第2話 転生先は悪役貴族
部屋の隅に置かれた上品な金色のベルを鳴らすと、数秒もしないうちに、先ほども現れた粟色の髪のメイドが静かに扉を開けて入ってきた。
「お、お、お呼びでございますでしょうか、アライア様……」
俺はベッドから起き上がり、用意されていたガウンを羽織りながら、本題へと入ることにした。
「あぁ。腹が減ったから朝食を頼みたいのと……いくつか質問がある。付き合ってくれるだろうか?」
「は、はぃ……」
まるで叱られた犬のようにしょぼんとした返事だ。
そんな悲しそうな顔をしなくてもいいのにと、俺は小さく溜息をつく。
「まずは自分の名前だ。俺の名前は……?」
「……は?」
メイドが戸惑ったように目を丸くする。当然だ。自分の名前を他人に確認する主人なんて、どこからどう見ても頭を打ったようにしか見えないだろう。だが、今はそんな不審がられている暇はない。
「いいから、答えて」
「ひっ……は、はぃ……アライア様は……アライア・ド・ルミナス。ルミナス侯爵家の嫡男でいらせられますが……」
(アライア・ド・ルミナス……侯爵家か)
「なるほど……? 」
「あ、あの!ア、ア、ア、ア、アライア様……? お、お、お、お身体の具合でも?」
「大丈夫。それより少しは落ち着け」
「は、はぃ……」
「続きだ。ここはどこだ?」
「は、はい。ここはエルトリア帝国の首都――アストライアにあるルミナス侯爵邸でございます」
「……そうか」
窓の外に広がる、近代化が進んだ美しい街並みを改めて眺める。
「あ、あの、もうよろしいでしょうか……?」
「いや、まだまだ付き合ってもらうよ?」
「ひっ……うぅ、はぃぃ……」
* * *
わかったことをまとめよう。
どうやら俺の名前はアライア・ド・ルミナス。エルトリア帝国にある由緒正しきルミナス侯爵家の第一子らしい。侯爵家の当主である父親は帝国の政治において重要なポストにあり、皇帝陛下に直接進言できるような高い立ち位置にいるようだ。「ようだ」というのは、正直その役職名を聞いても当時の俺(日本人)の頭ではピンとこなかったからで、かろうじて理解できたのは「帝国の中枢を構成する大貴族の一員である」ということだけだ。そして母親は公爵家から降嫁してきたらしく、実家はうちよりさらに身分が上だという。
まあ、貴族制度の仕組みなんてライトノベルの知識程度しかない俺にはさっぱり分からないが、要するに「とんでもなくお高いご身分」であることだけは理解できた。どおりで、こんな宮殿の一角のような豪華な部屋に専用のメイドまで控えているわけだと思わず溜息が漏れる。
とはいえ、自分の身分と置かれた環境の概要はつかめた。今はそれで十分だろう。
だが、それ以上に重要な事実が判明した。
「アライア」――どこかで聞き覚えがある気がしていたのはそのせいだ。ルミナス家、そしてエルトリア帝国という固有名詞が出た瞬間、脳内の記憶と噛み合った。
なんでこの名前を聞いたとき、うちの妹が大好きだった『あいつ』のことだと気づかなかったんだと、自分の鈍さに内心で頭を抱えたくなる。転生したばかりで、やはりどこかまだ脳がフリーズしていたのかもしれない。
ちなみにここは、そんな妹が狂ったように愛読していた大人気ライトノベル――『星霜のアルカディア 〜落ちこぼれ貴族が世界を救うまで〜』の世界だ。
そしてアライアとは、世界を救う主人公……ではなく、その引き立て役として用意された典型的な「悪役貴族」その人のことだった。
妹からしつこく聞かされたおかげで、大まかなストーリーは頭に入っている。
エルトリア帝国の下級貴族の四男として生まれた主人公(名前は忘れた)は、過酷な学園生活を経て帝国最強といわんばかりの実力を身につける。そして学園で出会った最強の仲間たち(主に美少女たち)と冒険者になり、旅の途中で人助けをしたり、珍しいグルメや異種族交流を楽しんだり……まあ、よくある「王道冒険譚」だ。
ただ、この小説がなぜそれほど大人気だったかといえば、バトルそのものよりも「架空の異世界を旅しているような旅行記的スローライフ感」がウケていたかららしい。
この世界はそれほど殺伐としておらず、わりと平和だ。エルフや獣人、魔族といった多種族がそれぞれの国を持ち、そこそこ穏やかに暮らしている。どこかの魔王が世界を滅ぼそうと暗躍しているわけでもない。国同士の小競り合いや種族間の軋轢はあっても、物語全体に明確な「絶対悪」が存在するわけではないのだ。
だから、バトル要素はあくまで物語のスパイスでしかなかった。それよりも、細部まで描き込まれた異世界の情景や文化、他種族との交流がメインであり、それが人気の理由だったと妹が熱弁していたのを覚えている。
――ではなぜタイトルが『星霜のアルカディア 〜落ちこぼれ貴族が世界を救うまで〜』なのかと言われれば、ぶっちゃけさっぱり分からない。
話の途中からどう見てもただの異世界旅行記で世界なんて救っていないし、そもそも「星霜(めぐる季節)」ってなんだ。ちなみに、あの熱狂的な妹に聞いたときも「タイトルは勢いと語呂だよ!」とか何とか言って適当にはぐらかされた記憶がある。つまり意味なんてないのだろう。
それはさておき。
俺が転生したこの「アライア」という人物は、その牧歌的な世界において、貴重な「悪役」ポジションに位置していた。簡単に言えば、正義感の強い主人公に突っかかり、陰謀を巡らせては、主人公に返り討ちに遭う「かませ犬」だ。最終的には信頼も家名もすべてを失い、冷たい帝国外へと放り出される運命にある。
