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悪役貴族に転生したけど原作を無視して自由に異世界を往く  作者: 天霧 翔
第二章: 一年の果実と交錯する運命
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第19話 静寂の夜、少女の選択

ルナの白く透き通った手をしっかりと握りしめ、俺たちは帝都の闇夜を歩く。

――もっとも、心持ちとしては決戦に向かう潜入任務なのだが、どうにも足取りが軽くなってしまうのは隣を歩くルナのせいだ。少し大きめの袖口を揺らしながら、俺の歩幅に合わせてトコトコとついてくる姿は、どう見ても緊迫した復讐行というよりは、夜の帝都を巡るお忍びのデートにしか見えない。


「……アヤ?楽しいの……?」


ふと、静寂を割くようにルナがポツリと呟いた。

俺の足取りが軽かったのに気がついだのだろう。


「いや、その……そうだな、すまん。」

「おわったらデート……してあげよっか?」


ボソボソとした、聞き取りづらい小さな声だったが、夜道に響いたその言葉に俺は思わず足を止める。彼女は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せ、わずかに頬を朱に染めていた。


「……じゃあそれも報酬に追加で」


ルナのお誘いを断る術を、俺は持っていなかった。つい反射的に頷いてしまう。


「わかった……いいよ」


彼女は小さく首をかしげ、俺の掌をキュッと握りしめ返してきた。何だこの可愛い生き物はと、可愛すぎて思わず頭を撫で回したくなる衝動を必死に抑えつつ、俺は咳払いを一つして前を向き直った。


うちの愚妹はよく「推しは尊い」とか「尊死」とか意味のわからない事を叫んでいたが、今ならその気持が少しわかる。もしいつかまた会えたら鼻で笑った事を謝ろうと、苦笑する。


「……あそこ?」

「ああ。」


そうこうしているうちに、目的地である大通りに面した『ローウェル大商会』の裏手へと到着する。


グレイス商会と同様の白亜の石造りで作られた重厚な建物。周囲の闇を威圧するかのようにそびえ立ち、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。高級感を漂わせる大きな窓や分厚い真鍮の扉は硬く閉ざされ、まるで人の気配が完全に絶たれた異世界のように不気味なほどの静寂が支配している。遠くで時折聞こえる帝国兵士の警邏の足音すら、この一帯だけは吸い込まれるように消えていくかのようだ。


周囲に人の気配がないことを確認し、俺は懐から小さな魔導具を取り出した。淡い光を放つそれを操作し、あらかじめシズルにお願いして集めさせておいた詳細な偵察情報をルナへと共有する。


「ここがローウェル商会の地下に広がる連中の拠点だな。シズルからの報告によれば、内部の警備は手薄みたいだ。大した手練もいないらしい。シズル曰く『一時間いただければ壊滅させますが』とか言っていた」


さすがうちの影、優秀だ。


「……それなら私でもだいじょうぶ……多分」

「俺もついてるから安心しろ。弱いけど。」

「……ふふ、そうなの?」


俺の軽口に、ルナはくすりと小さく微笑んだ。これから命懸けの戦いへ身を投じようとしている少女とは思えないほど、その横顔は穏やかだった。


だが、そんな彼女の柔らかな笑みのおかげで、張り詰めていた胸の奥の恐怖が嘘のようにスッと霧散していく。偉そうなことを言っている俺自身、これが実戦は初であり、内心では冷や汗が滲むほどに緊張していた。ルナの存在が、不思議と俺のこわばった体をほぐしてくれたのだった。


「それで、ルナ。作戦なんだが――の前にシズル」


違いなく傍にいてくれてるだろうという信頼から、俺はシズルの名前を呟く。


――その瞬間、足元に伸びる影がわずかに波打った。音もなく、まるで水面に落ちる雫が逆再生するかのように、漆黒の闇からシズルがスッと姿を現す。気配の完全な遮断、重力を感じさせない身のこなしは、まさに人目を欺く忍びそのものだ。彼女は微塵の足音も立てず俺たちの数歩後ろに立ち、静かに一礼する。


「はい。ここに。」

「予定通り、俺たちは正面から最短ルートで最奥へ向かう。露払いはすべてシズルに任せる」

「委細承知してます。つまり私がゴミ掃除している間、アライア様は新しく手籠めにした『お姫様』と優雅にデートをされるということですね。さすが悪名に定評のあるアライア様です」

