19.行け①
翌日、朝日が顔に当たってステラが目を覚ますと、バーニーはすでにベッドにはいなかった。
シーツには自分と異なる香りだけが残っていて、側にいないことに理不尽な苛立ちを覚える。
(馬鹿みたい、もう奴隷じゃないって私が言ったのに)
すでに冷たいシーツをなぞる。
もちろん手を出されなかったし、殴られも、罵られもしなかった。
昨日あんなことがあったのに、忌ま忌ましいほど目覚めは爽快だ。
ぐっすりと眠れてしまったのだ。
ステラがぎゅうっと拳に握りしめていると、扉がノックされる。
立ち上がって、扉を開けると、バーニーだ。
「朝飯、できた。どうする」
すでに身支度を調えた上に、エプロンまで着けている。
その姿は昨日共に眠ったとは思えないほど、いつも通りだった。
赤い髪も無造作に結び上げられており、琥珀の瞳でステラを見下ろしている。
「……着替えるから、待っていて」
「わかった」
バーニーが身を引いて扉を閉めたとき、彼からすでに風呂を浴びたように、清潔な石けんの香りがした。
(そういえば前にも、朝にバーニーが風呂を使っている気配がすることが、あった気がする)
ふと頭に引っかかったが、ステラは頭を振って追い払った。
*
騒動から三日が経った。
バーニーへの処分は、罰金だけじゃなかったようだ。冒険者ギルドで懲罰の代わりに、今まで断っていた任務を遂行するために今日も出て行った。
一応毎日帰ってくるものの、行き帰りの送り迎えはできなくなっている。
ステラはいつも通り治療院に出勤していた。
騒動の直後は、翌日には噂を知っていたマリー達やジラルドに心底心配された。
さらにジラルドに応急処置対応を褒められた。
「オンブルさんは、普段からもっと細かい治癒ができると考えていたんだ。よくやった」
そう言われてしまい、ステラはなんとも言えない複雑な気持ちを覚える。
ふだんの治療に手を抜いていることがバレたのかと、ひやりとしたからだ。
けれど、ステラは自分そのままで生きられるわけではない。一生誰かを騙して偽って生きていく。
それが、ステラの罰の一つなのだ。
ステラが勤務を終える頃になると、バルバラがひそひそと話しかけてきた。
「あのさ、さっき外を見たら、例の騎士様が待っているみたいだよ」
反射的に微妙な顔をしてしまうと、バルバラは使命感に駆られた様子できりりと眉をつり上げた。
「やっぱりギルドでの刃傷騒ぎは、ステラちゃんに横恋慕したせいっていう話は本当だったんだね!」
そんな噂に変わっていたのかと、道理で皆がステラに同情的なはずだと理解した。
だが今にも殴り込みに行きそうなバルバラを、ステラは慌てて止めた。
「大丈夫ですっ、自分でなんとかできますからッ」
「だめだよっ。女の子が一人で立ち向かうことはないさ。おばちゃんもついていってあげるから、ね!」
その押しの強さに引きずられる形で、ステラはバルバラと共に裏口へ向かう。
ばんっとバルバラが裏口のドアを開けた先には、鎧を外したヴェルシュが壁に背を預けて待っていた。
腕を組む彼は、気炎を吐くような形相のバルバラにぎょっとしながらも、その後ろから現れたステラに気まずげな顔になる。
そんな様子に気づかないバルバラは、ずずいっとヴェルシュに詰め寄った。
「あんた! もうステラちゃんにはブルクスさんって恋人がいるんだから、付き纏うのはやめな!」
「は、はあっ!?」
「みんな知ってんだよ、ステラちゃんを奪うためにブルクスさんに決闘を挑んで返り討ちになったんだろ。なのにまだ諦め悪く待ち伏せなんかして……! 騎士の風上にも置けないね!」
「い、いや私は……!」
「この治癒院の皆はステラちゃんの味方なんだからっ、私の目の黒いうちは、ステラちゃんに指一本触れさせやしないよ!」
まさかステラに恋をしているなんて風評被害が起きているとは思わなかったのだろう。
ヴェルシュの思考が停止して、どう言い返せば良いかわからず硬直している。
少々面白かったが、ステラとしても不本意だ。
だから、バルバラを宥めるために肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですよ、この方も十分わかっていますから。ただ、ちょっと行き違いあっただけなんです。ね」