……まあ、これらはすべて妹の解説の受け売りだ。最新刊が出るたびに、妹が嬉々として結末までネタバレしてくるものだから、自然と覚えてしまった。おまけに妹に半ば強制で読まされた――結末がわかっているのに読まされる苦痛に耐えて――ものだから、結構な知識はあると思う。
ちなみに、妹がこの小説をここまで熱愛していた最大の理由は他でもない。先も言ったが、彼女はこの「アライア」というキャラクターが大好きだったのだ。
外国人のような色鮮やかな髪や瞳が主流であるこの世界において、アライアはなぜか『黒髪黒目』という非常に珍しい外見をしている。深い夜の帳を思わせる漆黒の髪と、底知れぬ静けさを湛えた黒曜石のような瞳。整いすぎた顔立ちはどこか退廃的で、影のある美しさを纏っている。悪役を思わせる、ミステリアスな気配を漂わせながらも、その危うい色気が熱狂的な支持を集めており、妹曰く「最高に推せる!!」らしい。しかもアライアの愛称が「アヤ」だったということもあり、「お兄ちゃんそっくり!」と大喜びしていたのを鮮明に覚えている。
主人公の名前をすっかり忘れているのは、これのせいだ。妹が日夜『アライア様が〜』と熱弁を振るっていたせいで、肝心の『本来の主人公』に関する記憶が綺麗さっぱり上書きされてしまっている。もっとも、個人的にあの主人公のことは端から好きになれなかった。押し付けがましい正義感を振り回すタイプで、どうにも生理的に受け付けなかったというのもある。
そんな事情はさておき、元日本人である俺にとって『黒髪黒目』の肉体に転生できたのは不幸中の幸いと言える。自分の姿に大きな違和感を覚えずに済むのはありがたい。もっとも、元の世界ではこれほど整った美形ではなかったため、そこだけは盛大なズレを感じるが——まあ、このルックスであれば人生で得をすることはあっても損をすることはまずないだろう。
ちなみに、今の俺の肉体年齢は十三歳らしい。身長は百五十センチくらいだろうか。
原作小説では、主人公たちが学園に入学するのは十五歳からとなっている。つまり、原作のメインストーリーが動き出すまでには、まだ二年の猶予がある。
もちろん、物語のシナリオ通りに動く気などサラサラない。原作通りにいけば、待っているのは悲惨なバッドエンドだけ。自由気ままに生き抜くためなら、未来の筋書きなんて容赦なく叩き潰してやると決めている。
さて、この平和な(しかし面倒なフラグの転がっている)帝国で、あと二年の間にどう動いたものか。
いっそ物語開始の前に帝国を出奔して、原作のイベントに一切関与しない人生を送るのも面白そうだ。その場合、あの主人公やヒロインたちはどうなるのだろうか。少し気にはなるが――まあ、他人の人生の都合まで背負う義理はないだろう。
何にせよ、今後の身の振り方を決めるには、圧倒的に情報が足りない。
思考の海に沈んでいた俺がふと現実に戻ると、目の前には引きつった顔の少女がいた。
「あの……アライア様、いかがなされましたか……?」
貴重な情報源である専属メイドが、子羊のように震えながら見上げてくる。
――丁重に扱おう、とは思っているのだが、なぜそこまで怯えられているのだろうか。
いや、言うまでもないか。かつての「本来のアライア」が、日頃からどれだけ理不尽な振る舞いをしていたかの証明に他ならない。
しかし、こうなると一つ疑問が湧く。もともとのアライアの魂はどこへ行ったのだろうか。
俺は間違いなく水瀬綾であり、この世界でアライアとして過ごした記憶は一片たりとも残っていない。人格が混ざり合ったわけでもなく、肉体をごっそり「乗っ取り(あるいは上書き)」した形なのだろう。
まあ――必死に考えても答えが出るわけでもないし、ここで頭を悩ませるだけ時間の無駄か。
とりあえず言えるのは、過去のアライアは消え去り、いまここにいるのは「俺」だということだ。
「あ、あのー……」
「……なに?」
「ひっ……!」
いや、だからそんなに怯えなくてもよくないか? 何も危害を加えるようなことはしていないはずなのだが、美少女にそこまで露骨にビビられると、流石に男としてのプライドが少し傷つく。
……まあ、考え事の最中に声をかけられたせいで、少し声が低く不機嫌っぽくなったことは認めるが。
とりあえず、まずは自分の「屋敷内での評判」がどれほど最悪なのかを把握する必要がありそうだ。
他人にどう思われようと基本的にはどうでもいい主義だが、身の回りの世話をしてくれる人間との関係があまりにギスギスしていては、今後の生活に支障をきたす。
「……」
「え、えっと……その、わたくしが何か粗相をしてしまいましたでしょうか……?」
メイドが怯えた小動物のような目で、おずおずと問いかけてくる。
俺としては、ただこの子の名前をどうにか思い出そうとしているだけなのだが……。記憶の糸をたぐっても、一向に名前が引っかからない。そもそも原作小説にこんな側付きのメイドなんて登場しただろうか?妹の布教トークがアライア中心だったせいで、主役以外の細かいキャラクター設定まで記憶に残っていなかった。いたとしても、ストーリーにはほとんど絡まない、名前のないような端役だった気がする。
「うーん……」
「ひっ……!」
やっぱり、まずはこの子との信頼関係(というか恐怖心の払拭)を改善するのが先決らしい。
これから何か指示を出すたびに「ひっ」と縮こまれていては、日常生活を送るだけでも一苦労だ。




