22.行け④
とたんにバーニーの琥珀の瞳が生き生きと煌めく。
そして、一匹の猟犬になった。
体格の良い男が、支離滅裂に喚きながら剣を振り上げて襲いかかる。
その太刀筋は訓練された鋭さがあり、バーニーのがら空きの背中を狙った一撃は、必殺の威力を持っていた。
しかし彼が薙いだ剣は、届くことはない。
腕ごとバーニーに切り飛ばされたからだ。
立ち上がりもせず、膝をついたまま半回転したバーニーが刃を振った刃は、正しく男を捉えており、返す手で男の胴を横薙ぎにした。
飛び散った血を浴びながら立ち上がるバーニーに、なんとか立ち上がった長身の男が襲いかかる。
しかしバーニーは男を片手でいなすと、心臓に剣先を突き立てる。
むせかえるような血の匂いの中、無造作に倒れこむ男をステラが眺めていると、やかんが投擲される。
中身をぶちまけながら飛んで行くそれを、バーニーは剣の腹でいなす。
だがその間にステラは、女に羽交い締めにされた。
首筋に当てられたのは短剣だ。
「この悪魔がどうなっても……!」
その脅し文句は、ひゅんっとステラの耳元を通り過ぎたものによって途絶えた。
バーニーが投げた短剣が眉間に突き刺さった女は、ステラにまとわりつくように倒れ込んだ。
確認しなくても、女の体から命は失われている。
他の男達もそれぞれ事切れていた。
すでに命のないものは、ステラでは治しようがない。
その凶行を成したバーニーは、全身血にまみれていた。
炯々と光る琥珀の瞳はしかし、ステラを見たとたん狼狽えた色を帯びる。
「ご主人っ、怪我をさせてしまったか」
慌てて駆け寄ってきた彼は、手を伸ばそうとしたのはステラの首筋だ。
確かに、首を動かすとぴりりとした痛みが走った。
女の短剣で切ったのだろう。
周囲に殺した人間が三人もいるのに、こんな小さな傷を心配する彼は、ひどく歪だ。
凄惨な室内も、今のステラには意味を成さなかった。
「バーニー。縄、切って」
一太刀で縄から解放されたステラは、手のしびれを逃がしたあと、バーニーを見上げた。
ステラの視線を受けたバーニーは、当然のごとく、すとんとその場に腰を下ろす。
「ねえ、バーニー。私はあなたを騙して、剣闘場に売って、捨てたのよ。わかっている?」
声のトーンが違うと、わかったのだろう。
バーニーはゆっくりと瞬くとわずかに顔を歪めた。
「わかっている。俺が父親に利用されるのが嫌だから、その前に自分の意思で俺を捨てたんだろう」
ぐっと、熱を詰め込まれたような気分になって、引き結ぶ。
その通りだった。
父が逃亡した日、彼が足手まといになるはずのバーニーを連れて行くのを許したのは、肉盾にするためだった。子供がいれば、追っ手に対するけん制にもなるという下劣な算段だ。
ステラを連れて行ったのも、似た理由だ。
けれどそれは、ステラの物が他者に勝手に利用されるということだった。
たとえそれがステラを支配する父親でも、許せない。
だからステラは、バーニーを自分の犬として終わらせるために、自分で父に提案したのだ。
「剣闘場に売ってお金にしましょう」と。
(あの時の私は、自分の物だって自分で終わらせたほうが断然マシって考えた。とことんまでバーニーの尊厳を無視した、我が儘と傲慢な理由だったのよ)
守ろうとしたなどおこがましい、小さな暴君の身勝手な独占欲だ。
「どう、思ったのか、正直に言ってみなさいよ」
ステラが唇を噛みしめていると、バーニーはなぜか目を細めた。
「気づいたのは、もっと後だし、恨めしく思ったこともあったが。俺は、嬉しかったぞ」
