10 朝陽
サラサラという音がして、やわらかな風が頬を撫でた。
妙に落ち着く匂いに包まれていた。嗅いだことは無いはずなのに、ずっと昔から知っているような……。
薄く目を開けるとそこには見慣れた顔があった。
男っぽい雰囲気、短めの黒髪、無愛想な猫目の。
「……アキラ?」
声を発すると、びくっと肩を跳ねさせ、ジローを見下ろす。
「…………っ、この、バカっ……」
きっと口を結び、弟の胸を軽く殴りつけた。
「バカ! ……アホ……カス!」
ポカポカと数回叩いて、終いには、窒息させるような力で抱きしめる。
「むぐっ! なっ、なに?? く……苦し」
「ごめんなさいって言え!」
「はぁ? なんでっ??」
「いいからっ…………心配させて、ごめんなさいって、言いなさいっ……」
声を尻すぼみに弱々しくなる。スンッと鼻をすする音が耳元でする。
「…………それは……ごめん……」
ジローはとりあえず姉を抱き返しながら、自分の手に握られた杖を見て、何が起こったのか思い出そうとした。
「僕、なにやって……」
最後の記憶では、たしかエレベーターシャフトにいたはずだ。地上に繋がる最後のケーブルを登っていて、だが途中で魔物の群れに落ちて――――食われた。
「うォああ!」
慌てて自分の体を見下ろす。
彼の体を包む防護服は血まみれで、そこら中に食いちぎられた穴が空いていた。
「うァやっぱりいっ!! ……い……あれ?」
悲鳴は、途中で疑問に変わる。
防護服には穴が空いている。しかし、そこから覗く自分の体には一切の傷はなかった。
腕も足も、ちゃんとついている。
「…………なんだ、これ……なんで」
わけがわからず、姉を見る。
すると彼女は言葉を選ぶように目を逸らして、ポリポリと頭をかき、
「あんたが寝てる間に…………異獣の血を飲ませて、肉を食わせた。そしたら治った」
「……なにを言ってんの?」
「私だって……よくわからないわよ。でもそうなったの」
まったく意味がわからない。しかし姉は至極真顔で言う。
「つまり、私たちの身体は、違ったってこと。その……普通とは」
「……はぁ……」
彼女の心理はジローにはまだ理解できない所だった。
「っていうか、ここはど……」
周囲を見回した。
「……こ」
そこには、彼がいままでの人生で、一度も見たことの無い光景が広がっていた。
その瞬間まで、彼にとって世界とは、薄暗い地下の廊下だった。
コンクリートの床に天井。ぼんやりした室内灯に照らされ、空気を無数の埃が舞っているような、無機質な世界。
しかし、いま世界は、深い緑に包まれていた。
頭上を覆う天井のように見えるのは、背の高い緑葉樹の枝葉だ。辺りはほの暗いが、しかし、地下に比べれば格段に明るい。
そしてどこか温かい感じがする……。
足下に目を落とすと、そこには土があった。
「あ……」
枝、落ち葉、木の実……。無数の有機物がごった返して敷き詰められている――大地だった。
「あ……あ……!」
ジローは無我夢中で駆け出していた。
「待って!」アキラの静止も無視して、杖をつき、動きの悪い足を無理やり動かし、
木々の隙間から射す小さな“光”を、一直線に目指す。
「待ちなさいってば……!」
唐突に開けた場所に出た。数秒遅れで、アキラが息を切らしながら追いついてくる。
「………もうッ、急にどっかいかないでよ……」
膝に手を着いて「うっ!?」足下に広がる絶壁が視界に入り、慌てて後ずさる。
肝を冷やしながら隣の弟を見て、その唖然とした表情に気づいた。
「……なに?」
彼の視線の先を見て──同じ顔になった。
ふたりはなだらかな山肌の中腹に立っていた。
そこから巨大に反映した緑の森と、所々に灰色と廃墟らしき建造物が突き出て見える。そして途方もなく高い藍色の空が、地平線まで繋がっている。
「あ――……」
空と陸を分ける山稜の向こうから、まばゆい光が昇ってくる。
森に、川に、空に、それは流れ込み、暗い闇の中にあった世界を黄金色に染め上げていく。
眼球が焼けるような輝きに、ジローは思わず手をかざしたが、それでも目を離すことなどできなかった。
たしかに本に記されていた通りの──だが十数年、地下で夢想していたそれとは比べ物にならないほど鮮明で、美しく、異様な光景だった。
心臓が生まれたてのように激しく鼓動する。
血圧が高まり、手足の指先がびりびりと痺れて、新鮮な血が頭にも回り、顔が火照ってくる。
全身の細胞が総歓喜する感覚にのまれる。
「うわ……」
「…………っ」
ジローは思わずため息をつき、アキラは息を飲んだ。
姉弟はお互いが倒れてしまわないように、無意識に手を繋いで、
そのまましばらくの間、生まれて初めて浴びる本物の朝陽に圧倒され続けた。
異変に、最初に気づいたのは、ジローの方だった。
「はっ、え、いやちょっと待って……なんだ……!?」
本物の光を浴びて呆然としていたアキラの鼓膜を、弟の必死な呼びかけが突いた。
「えっ?」
我に返り、隣を見る。
「ぁ……? なに……?」
「あ、あれ! 見て!」
ジローは動揺しながら空を見上げていた。
「なんだ…………なんだよ……あんなの……書いてなかったぞッ」
空は、陽光を受けて明るい青色に染まりつつある。
そこには、ゆったりと流れる無数の白い雲と――それらをかき分け空一面を覆うように居座っている――巨大な星があった。
「は……?」
アキラがその光景を現実だと理解するのに、しばしの時間がかかった。
昔、母から聞いたことがあった。
地上の空には無数の星がある。それはこの地球の外、この世界よりさらに果てしなく広い外の世界、宇宙に散らばる、星々なのだと。
その空でも最も大きく、私たちをいつも見下ろしているのが、“太陽”と、“月”の二つだと。
でもあれはそのどちらでもない。あれは……まるで……
「…………地球…………?」
その星の表面には、青い海と、複雑な歪曲の線を描く大陸があった。どことなく見覚えのある形……教科書の写真かなにかで見たことがある。
同じに見える。
それは限りなく《地球》に酷似した星だった。
「空の……上に…………なんなの、なにが……」
何が起きてる?
アキラは困惑しながら、行き場のなくなった疑問を隣の弟に投げかけた。
彼も同じ景色に目を奪われていた。
しかし、その表情には、アキラを余計に混乱させるものが貼り付いていた。
恍惚とした笑みだった。
「第二の地球だ」
そのときジローの頭に浮かんでいたのは、なぜか地の底で幾度となく読んできたあの本の題名だった。
地上世界のことが書かれた本。
《第二地球冒険記》。
「なによ、それ」
「わかんない……けど……」
腹の底から湧き上がってくる。それは強烈な相反するふたつの衝動。
恐怖と、歓喜だった。
この世界は恐ろしく未知だ。
そして、信じられないほどの可能性も持っている。
押し込められていた感情は、いま、堰を切ったように溢れ出す。
知りたい。
あれがいったいなんなのか。
地上に何が起こったのか。父の行方は。
この広い世界に満ちた謎すべてを。
「……ぜったいに突き止めてやる」
陽熱に浮かされた頭で少年は誓った。
|《第一章 終わり》




