわね。私がダメって言ったらダメなの。お互いの役割には口出ししないって約束でしょ」
ダメ押しに付け足した言葉によって、ジローのニヤケ面を消し、身を引っ込めさせる。
「……でも」
が、またすぐに彼は口を開く。
「上にいる異獣をたくさん狩ってさ、減らしていけば、いつかは地上に出られるかもしれないじゃん」
口を尖らせて、今度は話を将来の展望に結びつけてきた。「そしたらさ、父さんを探しに行くことだってできるよ」またいきなり突拍子もないことだ。
「こんなとこで死ぬまでふたりっきりなんて、アキラもイヤじゃん?」
「出られるわけないでしょ。この上に、何匹奴らがいると思ってんの」
「断言することないだろォ。やってみなきゃわかんないよ」
奴らと戦ったこともないくせに。
なんて大人気ないことは、アキラは思っても口には出さなかった。
「……だいいち、あいつがまだ生きてるわけないでしょ」
代わりにフォークを置いて、弟の目を見る。
「いなくなったの何年前だと思ってんの。私たちが、まだ物心つく前よ」
妻子を捨てた人間を「父さん」などと呼ぶ気は当然ない。
「あんただって、習ったでしょうが。地上はもう人が生きていける場所じゃない。仮に出られたとしても、そこにはもう、人はいないのよ」
そう断言して、コップを勢いよくあおった。
喉にしつこく残る肉の臭いを洗い流したところで、「でもゼロじゃない」と声が返ってきた。
「…………は?」
「誰も、隅々まで調べたわけじゃない。地上のどこかには……僕たちみたいな生き残りが他にもいる可能性も……ゼロじゃないよ。まだ」
強い光を宿した瞳が見つめ返してくる。
この世界に、まだ可能性などというものがあると本気で信じている目だった。
驚くほど楽観的に、
だがあくまで冷静に、
事実として。
「…………」
とっさに目を逸らした。
「そう思いたいなら好きにすれば。ごちそうさま」
食器を持って立ち上がる。
「ちょっと待ってよ。食後の一戦は?」
「やらないわよ」
ジローがサッと取り出したトランプを一瞥して拒否した。
そのとき、示し合わせたように、ふたりの間に置かれたスピーカーから流れていた音楽がふと、止まった。
タン、タン、とシンクに垂れる水滴音が、静まったリビングに響く。
「ちょっと、なにそれ……」
アキラは視界の端に違和感を覚えた。
「おわっ!」
テーブルにたてかけられたジローの杖が、急に眩い“光”を放っていた。
「まただ!」
「また?」
「いや、さっきもこの石が……」
姉に説明しようとして、ジローはさらに別の違和感に口を噤んだ。
「ッ……」同時にアキラも気づいていた。
ふたりは同時に天井を見上げた。そこには、バチバチと音を立て激しく点滅する電灯があった。
いつもと明らかに様子が違う。
と思ったとき、それはふっと光を失い、そのまま二度と点かなくなった。
同時に、そこら中ありとあらゆる光も、すべて消えていた。
シェルターは暗闇に包まれた。




