11.毛づくろい③
デザートのりんごと紅茶(どちらもバーニーお手製だ)を味わいつつ、ステラはお気に入りの一人掛けソファに身を預けて日課の新聞を広げた。
今日も殺人事件とつつがなく政治が行われていることが書かれていたり、騎士団のインタビューが載っていたりする。その隅に、剣闘場の試合結果が載っていて心臓が痛くなる。
ステラは新聞から顔を上げて部屋の隅にいるバーニーを見た。
そう、彼は家にステラがいれば、寝るとき以外は必ずステラが視界に入る場所にいる。
かろうじて椅子に座っているが、なにをするでもなくただ置物のようにそこにいるのだ。
椅子は座れと懇願して与えたものだ。
目立つはずの赤髪に、図体がでかい男のくせに恐ろしく静かなため、ともすれば忘れ去ってしまいそうだが、いるものはいる。
はじめは、ステラが悪さをしないかなど見張っているのかと思っていたのだが、その割にはそういった牽制の威圧は感じない。
飽きるだろうとステラは放置していたが、一週間以上続けばさすがに気になった。
「そのう……好きにして、いいのよ? あなたが部屋に戻ったって私は別になにもしないわ」
なにせステラは、目立たず、迷惑を掛けない、慎ましい小市民を目指している。
過去の過ちは二度と繰り返さないのだ。
「私が休みのときも家にずっといるでしょう。気詰まりにならない?」
たいていの人間は一人、あるいは友人などと出かけて気晴らしに行くのだろう。
冒険者達は様々な娯楽に興じると聞く。この一週間、仕事中以外でバーニーがステラから離れるそぶりを見せたことはない。
するとバーニーはゆっくりと瞬いた。
「ご主人は寂しくないか」
その不遜とも言える物言いの意味が、ステラは理解できなかった。
なぜバーニーの話をしているのに、ステラが寂しい話になるのだろうか。
「たくさんの人間は嫌いだが、一人も嫌っていただろう。だからご主人は俺を隣に置いていて、俺がいないと寝ていなかった」
「っ!」
ステラはかあっと頬が赤くなる。バレているとは思わなかった。
人の気配がうるさいと落ち着けないくせに、一人でいるのも恐怖に駆られる。
特に夜はだめだ。中身はどうであれ銀の髪に青の瞳を持つ儚げな美少女だったステラは、悪い大人の欲望の対象になった。
昼は物陰に連れ込まれ、夜に部屋にまで侵入され、逃げ回ることもあった。
マシに眠れることを知ったのは、教会に入ってからだ。
それまで誰かに侵入されたときに気づけないかもしれないから、ステラは安眠できた試しはない。
(なのに、バーニーが来てから、眠れてしまってる)
悔しいが、認めるしかなかった。
眠れぬ夜を過ごしていたのは、初日だけだ。そのあとは、布団に横たわるとすこんと意識を失い朝が来る。
その理由は明白だ。幼少期のステラが安心して眠れていたのは、バーニーがステラの側で眠るのが習慣化していたせいだ。
彼が真っ先に気づくという安心感で、彼がいる間だけは、安らかに眠れていたことを、体が思い出してしまったのだろう。
バーニーには部屋が違うから気づいてはいないと思っていたのに。
睡眠だけではない。他人に対してもバーニーを防波堤にしていた。連れ歩いていたのも、そうすれば近づいてくる人間が少なかった、というのもある。
(私の部屋にいたことなんて、バーニーにとっては嫌な記憶のはずなのに、なんでこんなに屈託がないんだか)
嫌がっているように見えないのが、ステラは居心地が悪すぎた。
うじうじと考えていると、バーニーはステラをじっと見る。
「ご主人は元気そうだが、同じ部屋でなくて大丈夫か」
そんな気遣うそぶりを見せてきて、ステラは羞恥に真っ赤になる。
「ばっ……! 他人の男女は同じ部屋で眠らないものよ」
「俺は犬だが」
彼が常套句を口にするのを取り合っても、疲れるのはステラのほうだ。
ため息を吐いたステラは、新聞を折りたたむとバーニーのほうへ体を向けた。
一度意識してしまうと、新聞に戻る気にはなれなかった。
サイドテーブルに置いた紅茶を一口飲むと、ほどよい苦みとうまみが口に広がる。
ステラが葛藤しながら買っている安物の茶葉のはずなのに、段違いにおいしい。
お茶くみをしていたのは十年前なのに、以前よりも腕を上げているようだ。
(この十年、バーニーがどんな生活をしていたのか、なにも知らない)