「全然違うからね?」


人聞きの悪いことを言うなと、俺は思わず引き攣った笑いを浮かべた。しかし、シズルの奴はどこか楽しげな瞳を細め、フッと悪戯っぽく微笑んでいる。主従の上下関係というより、保護者にでも見られている気分だ。確かにシズルの年齢は二十歳前後だったはずなので、一応「お姉さん」ではあるが。


そのやり取りを、ルナはこてんと小さく首を傾げながらじっと見つめていた。


「……アヤって、ほんとに侯爵家?」

「そうだぞ」

「ほんとに……?」

「そうだよ。ただ、うちの使用人たちが俺に対して妙に辛辣なだけだよ」


言い訳じみたことを口にしつつも、以前の『アライア』がどれほど周囲から問題視されていたかを思い出し、俺は頭痛を覚える。ルナに変な誤解を吹き込むのは勘弁してほしいものだ。もっとも、これまでの悪名自体は事実なので強く否定もできない。こういう時ばかりは、過去の自分が撒いた種とはいえ、奔放だった愚行の数々に盛大に腹が立ってくる。


ルナは信じられないものを見るような、それでいてどこか面白がるような複雑な視線を俺に向けたあと、くすりと小さく息を漏らした。冷徹な復讐鬼の一面なんてどこへやら、今の彼女は年相応のあどけなさを残した、ただの愛らしい少女に見える。その無邪気な反応に気恥ずかしさを覚えつつ、俺は軽く咳払いをして誤魔化すが、ルナの追求は止まらない。


「あと……悪名ってなに」

「……え? ルミナス家のアライアって、名前くらい聞いたことないのか?」

「……ううん、ないけど……なにかあるの?」

「何もないから、全く気にしなくていいぞ」


ルナは俺の評判なんて知らなかったらしい。それならそれでいい。今更もう昔の「アライア」のことなど、彼女の記憶に引っかからなくても何の問題もない。むしろ引っかからないでくれと切に願うが、それをシズルが容赦なく木っ端微塵に粉砕してくる。


「ルナ・バレンタイン様、お初にお目にかかります。アライア様の従者のシズルと申します。――後ほど、昔のアライア様のロクでもないお話を、詳細にお伝えいたしますね」


しれっと会話に入ってきたシズルが、どこか腹黒い笑みを浮かべながらルナにそう告げた。


「うん……よろしく」

「やめてね?」


冷や汗を流す俺をよそに、ルナは「よろしくお願いします」と律儀に小さく頷き返すのだった。


「それでは私はこれで。アライア様、ごゆるりとデートをお楽しみください」


そう言い残すと、シズルはふわりと身を翻した。

――その瞬間、彼女の姿はまるで陽炎のように揺らぎ、音もなく周囲の闇へと溶けていく。気配を残さぬまま漆黒の夜気に完全に同化し、影から影へと滑り込むような見事な身のこなしだ。気がつけば、そこには誰もいない静寂だけが残されていた。


「はぁ……」


俺は深々と大きな溜息を吐き出す。

まあ、あんな軽口を叩いていったのは、シズルなりの「安心して最奥へ向かっていいですよ」という合図であり、同時に、これから実戦に向かう俺が過剰に気を張っているのを気遣っての事なのだろう。主従の絆の形としては間違いなく信頼の表れなのだが……もう少し言い方や表現を選んでほしいものだ。


「じゃあルナ、いくか」

「……うん」


ルナは小さく頷くと、ふっとあどけなさを消し去り、それまでとは打って変わった不敵で、しかしどこか儚げな笑みを浮かべた。そして、彼女がすっと虚空へ小さな手を伸ばした瞬間――空間の質感がまるで水面に落ちた波紋のように大きく歪んだ。


パチ、と鋭い静電気の音が響く。直後、周囲の闇を切り裂くように奔った禍々しくも美しい紫電の光が収束し、少女の手にひと振りの長大な大鎌が顕現した。


俺はそのあまりに予想外すぎる光景に、思わず言葉を失う。ルナはこんな武器を使うキャラクターではないはずだ。彼女は呪術を使い、敵を混乱させたり、呪いをかけたり、精神に揺さぶりをかけるような間接攻撃職のはずだった。原作小説の描写において、彼女が自ら武器を手に取り、前線に立って戦うようなシーンなど一切なかったのは、記憶の隅々までハッキリと焼き付いている。


――いったいどういうことだ。


「……それは?」


漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。


生み出された武器は、彼女の華奢な体躯には到底似合わないほどに巨大で、鎌の柄は冷たい月光を浴びて黒く鈍い光を放っている。その刃には呪術的な文様が幾重にも刻まれ、触れれば魂まで削ぎ落とされそうなほどに妖しい存在感をあたりに放っていた。


