第1話 目覚めたら貴族だった
「……ん? あれ?」
温かい朝日が心地よく、まどろみの中から重い瞼を持ち上げると、そこは見知った天井ではない。
「ここはどこだ?」
眠い目をこすりながら体を起こし、あたりを見渡す。
「いや、本当にどこ?」
やはりまったくの見覚えがない。いつもの勝手知ったる狭い六畳間ではなく、どこの王族の宮殿だと言いたくなるほどの豪華絢爛な寝室にいる。
事態がまったく飲み込めず、まだ寝ぼけた頭を必死に回転させようとしたその時――。
「おはようございます、アライア様」
部屋のドアが開き、メイド服を着た女性を先頭に、数人の使用人たちが静かに入ってきた。
(だれ……?)
ああ、なるほど。これはまだ夢の中なのだろうと、ぼおっと彼女たちを眺める。
「あ、あの……本日は特にご予定は入っておりませんが、いかがなされますか? まだお休みになられるようでしたら、料理長に朝食を遅らせるよう申し伝えますが……」
言葉を発しない俺を見て、どうしていいものかと恐る恐るお伺いを立ててくるメイド服姿の女性。年は十五、六といったところか。ふわりと揺れる粟色の長い髪と、温かみのある深いブラウンの瞳には、包み込むような優しさと、どこか落ち着いた上品さが漂っている。
「あ、あの……? アライア様?」
見たこともないような美人だ。思わずその瞳に吸い込まれそうになる。
「あ、ああ……そうしようかな」
かろうじてそれだけを絞り出した。
「か、かしこまりました、アライア様! それでは改めてお目覚めになられましたら、そちらにあるベルを鳴らしていただければすぐに参りますので……!」
どこか安堵した表情で、そのメイドは他の者たちを連れ立っていそいそと部屋から退室していく。
あ……もう少しあの美人さんを見ていたかった。
いや、そんなことを言っている場合ではない。
「アライア様……?」
そもそも誰だ、それは。
とにかく状況を整理しよう。
俺は一旦深呼吸して、まだまだ寝ぼけている頭を叩き起こす。
俺の名前は水瀬綾。どこにでもいる平凡な十八歳の高校三年生。大学受験を控え、日々勉学に励んでいる。家族構成は父と母、そして二つ下の妹。趣味は読書とゲーム。
昨夜は確か日付が変わる頃まで勉強をして、自室のベッドで趣味の小説を読みながら寝たはずだ。いつもであれば妹か母親が「起きなさい」と起こしにくる。
つまり俺は、貴族の若様のような名前の人物ではない。そして、あのメイドは母でも妹でもない。当然だが。
「つまり……? えーっと?」
やっと目が覚めてきた。脳が正常な機能を始めている。
「慌てても意味ないし、まずは現状把握をしよう」
ベッドから体を下ろし、まずは姿を確かめようと部屋の隅にある姿見の前に立つ。
視線の先、ガラスの向こうに映し出されたのは、夜の帳を思わせる漆黒の髪と、底知れぬ静けさを湛えた黒曜石のような瞳だった。整いすぎた顔立ちはどこか退廃的で、影のある美しさを纏っている。
「……誰だこれ?」
他人のような、それでいて妙にしっくりくる己の顔に小さく息を吐き出すと、現実逃避を断ち切るように背筋を伸ばす。少しでもこの世界の情報を得ようと、俺はすぐそばにあった窓へと歩み寄り、そのカーテンを勢いよく開け放った。
「あー……これは、あれか?」
窓の外、目下に広がっていたのは、見知らぬ景色だった。
中世ヨーロッパのようでありながら、どこか近代化が進んだ不思議で美しい街並み。道路は綺麗に整備され、ゴミひとつ落ちていない。車などは走っておらず、時折優雅な馬車が往来している。建物はノスタルジックな雰囲気を漂わせるレンガ作りの古風な洋館ばかりだ。
遠くには、ファンタジーの絵本で見たような立派な城らしき姿も見えている。
そしてなにより印象的なのは、空を行き交う竜……のような巨大な生き物だ。竜の背中には籠のようなものが括り付けられており、人の影がうかがえる。あれはもしや、この世界の移動手段なのだろうか。
この光景を見るだけで、嫌でも理解させられる。
「いわゆる、流行りの異世界転生ってやつか……」
……で、俺は一体誰に?
