2 避難開始
小学生女子のイケてる度を測る基準は色々ある。
容姿、友達の多さ・質、趣味、習い事、学校での立ち振る舞い……等々。
そしてなにより、最強のステータスは……“彼氏”だ。
アキラはついにそれを手に入れた。
5年生……わりと早い方じゃない?
学校からの帰り道。クスノキの街路樹が並ぶ整備された歩道。ランドセルを背負ったアキラの隣には、幼なじみのユウトが歩いている。
いや、もうそんな呼び方はよそう。
私の“彼氏”のユウトが歩いてる!
アキラは内心舞い上がっていた。
「…………」
ただ、二人の間には依然として気まずい沈黙が流れている。
「あらぁ、おかえりアキラちゃん、ユウトくん」
通りすがり声をかけてくる近所のおばちゃんに「ただいまでーす……」とぎこちなく挨拶した。
付き合うことになったは良いものの、アキラは当然、恋人ができたらどういう話をするとか、何をするべきという知識はあまりなかった。
おそらくユウトもそうなのだろう。口をへの字に結び、真っ直ぐ前を向いて、アキラの方には絶対視線を向けられないという強い意志を感じる。
なのでふたりは寄り道もせず、もう家の近くまで来てしまっていた。
「…………」
だがアキラは焦っていなかった。
前に隣クラスの男子と恋愛経験があるユミの助言を思い出していた。
『付き合っていきなりキスとかは引かれるから絶対NG! まずは軽いボディタッチ、手を繋ぐとこからだよ』
ありがとうユミ……あんたのアドバイス。いま活きるよ。
決意し、そっと手を近づける。
「……っ」指先が触れた瞬間、ユウトの顔がぎくりとこわばった。
「繋いでも、いい?」
「…………うん……」
彼の手が、おそるおそる握り返してくる。男らしく握力が強くて、また驚くほど熱を持っていた。
「うわ、手汗やばいよ」
「うるせえよ……」
住宅街を行き交う大人たちにバレないように、繋いだ手を隠しながら、ふたりは帰宅した。
ふたりの家は居住エリアの中心から少し外れた、市営集合住宅のマンションにある。
シェルターの住民には一家につき一室が、家族構成に応じて市から無償で手配される。
「じゃあ……また明日ね」
「ああ。また明日……」
隣同士の部屋の前で別れるとき、ふたりは離した手を名残惜しく振りあった。
「ただいまー……」
パタンとドアが閉まった瞬間、「はぁ~~」アキラは両手で顔を包み、玄関にしゃがみ込んだ。
「……積極的……すぎたかなぁ…………」
「なにやってんの。靴も脱がずに」
「はっ……??」
頭上から声がして、慌てて飛び上がる。
「おかえり、アキちゃん」エプロン姿の母、トウコが不思議そうな顔で立っていた。
「お母さん?? もう帰ってたの??」
「うん。なに? そんな慌てて」
アキラと同じ直毛のショートヘア、ジローと同じ大きな瞳に、眼鏡をかけている。
母は第一層の研究部で働くエンジニアだ。いつもはだいたい少し残業して、この時間にはまだ帰っていない。
「アキちゃんこそ、今日ちょっと遅かったね。またなんか仕事でも頼まれてたの?」
エプロンの前かけで手を拭きながら、母は尋ねてくる。
「えっ……まぁ……うん」靴を脱ぎながら、とっさに目を逸らす。
「ま、アキちゃんがいいならいいんだけどさ……なんでもかんでも受け入れすぎちゃダメだよ? 教師ってのは、意外とそういう子どもを都合よく利用するからね」
「……何言ってんの」
格言モードに入った母の横を通り過ぎ、スタスタと自室へ。
2LDKの家は決して広くはないが、母、アキラ、ジローで三人暮らしする分には充分な広さだ。
アキラの自室は弟と共有で、一応、間を移動式の壁で隔てている。
「ん……?」
壁の隙間から覗き込むと、ジローはまだ帰ってきていない。
まあいつもの事だ。どうせまた図書館にでもこもっているのだろう。
「まったく……」
弟はいわゆる人とは違う変わり者だ。
小さい頃からひ弱で、ずっと本ばかり読んでいた。いじめっ子に目をつけられてはアキラに守られるのが常だった。
最近は「地上に出る」などと意味のわからないことを言い始めて、姉としては、学校でまた変な噂になるようなことはやめてほしい。
「お母さーん。今日晩ご飯はー?」
「んー? カレー」
「やったぁ。じゃあ手伝うー」
「じゃあってなによ」
キッチンでは母が野菜を切っていた。人参、ジャガイモ、タマネギ。のみ。
「あれ、肉は?」
「ないよ」
「えぇ~?」
「仕方ないでしょ、“作ってる数”にも限りあるんだし、高級品なんだからね」