「これ……今日のために練習、してたの……」


ルナは大きな大鎌を地面に支えにすると、恥ずかしそうに長い睫毛を伏せ、人差し指の先で自身の頬をちょんちょんと掻いた。誰かに見せるためのものでも、褒められるためのものでもない。復讐のためにひっそりと研鑽を積んできたのだろう。彼女曰く、呪術と禁術を複雑に織り交ぜることで、この特異な武器を創り出したらしい。


そう語る彼女は、どこか誇らしげに、しかし気恥ずかしそうに胸を張ってみせる。


「そうか……すごいな、ルナ。」


俺は素直な感心を込め、彼女の頭をポンポンと優しく撫でた。

手のひらに伝わる漆黒の髪は驚くほど柔らかく、ルナは目を細めながら、撫でられ慣れた小動物のように心地よさそうに俺の手のひらへとそっと頭を寄せてくる。


――ふと、俺は頭を過った疑問に思いを巡らせる。

もしかしたら、この大鎌は、彼女が本当に復讐を果たすためだけに裏でひそかに磨き上げてきた禁忌の武器だったのかもしれない。原作小説の展開を思い出せば、主人公であるレオンが勝手に突っ走って組織を壊滅させ、すべてをひとりで解決してしまったようなものだ。そのため、ルナがこの武器を振るう機会など本来訪れるはずもなかったのだろう。


それに、どうせあの偽善と腐った正義感を気取った主人公のことだ。「少女がそんな禍々しいものを持つべきではない」などと勝手な理屈を押し付け、彼女の隠された努力や覚悟を全否定したに違いない。そう考えれば、ルナが原作で後方支援の呪術師として描かれていた裏に、こんな凄惨なまでの裏設定が隠されていたとしても何ら不思議ではない。


「……うん」


ルナは嬉しそうに目元を緩め、ふわりと花が咲いたような美しい微笑みを零した。


そして気合を入れ直した俺たちは、そのまま地下倉庫へと続く重々しい隠し扉を、そっと押し開けた。


扉の先には、重厚な石造りの薄暗い階段がどこまでも地下深くへと続いており、冷気とともに澱んだ血の気と陰鬱な魔力の匂いが鼻をつく。俺はわずかに身構え、地下へと長く続く階段を慎重に降りていく。


その後ろでは、自分の身長の何倍もある巨大な大鎌を、華奢な腕でふらふらと必死に抱え込みながら、ルナが懸命についてきていた。時折バランスを崩しそうになりながらも、決して手放そうとしない姿に、思わず振り返って手伝おうかと言いそうになるが、彼女の瞳の決意を見てぐっと飲み込む。


やがて階段を降りきり、地下深くの回廊へと足を踏み入れた――だが、その緊張感は良い意味で裏切られることになる。


通路の先を進むにつれて聞こえてきたのは、地下通路にふさわしい静寂ではなく、あちこちから響き渡る怒号と派手な破壊音だった。先行したシズルが組織の人間たちを存分に撹乱してくれているおかげで、連中の連携は完全に総崩れとなり、大混乱の真っ只中に放り出されているらしい。


お陰で俺たちは誰にも気付かれることなく、その混乱の隙を縫うようにして地下回廊を奥へ奥へと進んでいくことができた。冷え切った石壁に囲まれた道を抜け、懸念していたようなトラブルは一切起きず、俺たちはあっさりと最奥の地下倉庫へとたどり着いた。


(さすが、シズルだな)


心の中で彼女の優秀さに感謝しつつ視線を向けたそこにあったのは、禍々しい黒鉄の装飾が施された、ひときわ重々しい大扉――などではなく、どこにでもありそうな普通の木製のドアだった。


まあ、秘密裏に悪事を働く闇の組織の拠点だからこそ、あえて目立たないように偽装しているのは当然の理だろう。シズルからの事前報告でも標的の移動や不穏な動きは確認されていない。あの扉の向こうにいるのは、彼女の人生を狂わせた張本人。


「……ここ」

「ああ。準備はいいか、ルナ?」


俺がそう問いかけると、静かに大鎌を構え直したルナの紫水晶のような瞳に、冷たい怒りと確かな覚悟の炎が宿る。


決着をつける時だ。


――コクリ。

彼女は無言で頷き、自らの手で重い扉を押し開ける。


部屋の中央では、組織の幹部であり、かつて彼女からすべてを奪い去った男が、突然の騒ぎに慌てふためいて書類をかき集めていた。


(証拠隠滅か。……貴族院の指示かね)