「っ……勘違いしてるわ、別に助けようとしたわけじゃなくて」
「誰かの物になるのが許せないくらい、俺があなたの物だったんだろう。……嬉しかった」
まるで特別な褒め言葉を貰ったように、バーニーはうっとりとつぶやいた。
おかしい。おかしい。今ステラは罪を告白しているはずなのに、彼にかかれば、まるでとても良いことをしたように錯覚する。
(違う。大丈夫。私はちゃんと常識を学んで、良いことと悪いことの区別が付いて、真っ当に暮らせて――)
ちゃんとわきまえようとするのに、琥珀の瞳を見たとたん、ステラの決意が弱っていくのだ。
「あの時はついていくと言えるほど、力がなかった。だが、今は違う。あなたの犬は犬死になんてしないし、あなたの〝待て〟もずっと待っていられる。あんたを守れる」
「あなたが来てからの襲撃者を、全員殺して回ったみたいに? 私をおとりにして」
気になったのは、先ほどの女の言葉だった。
『仲間があんたのせいで何人死んだと思っているの!?』
そして、最近郊外で魔物の襲撃で死亡する旅人が増えているという。
時期は明らかにバーニーが現れてからだ。
「あなたは、ギルドで名前と居場所を隠さなかった。それは、あなた自身の立場も利用したのでしょう。バーニーが一番憎んでいるのだから、出奔した先で留まれば、エレストレーヤを見つけたに違いない。そう、思わせられる」
襲撃者がバーニーのことを知っていたのなら、他の被害者も周知だったに違いない。
バーニーが来た瞬間から、ステラの安全などこれっぽっちもなかった。
平穏に暮らせていたのは、すべての脅威をバーニーが退けていたからだ。
はじめから彼は襲撃者をおびき寄せて排除するために、なにも隠さずステラの側にいた。
ステラの指摘に、バーニーは明らかな喜色をにじませて笑った。
気づいてくれたという悦びと、少しの「褒めてほしい」という欲のにじんだそれは、明らかな肯定を意味している。
ぐらりと、感情が煮え立つ。
わけがわからなかった。ステラの「命令」にためらいなく従った瞬間からずっと。
ずっとずっとないものにしようとし続けた衝動に任せ、ステラは彼の胸ぐらを掴んで声を荒らげた。
「じゃあなに!? あなたは私の犬でいるために、死に物狂いで剣闘場で生き抜いて、騎士としての栄達も投げ捨てるって言うの!?」
「そうだ」
「馬鹿じゃないの!? わからないのなら、何度でも言ってあげる。私はあなたを捨てたの! もう飼い主でもないし、あなたは私の犬じゃないのよ!」
硬い胸板を押すように手を離すと、ステラは立ち上がって逃げ出そうとする。
でないと、普通の人間ではあるまじきことを口走りそうだった。
しかし、その前にバーニーの太い腕に体を攫われた。
「ッ離してっ!」
ステラの抵抗を物ともせずバーニーに縦抱きに担ぎ上げられる。
彼の返り血がステラにも移った。
バーニーが大股で移動したのは、お気に入りの一人掛けソファだ。
彼はそこへステラを乱暴に下ろすなり、背もたれを掴んでステラを閉じ込めた。
見下ろしてくる琥珀の虹彩が炯々と光っている。
「だが、あなたが俺を選んで犬だと言ったから、俺は犬になれたんだ。物でしかなかった俺を犬にしたのは、あなただ。――今さら、人間になんてなれない」
低く唸るような告白が、悲痛な叫びに思えて、ステラは抵抗するのをやめるほど驚いた。
呆けたように見上げたバーニーは、予想していた憎悪や怒りはなく、痛々しいほど悲しげに歪んでいた。
はじめて感じる、バーニーの本心だった。
(バーニーも、十年、苦しんでいたって、こと?)