一旦落ち着こう。
異世界転生。妹が持っていた小説で読んだことがある。趣味は読書であると言う通り、俺はわりと好き嫌いせずに何でも読むタイプだったが、うちの妹の趣味趣向は偏っていた。ファンタジーものが大好きで、その中でもライトノベルをやたらと好んで読んでいたのだ。その流れで貸してもらったこともあり、転生もののテンプレはある程度知っている。
「とりあえず、自分が誰なのか……まずはそこからだな」
俺、水瀬綾はわりとリアリストである。理想主義的な部分がゼロというわけではないが、基本的には現実的で論理的な思考を好むタイプ……のつもりだ。
異世界転生ものの定番であれば、ここでパニックになって叫んだり、泣き喚いたりするのがお約束のリアクションなのだろう。だが、残念ながら俺はそういうタチではない。今ここで取り乱したところで状況が好転するわけでもないと、頭のどこかで冷めた計算が働いてしまう。もし大声を出して元の自室のベッドに戻れるという保証があるならいくらでも叫んでやるが、そんな奇跡が起きないことくらい容易に想像がつく。
こんな異常な状況でなぜここまで冷静でいられるのか、自分でも少し冷めているなとは思う。実際、クラスメートから「スカしている」と陰口を叩かれることもあった。
ただ、先ほども言ったように俺はリアリストだ。意味のないことに時間を使うのが嫌いなだけである。
しかし、これだけは言っておきたい。俺だって血の通った人間で、ただの普通の高校生だ。家族にもう二度と会えないかもしれないと思えば、普通に悲しい。溺愛とまではいかないが、それなりに可愛がっていた妹に会いたい。ここまで育ててくれた両親に顔向けできないのも辛い。バカなことを言って笑い合っていた友人たちの顔も浮かぶ……そういう感情はちゃんと持っている。
ただ、悲しむのは今じゃないってだけの話だ。
そんなことで時間を無駄にしている暇はない。感傷に浸るのは後でもできる。夜になって寂しさに耐えかねて、涙で枕を濡らす日くらい、俺にもあるかもしれない。
「いま分かっているのは、自分の名前が『アライア』ってことくらいか」
うーん、さすがに情報が少なすぎる。どこかで聞いたような響きであるが、ピンとこない。ただの異世界への転生なのか、それとも自分が知らない、あるいは妹が読んでいたどこかの小説やゲームの世界への転生なのかによって、今後の行動指針も大きく変わってくる。
どちらにせよ――。
せっかく神様(かどうかは知らないが)からこういう機会をもらったんだ。好きに生きさせてもらうとしよう。
たとえここが何か面倒な原作のある世界だったとしても、そのシナリオに従う義理はないし、特定のキャラクターを演じる義務もない。それでこの世界の筋書きに綻びが生じたとしても、そんなものは俺の知ったことではない。自分の思うように、自分の好きなように生きる。それが一番だ。
「なにはともあれ、まずは情報収集だな。さっきのメイドさんを呼んで、いろいろと話を聞いてみよう」
この部屋の豪華さや使用人の態度を見る限り、俺はこの世界でそこそこの身分にいるらしい。貴族制度のようなものがあるのかは分からないが、少なくとも個人で屋敷を構え、使用人を雇う程度の家柄ではあるはずだ。そして、さっきの俺に対する怯え混じりの態度から察するに、俺が彼女たちの「主人」であることは間違いないだろう。
起きていきなり「ここはどこですか?」と聞けば不審がられるだろうが、記憶喪失のフリでも何でもすればいい。主人の命令なのだから、彼らには答える義務がある。
俺はそんなことを考えながら、ベッドの脇の小テーブルに置かれていた、上品な金色のベルにそっと手を伸ばした。




