21.行け③
ヴェルシュと別れたステラは、蹌踉とした足取りで家への道を歩いていた。
彼はもう少しこの街に残るという。あくまで騎士の任務として訪れているため、一定の報告できる成果を上げられないと帰れないという事情のようだ。
そんな彼の事情などどうでも良かった。
ステラはこれから、どうして良いか、もうわからなかったのだ。
バーニーは今日の任務はかなり時間が掛かると言っていた。それでも夕食は食べたいから、残しておいてくれると嬉しいとも。
そんな普通の会話すらできるほど、距離が近づいてしまった。
怯えるのも、疑うのも疲れた。けれどステラの長年凝り固まり続けた部分が、まだ重石のように体の芯に居座り続けている。
やっと普通の概念を知って、一般市民として生きていくすべも常識も手に入れた。
ステラは一般人として生活できる。
けれど、ソレを認めたら、もう後戻りできない。
思考が堂々巡りし、注意力が散漫になっていても、ステラの危機察知能力はしっかり働いた。
家の前まで来た刹那、ステラは猛烈な悪寒に襲われた。
「……」
この勘だけは、ステラを裏切ったことがない。
間違いなく今扉を開けたら危険だ。
(扉にいつも挟んでいる紙が落ちているってことは、室内で待っているのかな。やっぱりクルーゾー様が来たからには、団体が押し寄せてくるのも無理もないか)
住みやすく、放っておいてくれない街の住民は時々鬱陶しかったが、嫌ではなかった。
けれど、今日限りでおさらばしなければいけないらしい。
それでもステラは、即座に身を翻した。
一刻も早くここを去るのが最も生存率が上がるからだ。
疲れ切ってどうでも良いと思っていたはずなのに、体は生きるために勝手に動いてしまう。
走りだした矢先、ばんっと玄関の扉が開いて、男二人がステラに向けて押し寄せてくる。
もちろんステラも必死に逃げるが、道路に出ようとした矢先、髪を掴まれた。
「ッぁ!」
「逃げるな悪魔め!」
腕を振り回してめちゃくちゃに暴れても、片方の体格の良い男に羽交い締めにされる。
さらにはもう片方の長身の男に足をすくわれ、担がれた。
叫ぼうとした口も大きな手で塞がれる。
どうしても死ぬのは嫌だった。
だが抵抗も空しく、あっという間に、自分の家に連れ戻された。
「離してッ! ぐっ」
「黙れ! この程度で恨みが晴れると思うなよっ」
縛られかけるときもステラは蹴り飛ばそうとしたが、長身の男に顔を殴られた。
床に倒れ込むと、頬にじんと衝撃が走ったあと、痛みが熱となって襲いかかる。
殴られるのは、何度経験しても慣れない。
ステラの視界がかすむ中、男の手の指が一本欠けているのが見えた。
「早くしなさい、あの狂犬がいない今しかないのよ!」
「わかってるっ。だが、簡単に殺すなんてまっぴらだぞ」
女の声が聞こえた、ということは、今回の襲撃者は三人のようだ。
彼らの恨みを体現したかのように、腕を後ろ手にギチギチに縛られたステラは、長身の男に前髪を掴まれ上向かされた。
「ようアヴァリスの犬狂い姫、良い様だな」
ステラはそこでようやく襲撃者の顔をまともに見た。
体格のいい男と、長身の男。そして目深に帽子を被った女だった。
一様にステラが慣れ親しんだ憎悪と、吐き捨てるような侮蔑の目で見ている。
「本当に修道院から出ているとはな。自分の罪を忘れたか」
「……わすれて、ないわ」
体格の良い男にドンッと腹を蹴り飛ばされ、ステラは咳き込んだ。
ためらいのなさに素人ではないのを感じて、嫌な汗がにじむ。
「ゲホッゴホッ」
「答えて良いなんて言ってないぞ。あんたらが俺達に教えたんだろう? 許可が出ない限り口を開くなってなぁ?」
体格の良い男が甚振るように言う。こちらの感情を逆なでする嫌らしさが含まれたそれは、ステラに屈辱を与えるためだろう。
この様子からして、今回の相手はかつてアヴァリスと関わりがあった人間のようだ。
床を這いずるステラの前にこつ、こつと女が進み出る。
チラリとステラが顔を上げると、女が帽子を脱いだ。
怒りに顔を歪めていても整った顔立ちをしていたが、その半分は焼けただれていた。
「この顔、あんたの母親の愛人に色目を使ったって言いがかりだけで焼かれたのよ。このせいで私はどこでも傷物扱いで、恋人にも捨てられて、家族に見放された! 私の人生をめちゃくちゃにしやがって! 私の顔をこんなにしたアヴァリスがのうのうと暮らすなんて、絶対許さない!」
道理で顔を知らないわけだ。とステラはもはや疲れ切った諦観を覚える。
母親は愛人という名の奴隷に毒を盛られ、自慢の美貌をただれさせ、苦しみ抜いて死んでしまった。