そんな冷めた思考を頭の隅で巡らせながら、俺は一歩引いた位置から対峙する二人を静かに眺める。


男の巨体には歴戦の傭兵崩れらしい淀んだ闘気が纏われており、裏社会を生き抜いてきた者特有の狡猾さと、相応の戦闘力を隠し持っていることを窺わせた。


「お前は……! なぜここに……っ!」


男の顔が恐怖と驚愕に歪み、その手からガタリと書類の束がこぼれ落ちる。


ルナは一歩、また一歩と冷たい足音を響かせながら、その男へと歩み寄っていった。少女が引きずる長大な大鎌の刃が石畳を擦り、背筋が凍るような不気味で冷たい金属音を部屋中に響かせる。


「……ようやく、見つけた」


少女の冷徹な声が部屋に響いた瞬間、男は懐から隠し持っていた仕込み剣を抜き放ち、狂乱したように斬りかかってきた。しかし、どれほど歴戦で鍛え上げられた殺意の踏み込みであっても――今の彼には、もう意味がなかった。


先ほどまでは大鎌にふらふらと振り回され、必死に抱え込んでいたはずのルナ――だが、いざ戦闘の気配を纏った彼女の手で、身の丈をも超える長大な大鎌は驚くほど軽やかに、まるで自らの手足の一部であるかのように振るわれた。


暗闇を切り裂くような禍々しい紫電の光が軌跡を描き、男の剣を粉々に打ち砕くと同時に、重い衝撃が彼の粗末な防御ごと肉体を痛烈に抉り飛ばす。


(ルナも凄いが、さすがシズル……)


ルナの戦闘力を疑っていたわけではない。おそらく余計な手出しをしなくとも、この程度の男ならルナが一人で一蹴していただろう。だが、万が一の綻びがあっては取り返しがつかない。そう考えて、俺はあらかじめシズルに裏でのサポートを頼み込んでおいたのだ。「それじゃあ、気付かれない程度の麻痺毒でも仕込んでおきますね」と、あの時シズルが不敵に微笑みながら物騒なことを言っていたのを、俺は今しがた思い出していた。その見えないアシストが効いているのか、男の動きはどこか精彩を欠いていた。


「ぐああっ……!?」


凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、男は部屋の隅の壁へと激しく叩きつけられた。床に崩れ落ちた男が血を吐きながら絶句する中、ルナは冷ややかな瞳を向けたまま、静かに鎌の刃をその喉元へと突きつけるのだった。


(これで、終わりか)


「……っ」


だが、まさに宿敵の息の根を止めようと、男の目前まで迫ったところで、ルナの足がピタリと止まった。


(……どうした?)


不審に思って見つめれば、彼女の細い肩がわずかに震え、長大な大鎌を握りしめる手が小刻みに痙攣しているのに気づく。憎しみの果てにたどり着いたはずの場所で、封じ込めていた恐怖やトラウマが一気に牙を剥いたのか。復讐を遂げたいという想いと、自らの手で命を奪うことへの恐怖の狭間で、彼女の小さな体は耐えきれず激しく揺さぶられているのかもしれない。


「アヤ……やっぱり、無理、かも……」


ルナは敵を目前にして俺の方に振り返り、そう呟く。彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと床に零れ落ちる。


――無理もないか。ルナはどこにでもいる貴族の令嬢なのだから。


「……ルナ」


俺はゆっくりと彼女に歩み寄り、その小さな手から大鎌を受け取るように、そっと手を差し伸べた。


「俺が……殺ってもいいか?」

「…………うん」


ルナは涙に濡れた潤んだ瞳で俺を見上げ、縋るように小さく頷いた。

俺は彼女の乱れた頭をポンと優しく撫でてから、冷えた金属の柄を握るその小さな指を、一つずつ優しく解きほぐしていく。震える彼女の手から大鎌を受け取ると、俺はそのまま、血を吐きながら床這う男へと冷たい視線を移した。


「待て、お前は一体――ぐっ……!」


命乞いの言葉すら許さず、俺は一足飛びに距離を詰め、容赦なくその男を斬り捨てた。鈍い肉の断ち切る音とともに、組織の幹部は崩れ落ち、二度と動かなくなった。


(――人を殺したのは、これが初めてだ)