押しつけられた役割に翻弄されて、本来の欲求は周囲から認められず、ごまかし無いものとして扱ってやり過ごした。
その事実に、ステラの奥底からほの暗い悦びがこみ上げてくる。
だがステラがなにも言わないことを、拒否だと取ったらしい。
バーニーは琥珀の瞳を一層悲痛に歪めると、その場に跪くなりステラの腹を抱きしめたのだ。
顔を埋めてくる彼の赤い髪が、ステラの膝に広がる。
突然の奇行にステラは動揺して、彼を引き剥がそうとする。
「ちょっと、なにをしているの!?」
「飼い主じゃなければ、好きにしていい。ずっとくっついてる。一緒に捕まればいい」
「ばか! なに言ってるの! 飼い主じゃないって言ったのは人生棒に振りたいってわけじゃなくて、あなたも私もまっとうになろうって意味で……!」
玄関もドアが壊れて開きっぱなしで、室内には死体が転がっているのだ。
これからどうにか時間稼ぎなり、つじつま合わせの工作なり必要だというのに、大の男に体重を掛けられて抱きつかれていたら、立つこともままならない。
焦るステラを、上目遣いに見上げたバーニーは口を開く。
「わん」
かっと頭に血が上ったステラは、バーニーの頭を叩いた。
「聞き分けの悪い犬は嫌いよ! どうしたいのか端的に人間の言葉で話しなさい!」
ステラの腹に顔を埋めたまま、バーニーはようやく口にした。
「……俺は、ずっと、あなたの犬がいい。あなたより、欲しいものなんてない」
ぎゅうっと、ステラを抱く腕に力が込められる。
それは幼子が縋るというには強固過ぎたが、似たようなものだろう。
(本当に、この犬は……)
ステラは天を仰いで、こみ上げてくる熱いものをこらえた。
バーニーは犬なのだ。とても賢くて、狡猾で一途な犬。
従順でいるように見えて、ステラを危険にさらすとわかっていて探しに来たり、今もこうして受け入れられないのなら共倒れを狙ったりするくらいには、欲求を貫くのにためらいがない。
けれど、それでも、ステラに選択肢を与える。飼い主の命令が一番だからだ。
彼を飼ってやるのが、ステラの責任なのだろう。
(ううん、違う。私は奪われるのが嫌なんだ)
己の中に巣くう、アヴァリスの本性を、認めるしかなかった。
だって、だって、この犬は、ステラの物だったのだ。
いつだって共にいて、ステラより先には死ななくて、絶対に裏切らない犬。
奪われるのが許せない。奪われるくらいなら壊して、自分から捨ててやる。
凶悪なまでに暴れ回る衝動が、己の意思で舞い戻ってきた自分の物に満たされ、悦んでいる。
これを喜びだと感じる限り、ステラはきっと善良な人間にはなれないのだ。
(しょうがない、私が育てたんだもの。どんな犬でも、可愛いわ)
たとえ破滅が待っていようと、戻ってきた犬を手放せないのは、ステラなのだ。
「バーニー」
ステラが呼びかけても、バーニーは頑なに頭を腹に埋めたままだ。
不安にさせたのはステラのほうだ。
しかたないと、言葉を重ねる代わりに、彼に向けて手を差し出して、もう一度呼びかける。
「お手」
今度こそ、ぱっと顔を上げたバーニーは、自分に差し出されている手と、ステラを見比べる。
かつてのステラが戯れに教え込んだ芸。
「命令をちゃんと聞く」という約束を確認するためだけの指示だ。
犬そのものの扱いは、人間ならば受け入れるわけがない。
だが、バーニーはなにを指示されたか理解すると、その顔が見る間に輝く。
「わんっ!」
元気な返事と共に乗せられた無骨な男の手を、ステラはしっかりと握る。
命令を聞くという誓いをいとも簡単にしてのけた犬の赤い髪を、ステラはもう片方の手で撫でてやった。
「よし、良い子」
人間になれる機会をすべてふいにしてまで戻ってきた、愚かしいほどかしこい犬だった。
ゆっくりと瞬いたバーニーは琥珀の瞳からぼろりと涙を流すと、再びステラを大事に抱き込んだ。
その手つきには、明らかな安堵がにじんでいた。