このシェルターにおける肉とは、人工的な“培養肉”のことだ。
牛や鶏は育てているが食用にできるほどの数はない。
肉は栽培室で大量に育てられる野菜と違い、まだ技術的に、培養に手間がかかる貴重品だった。
アキラはしばらく母と一緒に料理を手伝っていた。
野菜を鍋に入れて煮込みを開始した頃、
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴って、時計を見るともう17時だ。
「……あいつ……5時までには帰れって言ってんのに……」
アキラはため息をつき、エプロンを脱ぐ。
「ジロー呼びにいってくる」
「え? いやいいよー、すぐ帰ってくるでしょ」
「ダメだよ。甘やかしすぎ」
靴を履いて、つま先をトントンと床に突く。
「私とお母さんにいっつも家事やらせて。今日こそはあいつにも手伝わせてやらなきゃ」
「ん……そう……じゃあ、お願い。気をつけてね」
母はキッチンでタイマーをセットした後、わざわざ小走りで玄関まで見送りに来た。
「べつにいいのに……」
毎回思い、毎回伝える。
でも母は、たとえどんな些細な外出だろうと、絶対に見送りをやめない。
「よくないの。ほい」
と、エプロンで拭った手のひらを差し出してくる。
「……ん……いってきます」
アキラも仕方なく手を出し、軽くハイタッチした。「気をつけてね」もう一度かけられた声を背中に聞いて、家を出た。
その直後のことだった。
「ッ……!?」
腹の底を揺らすようなサイレンが街中に響き渡る。
次いで、街頭スピーカーが切迫した音声を発した。
『緊急汚染警報。緊急汚染警報。第二層《居住エリア》に異獣が侵入しました。
市民の皆様は速やかに防護服を着用し、避難を開始してください。
これは訓練ではありません。繰り返します。これは訓練ではありません――』
呆然と立ち尽くすアキラの肩を、背後から伸びた手が引き寄せた。
「っ!?」
「アキちゃん!! 大丈夫!?」
飛び出てきた母だった。
ひとまず娘を抱き寄せながら、サイレン音に負けない大声で呼びかける。
「うん……お、お母さん……? なにこれ、どういうこと?」
「急いで。防護服、着るわよ」
マンションの廊下では、住民たちが次々と出てきていた。
若者や子供たちは、みんな何が起こっているのかわからない様子。対して、一定年齢以上の大人たちの行動は早かった。
「アキラ……!」
隣の部屋から、まずユウトが飛び出してきた。
「大丈夫かアキラ? 体……なんともない?」
「う、うん……そんな、べつに大丈夫だよ」
「伊高さん」
その後ろから、大柄の男性が姿を現す。
ユウトの父親、ヨウジだ。
「吉田さん、これって……」
母は彼に話しかける。
「本当に訓練じゃないんですか?」
「警備部じゃ話は聞いてません」
彼はシェルターを外敵から守る《警備部》の所属だった。“異獣”との戦闘経験があり、地上にも何度か調査に出ている。
今日はたまたま非番だが、いつもは居住エリアより上の第一層や、地上に繋がるエレベーターシャフトの警備を担っていた。
「……ついに来たか」
「とにかく避難しましょう」
「……そうですね。子どもたちに防護服を」
大人たちはこの事態にも冷静だった。それはかつて地上での経験があるからだ。
「ユウト、防護服出してきてくれ」
「はい!」
ユウトも、動揺することなく返事をして、部屋に駆け込んでいく。
まるで日頃からこの事態に備えていたかのようだった。
「アキちゃん、私たちも着るよ」
「う、うん」
「伊高さん、ところでジローくんは?」
部屋に戻ろうとしたところで、ヨウジが尋ねてきた。
アキラは背筋が凍りついた。
そうだった。弟がいない。
「……帰ってません。たぶんまだ図書館に」
「そうですか……どうするんです?」
「……」
母は黙ってうつむく。
「お母さん……?」
アキラは不安になって母の手を引っ張った。
「迎えに行きます。申し訳ないんですけど吉田さん、アキラのことを……」
「いや。それなら心配しなくていい」
ヨウジは母の言葉をさえぎると、大きな手で、彼女の肩をがしりと掴んだ。
「我々も一緒に行きます。その方が安全だ。ジローくんを見つけて、全員で避難しましょう」
「吉田さん……そんな」
「いいんです。ご近所同士ですし、俺も伊高さん家のカレー、また食べたいですから」
ユウトが戻ってきて、「出したよ!」と父に叫ぶ。