以前のアライア自身には何か経験があったかもしれないが(今度マリアにでも聞いてみよう)、少なくとも転生した元日本人である俺に、人殺しの経験などあるはずがない。だが、不思議と心は酷く落ち着いていた。激しい興奮もなければ、後悔や恐怖もない。まるで、もっと遠い昔から何度も経験してきたことであるかのように、自分の手はどこまでも冷めていた。なぜなのか、今の俺にはよく分からない。


――だが、そんな雑念を頭の隅に追いやり、俺は深く息を吐き出す。


これで、ようやく因縁の幕引きだ。


「……大丈夫、もう終わった」


振り返ると、ルナはその場に膝をつき、震える自分の両手をぼんやりと見つめていた。俺が静かに歩み寄ると、彼女は急に勢いよく立ち上がり、まるでこれ以上離れたくないと訴えるかのように、俺の服の裾を両手でギュッと強く引き寄せた。引き結ばれた小さな拳が、恐怖と安堵の入り混じった感情を物語るように、小刻みに震えている。


「ありがとう……ごめんなさい、私……」


張り詰めていた糸がプツリと切れたように、ルナはか細い声を震わせ、抑え込んでいた感情をあふれさせる。ぐっと詰まった嗚咽をこらえきれず、彼女はすがりつくように俺の胸元へと顔をうずめた。小さな体が、熱を持った涙でじわりと湿っていくのが分かる。


「よく頑張った。ルナは本当によくやったよ」


俺は彼女の背中にそっと手を回し、怯えた小動物をなだめるように、その銀の髪を優しくゆっくりと撫で続けた。しばらくして、ルナは少しだけ落ち着きを取り戻したのか、名残惜しそうに顔を離し、潤んだ瞳でこちらを見上げた。だが、すぐに自分の手で人の命を奪えなかったことへの自責の念がぶり返したのか、揺れる睫毛の隙間からまた涙をこぼしながら小さな声で呟く。


「でも……でも……」

「気にするな。報酬としてデートしてくれるんだろ?」


彼女の心が重い自責の念に沈み込まないよう、俺はあえて普段通りの軽口を叩いてみせる。そんな俺の意図を感じ取ったのか、ルナは小さく息を呑み、ぽかんと目を見張ったあと、袖口で乱暴に涙を拭い去った。そして、腫らした瞳の奥にわずかに光を宿しながら、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。


「……うん、デート。いっぱいするね?」

「一回でいいぞ?」

「いっぱい……だめ?」

「いや、俺としては大歓迎だが……」


――しかし、これが本当にあの「ルナ」なのか? 原作で描かれていた、あの孤高で氷のようだったクールな麗人は一体どこへ行ったんだ? もしかして、あれはすべて無理をしていただけで、これが彼女の素の姿ということなのだろうか。まあ、ぶっちゃけクールな感じより、こっちのほうが圧倒的に可愛いから大歓迎なのだが。


そんな呑気な呆れと戸惑いを頭の片隅に抱きつつ、俺は小さく息をつく。


「とりあえず疲れたし、もう帰ろうか」

「……うん」


ルナは小さく頷いたものの、俺の服の裾を握りしめた指を緩めようとしない。


もう夜が遅い。周囲にはすっかり夜の帷が降りきっていた。元凶を討ち果たしたとはいえ、こんな危険な場所でルナを一人きりにするわけにもいかない。貴族のご令嬢を男の屋敷に連れ帰るなど外聞的にはどうかとも思ったが、「……私には帰りを待つ家族なんていないから」と潤んだ瞳で上目遣いに言われてしまえば、断る選択肢など最初から持ち合わせていなかった。


結局、屋敷までの帰り道もルナは俺の腕にぴたりと寄り添ったまま離れようとせず、まるで心細い子犬のようになっていた。


そんな、俺の腕から離れようとしないルナをなだめすかすようにして、ようやくたどり着いたルミナス侯爵邸の玄関。扉を開けた瞬間、俺たちの帰りを待っていたマリアが出迎えてくれたが、背後にピタッと張り付くようにくっついたルナの姿を見るなり、その整った顔をポカンと間抜けに緩ませた。


「あ、あの……アヤ様? その、可愛らしいお客人は……?」

「いや、予想外の事がいろいろあってな……詳しくはシズルにでも聞いてくれ。それより悪いがマリア、こいつを剥がしてくれないか」


ガッチリとしがみついているルナを「離れなさい」と優しくなだめて引っぺがしてもらう。ようやく解放された俺は、サロンのソファに倒れ込むようにして、やっと深い一息をつくのだった。


こうして、俺たちの初陣は、少しばかり想定外すぎる結末を迎えたのだった。

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