言いつつステラが頷け、と圧を掛けると、狼狽えていたヴェルシュは慌てて頷く。
「そ、そうだ」
「あら、そう、なのかい?」
「はい。バルバラさん、ありがとうございます。だからちょっとこの人と話してきます。彼の傷も気になりますし」
ステラが付け足すとバルバラはとても葛藤していたようだが、引き下がった。
「わかったよ。でもちゃんと気をつけなよ。最近外から来た人間が多いってマリーも言っていたから、絡まれないようにね」
ぽんぽんとステラの肩を叩いたバルバラは、最後にヴェルシュを睨んで治療院に戻っていく。
嵐のようなバルバラがひとまず去ってくれたことにほっとしたステラは、呆然とするヴェルシュを見上げる。
「とりあえず、この場を離れるということでいいですか?」
「あ、ああ……」
はっと我に返ったヴェルシュを連れて速やかに移動する。
ヴェルシュとは病院に一度様子を見に行って以来、久々に顔を合わせる。
そもそも彼が早々に王都へ帰らず、この街に残っているのが不思議だった。
人に聞かせられるような話はしないだろう、とステラは路地の一角にある空き地を選んだ。
普段は地元の人間が休憩に利用するため、椅子が置かれている。
人が少なく、声を張り上げさえしなければ、内容を聞かれる心配はない。
「左腕の調子はいかがですか」
まずは無難に容態を気にすべきだろうと、椅子の一つを引き寄せて座ったステラが儀礼的に尋ねる。
立ったままのヴェルシュは無意識に左手首をさすった。
「左手でも剣を握れるくらいには、違和感はない」
言いながらぐっと拳を開いたり握ったりしてみせる。
この程度のことに嘘をつくとは思わないから、ステラはひとまず安心する。
しかし、ヴェルシュの表情はまったく晴れない。
ステラの考えが間違いでなければ、彼のほうが話があるはずなのだが、居心地悪そうに視線をさまよわせるだけで、一向に切り出そうとしなかった。
この無為な時間はなんなのだろうと帰りたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。
少なくとも、彼はバーニーの凶行を自分の胸一つに納め、ただの喧嘩だという茶番を受け入れてくれているからだ。
やがて、ようやく覚悟を決めたのか、ステラのはす向かいにある空き箱の上に腰を下ろした。
「この三日、住民から君にまつわる話を聞いた。……と、言うより恨み言を、な」
「一体なにを聞かされたんですか」
どんなルートで自分の正体がばれるかわからないから、なるべく息を潜めていたというのに。
ステラが慄いているのとは裏腹に、ヴェルシュは複雑な表情をしていた。
「ギルド職員には、街の貴重な治癒師を傷つけるなと言われた。さっきの治療院に来ているご老人達からは、いかにお前が街に貢献してるかを延々語られた。極めつけは、先ほどの事務員のご婦人だな」
ぐったりとした様子のヴェルシュに、本当にかすかにだが同情する。
治療院にくる老人達の話は大変にくどく面倒でねちっこいからだ。
思っていたような密告ではなく、心の底から安心した。
「お前は、普通に街へなじんでいる、の、だな」
「当たり前ですよ。私はかつての生活から脱したんです。そのために修道院に入れられていたのですから。今は謙虚堅実に、善良な一般市民として生きているんです」
丁寧に答えると、ヴェルシュの顔がはっきり歪む。
「私を助けたのも、その一環だとでも言うのか。今さら善人ぶったところで、お前の罪は消えないぞ」
敵愾心を向けてくるが、ギルドの会議室で対峙したときより、ずっと勢いは弱い。
ヴェルシュ自身が、糾弾することを迷っているように。
そんな簡単に和らぐような敵意で大丈夫なのか、とステラはそこはかとなく思った。
だが、自分だって敵愾心を向けられないのだったらそちらのほうがずっと良かった。
なにより、意識が変わることがあるのか、と新鮮な気持ちが沸いてきて、ステラはぱちぱちと瞬く。
その反応が良くなかったのか、ヴェルシュの目が苛立ちに染まる。
「なんだ、文句があるなら言ってみろ」
言いたいことは、ある。ずっと聞いてみたかったことが。
ステラがアヴァリスの悪魔だと知っていて、理性的に接してくれた人ははじめてだった。
それもあるのだろうか。いつもなら堪える言葉を口にした。