「よし、いま行く!」ヨウジは母に笑いかけると、息子に叫び返して、
「じゃあ部屋に戻って防護服を着てください。それから最低限持っていける貴重品と、できれば何か護身具になる物も」
「えっ……」
「万一のためです。包丁とかカッターナイフで構いませんから」
大柄な肩越しに振り向き、そう立て続けに言って、「それでは」と部屋に戻っていく。
「……ありがとう」
母はその背中に深々と頭を下げていた。
アキラたちは部屋に戻ると、クローゼットの奥に押し込められていた、三人分の非常防護服を取り出した。
防護服を着る訓練は学校でも何度もやらされている。ごわついた重い繊維の服は、いきなり着ようとすると手こずってしまう。
まずは片足ずつ順番に、ゆっくり通していくのだ。
学校で習ったように……。
指の関節が固まったように、上手く動かせない。
いつも簡単に閉めていたジッパーが、この時はやたら引っかかった。
「アキちゃん」
すると母が代わりに手を添えて、ジッパーを閉めてくれた。
「よく聞いてね」娘の前にしゃがみ込み、目線を合わす。
「これから避難所に着くまで、何があっても、何を見ても、私のそばを離れないで。いいね?」
母の目は瞳孔が開いて、いままで見たことがないほど切迫していた。
「…………うん」アキラはまるで脅されたかのように、コクコクとうなずいた。
二人は防護マスクも着用し、対放射線環境の完全防備を整えた。
「じゃあ……いくわよ」
リュックサックに最低限の荷物を詰め込むと、母と手を繋いで家を出る。
「すみません、お待たせしました」
廊下では既にユウトとヨウジが待っていた。
彼らは防護服に加えて、それぞれ腰にナイフを差している。
またヨウジは自前の大きな猟銃も持っていた。
「非常事態なんでね。非番だが使わせてもらいますよ」
アキラたちの視線に気づいた彼は銃を軽く担ぎ直し、「行きましょう」と一行を先導していく。
既にマンションの住民は一斉に避難を始めていた。
エレベーターと階段は大混雑状態だ。
「早く通して!!」
「おい、なんで止まってんだよ!!」
「みなさん、落ち着いてください! あせらず、前の人を押さないで!!」
列の先頭では警備隊員らしき人影が整備をしている。
「早く通してくれ!」しかし誰も耳を傾けようとしない。
住民たちは既にパニック状態だった。
「チンタラしてる間に、奴らが来たらどうすんだっ!」
「そうよ! もっと急いでよ!!」
「子どもがいるの!! はやく通して――」
瞬間、空間をつんざくような破裂音が廊下に轟く。
「きゃあっ!」女性の悲鳴が上がる。
「ウホンッ」
いきなり空に向けて猟銃をぶっぱなしたヨウジは、群衆の注目が集まったところで、粗く咳払いした。
「私は警備部第四課長の吉田だ。この場にいる全員の安全を確保するため、指示に従ってもらう!
繰り返すがこの場にいる全員の安全のためだ!」
よく通る声で一人一人の顔を見ながら呼びかける。
「前の奴の背中を押せば、列が乱れて余計に避難が遅れる! そいつが転けて怪我でもしたらもっと遅れると思え!
全員が全員のために行動しろ! それが、最速で避難できる唯一の方法だ」
群衆は静まり返った。互いの顔を見合わせ、数秒後、大人しく避難を再開する。
「体の不自由な方を優先してエレベーターに乗せます! それ以外の方は階段で! 小さいお子さんがいる人はしっかり抱えて降りてください!」
指示をしていた隊員がヨウジの方をちらと見て、敬礼する。
ヨウジは近寄り、「おい、どうなってんだこれは」と話しかけた。
「すみません……いきなりの事で、我々もいま到着した所で」
「状況は?」
「二層より上はすでに高濃度汚染状態で被害甚大です。ライフラインは手順通り閉鎖済みですが、いくつか間に合わなかった箇所がありました」
「敵の数は?」
「確認している限りでは、20体です」
「……なんだと」
ヨウジがうめいたのは、それが、警備部の全部隊を動員しても駆除しきれるか怪しい数だったからだ。
「この場を頼めるな」「はい」隊員にあずけて、アキラたちの方に戻ってきた。
「いいんですか……? ヨウジさん」
母は、警備の役職持ちである彼に小声で言った。「いえ」ヨウジは厳しい顔のまま、避難を再開した群衆を見渡す。
「ジロー君を救出したら俺も戻ります」
大人たちの緊迫は子どものアキラにも伝わってきた。
「……大丈夫だからな」
隣で、ユウトが手を握ってくる。
指先から熱い体温が伝わる。成長期の男子っぽい、やや固い手のひらの感触に包まれて、震えが少し治まる。