彼女にはもう本来復讐したい相手がいないから、ステラに矛先を向けるしかないのだ。
今までステラを殺そうとしてきた者達は、皆そうだった。
「多少容姿を変えた程度で俺達が諦めると思ったか? 馬鹿め、お前達への恨みが晴れるわけがない!」
「人間様の社会に入り込むなんて悪魔がおこがましいんだよ!」
確かにおこがましい。
ステラ自身が、はっきり罪の意識を感じているのは、あの犬だけ。
なにを言ってもなにをしても、この復讐者達は止まらないだろう。
ステラの耳にシュンシュンと台所から湯気の立つ音が聞こえてくる。
女が台所にとって返すと、案の定持ってきたのはやかんだった。
重そうな持ち方と、注ぎ口から立ち上る湯気から、熱湯がたっぷり入っているのだろう。
ステラと目が合うと、女は残酷に口角をつり上げた。
「これからあんたを私と同じ目に合わせてやるのよ。おきれいな顔を焼いたあと、入念に女が一番惨めになるよう穢してやる」
「スラムに放置してやれば、醜女になろうが可愛がってもらえる相手はいくらでもいるさ」
「屈辱と絶望にまみれて、人間だったことも忘れるほど踏みにじられるが良いわ。簡単に死ねると思わないで」
復讐者達に口々に罵られる。が、すべてステラの心には届かない。
ステラは確かに疲れきってどうでもよかった。
だが、こんな会ったかも覚えていないような人間に殺されるなんてまっぴらだった。
しかし、ステラは男達に押さえつけられ、動けない。
その間に湯気の立つやかんを見せつけるように女が近づいてくる。
「さあ、まずはどこにするか。ああ、そうだね。まずは顔だ。悪魔なんだから、それらしい顔にしてやらなきゃね」
猫なで声で、女がやかんを傾ける。どれくらい、気を失わないでいられるだろうか、とステラは唇を噛みしめ――……。
玄関扉が吹き飛んだのはそのときだった。
修羅場の経験があるのだろう、男達は即座に身構える。
だがしかし、赤い死の権化が暴威を振るうほうが早かった。
風を巻き込み一足飛びに踏み込んで来た彼は、長身の男が押さえつけるステラを盾にする間もなく、男の背を袈裟懸けに切りつける。
「ぎゃあっ!?」
長身の男は鮮血を散らしながら、ステラから手を離して床に倒れて痛みにのたうち回る。
ヴェルシュはうめき声しか漏らさなかったのに、雲泥の差だ。
解放されたステラは、なんとか上体を起こしたまま、凶行を成した人物を見上げる。
「大丈夫だ、まだ殺していない」
どこか自慢げにそう語ったのは、赤々とした髪を背に流すバーニーだった。
血の滴る剣を無造作にひっさげた彼は、床に倒れるステラと残りの二人を睥睨する。
彼の纏う空気は、ヴェルシュの手首を飛ばしたときとまったく同じものだった。
体格の良い男が手を離して武器を構えるが、少し及び腰に見えるのは気のせいだろうか。
金切り声で喚いたのは女のほうだった。
「なんなのよ何度も何度も邪魔をして! 仲間があんたのせいで何人死んだと思っているの!? あんたが行くところに絶対悪魔がいるって話に乗せられて行方不明になった奴らが山ほどいる! なんで悪魔を庇うの!! あんたは報復する側でしょうっ恨みはないの!?」
女の顔は、その顔は怒りと理不尽さと恐怖に満ちあふれていた。
その敵意も意に介さないバーニーは、心底不思議そうに首をかしげた。
「俺を十全に使ってくれるご主人を、どうして手放さなきゃいけない」
襲撃者達からざっと音を立てて血の気が引いたのが、ステラには聞こえた気がした。
「い、意味がわからないイカれてんのか!?」
女が目を剥きわめくのすら耳に入っていないかのように、バーニーは一切を無視して、ただ床に座り込むステラの前に片膝を突いた。
「ご主人、こいつら、どうする」
「どう、って」
「俺は、もう間違えない」
まるで子供のような口ぶりとは裏腹に、深い覚悟を感じさせるそれ。
今彼は、ステラを拘束していた男を殺すことも、そのまま他の襲撃者を制圧することもできる。なのにそれをせず、ステラの命令を待っている。
ヴェルシュでした自分の過ちを正すために。
ステラは、ようやく納得できた気がした。
バーニーは人間にならず、犬として生きることを選んだのだ。
そして、彼はステラを主人に選んだ。今、命令を待っている。
頭がおかしい、常軌を逸している。そんなことあり得ない。
十年も経っているのに。そんなことがあるのか。
めちゃくちゃな感情がステラの体内を荒れ狂っている。
なのにステラは、導かれるように、それを口にしていた。
「〝行け〟」
あの頃使っていた、命令の単語だった。