この共同生活の最中にわかったことといえば、以前よりも気配を殺すことがうまくなっていること、冒険者すら圧倒できる実力を得たことくらいだ。
バーニーに異論はないのなら、ステラはこの安眠生活を手放したくはない。
明言するのも嫌で、ステラは話をそらすことにした。
「仮に、そうだとしても、あなたはずっと剣闘士として暮らしていたじゃない。そのときにはなにもしていなかったわけじゃないでしょう」
「そうだな」
「奴隷でも休みは合ったでしょう? 遊んだりしなかったの?」
剣闘場では、勝利を収め続ければ多くの報酬を得て、バーニーのように自分の身分を買い戻せる。
古くは神への供物として勝利を捧げる神聖な儀式だったらしいが、今では完全な娯楽だ。
だから管理も比較的緩く、金さえ払えば奴隷でも様々な便宜をはかってもらえるらしい。
バーニーは自分のことを聞かれると思わなかったのか、戸惑っているようだった。
しかし、素直に答えた。
「闘う日以外は、鍛えていた。剣闘士は人間も魔物も相手だから、戦い方は沢山覚えた。俺はガキだったぶん、飼う金がかかったから、沢山稼げとほかより出場回数が多かった」
墓穴を掘った。ステラはひゅっと血の気が引いた。
この男を生き死にの地獄に放り込んだのは他ならぬ自分だ。
どこに敵が潜んでいるかわからない恐怖がないだけで、試合のたびに死の危険が待ち受けている状況は過酷でしかない。
それが、十年だ。
アヴァリス家の使用人や奴隷だった者達は皆保護されて、まともな場所へと引き取られていったという。しかし、それはあくまで、アヴァリスが解体されたときにいた者のみだ。
バーニーはその前に屋敷から連れ出され、剣闘場に売られた。
つまりステラが連れ出し売ったせいで、地獄に放り込まれたのだ。
「申し訳……、」
反射的にステラの腰が浮き、床に跪こうとするのを止めたのは、大股で近づいてきたバーニーだ。
彼はステラをソファに押し戻すと、自分は床に膝を突く。
その琥珀の瞳は凪いでいて、感情の揺らぎなど一筋も見えない。
「別れた日のご主人には、守る人間が必要だった。だが俺じゃ役に立たなくて、代わりに金が必要だった。仕方がないことだったんだろう。なら俺を売って役に立ったのならそれでいい」
そのあまりに自分を物として扱う発言に、ステラはぞっとする。
自分がそういう風に躾けたとはいえ、十年経っているのだ。
しかも剣闘士でいた時間は、ステラの犬だった時間よりも遙かに長い。
なのに、ステラはあの頃の経験から、バーニーが本気で言っているのがよくわかってしまっていた。
(ここまで、変わらないものなの……!?)
目の前の人間が理解できず戦慄するステラだったが、震える唇を引き結ぶ。
いいや、変わらないわけがない。
なぜならステラは変わったのだ。あの頃の無様で横暴で獣じみた自分を捨てて、悔恨と贖罪を胸に刻んだまっとうな人間に。
今うっすらと微笑むバーニーは、ステラの罪の象徴だ。
だから、自分がゆがめてしまったのなら、責任を持って正さなければいけない。
覚悟を決めたステラは、膝の上で手を握りしめた。
「それはあなたが不当に利用された、ということだわ。悪いことなの。だから私は謝るのよ」
「なぜだ? 今の俺ならご主人の役にもっと立てる。だから好きに使ってくれ。俺はあなたの犬なのだから」
不思議そうにするバーニーを、ステラはまっすぐ見つめて言い聞かせる。
「あなたはただの人間なの。だからあなたの望みは叶えられないわ」
奇しくもかつての修道院で言われ続けた言葉だ。
お菓子じゃないと食べられないと食事を拒否しても、一人で眠れないと喚いたときも、魔力が枯渇して治療の勉強などしたくないと訴えても。
『あなたは、ただの人間です。特別扱いなどここでは誰もしない』
アヴァリスの犬狂い姫ではなく、ただの人間になったのだから、叶えられないのだと。背に、手に、鞭を与えられた。
だから、ステラはもう間違えない。
ステラはもうただの人間だ。だからバーニーも人間にならなければならないのだ。
すると、バーニーはふっと唇の端をゆがめた。
「……あいつらも、そう言ったな」
ぽつりとつぶやくその顔は皮肉げで、ステラがはじめて見た犬とは異なる表情だった。