「きみは俺が守る」
前を向いたまま言うその表情には、もう照れも躊躇もなかった。
※
ぽたん、ぽたん、
ぬめり気のある液体が木張りの床に垂れる。
静まり返った図書館にくぐもった咀嚼音が響いている。
「ふたりとも。これから私はあれに捕食されます……その隙に逃げてください」
数分前、田島先生はそう言って、ふたりを本棚の裏に隠した。
子どもたちのより良い学びのため、時代遅れと分かっていながらも、日々試行錯誤して、教鞭をとってきた。
彼はいま、血溜まりに横たわり、もうピクリとも動かない。
手足を投げ出し、光のない目を天井に向けている。
本棚の陰に隠れたタエコは、叫び出したくなる衝動をなんとか堪えた。
「ぴする――ぴする――」
田島の遺体に、異形の生物が食らいついている。
図書館のどの本にも、その姿は載っていなかった。先人たちの配慮か忌避かはわからないが、タエコも同意だった。
あの姿を児童に見せたいとはとても思えない。
「ぴする――」
あれが――異獣。
遺体から顔を上げ、「ぴする、ぴする」鼻を鳴らしながら周囲を見回す。
母が言っていた。あの生物は嗅覚が異常に鋭い。
のそり、と大きな足を本棚のほうに踏み出す。
いま逃げなければ見つかる。だが扉は奴の体に塞がれている。
タエコは少し離れた窓を見た。図書館は1階建て。あそこから広場へ出れば避難所まで一本道で行ける。
問題はどうやって気づかれずに行くかだ。
「…………」
ジローは呆然と虚空を見つめている。
ほんの数分前まで会話していた人が、目の前で急に殺されたのだ。
理解が追いつかなくて当然だった。
タエコは唇を噛む。田島が命を懸けて逃げろと言ったとき、動けなかった。
あのとき棚に隠れるのではなく、ジローを抱えて、窓に走っていれば。
逃してはならないチャンスを逃した。
もう次は無い。
タエコはぎゅっと目を瞑り、母のことを思い浮かべた。
頑固で厳しかった。タエコと同じように人付き合いが下手で友だちもいなかった。
でも本が大好きで、子供たちの好奇心と知性を育むこの仕事に、何より誇りを持っていた。そんな母を。
『じゃあ、行ってくるわね』
最後の手術を受けに行く、その背中を見送った時、もう帰ってこないとわかってしまった。
「…………ジロー君」
きっとあの人も同じ選択をしただろう。
「あの窓から外に逃げましょう。合図したら走ってください」
ジローがびくりと顔を上げる。
「見つかっちゃうよ」
「大丈夫……何も考えなくていいですから。
ただ振り返らずに、とにかく、自分が逃げることだけに集中してください」
平静を装っても、喉の奥が震える。
ただ、少年の怯えた瞳を見て、やはり自分の決意は間違っていないことを確認した。
「そんな、無理だよ。タエコ先生……」
「無理じゃありませんよ。あなただって、ち、地上に本気で出る気なんでしょう」
その言葉に、少年はハッとなる。
「この世に100パーセント不可能なことなんてありません。どんな問題でも、考えないことをやめない限り……何かしらの対処は可能です」
腹の底から、自分の全てを振り絞るようにして、タエコはいままでで一番の笑顔を作った。
「大丈夫。一緒に生き残りましょう」
それはとてもぎこちない、笑みと呼べるかも怪しいモノだった。
でもジローは目を見開いたまま……まだ何か言いたげだったが、やっぱり口を結んで、
こくりとうなずいた。
「……よし」
タエコは彼の背中を支えて立ち上がらせた。
二人で姿勢を低くして、窓に最も近い棚の影まで移動する。
「……すぅ……」
そこで大きく息を吸い、
「行け……!!」
ジローの背中を押した。弾かれたように、小さな体が走り出す。
窓に向かって一心不乱に。
その様子を確認したタエコは、逆方向に向き直る。
「ぴする――」
異獣が鼻音を鳴らしながら振り向き、ふたりを捉えた。
「ォアアアアアアアアア!!!」
つま先から頭頂まで、つんざくような雄叫び。筋骨隆々の巨体がこちらに一目散に向かってくる。
「振り返るなッ!!」
タエコが一喝すると、背後で止まりかけた足音が、再び動き出した。
眼前には異獣が凄まじいスピードで迫る。
視界が完全に覆い尽くされる寸前――タエコは最後に、窓の方を見た。
そこにジローの姿はなかった。ただ、小さな靴底が縁の奥に消えるのがちらりと見えた。
「あぁ――」
直後、凄まじい質量の衝突が彼女の体を撥ね飛ばした。




