第20話 侯爵邸は、今日も騒がしい
ルナの復讐を成し遂げてから、すでに数週間の月日が流れていた。
あの忌まわしい因縁の幕引きを終えて以来、ルナ・バレンタインは一向に自らの実家である男爵家へと帰ろうとしない。理由を尋ねれば、彼女は漆黒のショートボブをわずかに揺らし、「どうせ戻ったところで、誰も私を待っていないから……」と、どこか冷めた、しかしどこか甘えるような声音で答えた。
そんな彼女に帰れと言えない俺は悪くない。多分。
結果として、孤高の復讐鬼だったはずのルナは、今やルミナス侯爵家の客室にちゃっかりと居座り、俺の日常へとすっかり溶け込んでしまっていた。
***
心地よい午後の光が差し込む、ルミナス侯爵邸の広大な中庭。
手入れの行き届いた白亜のテラス席には、優雅なティーポットとカップが並び、心地よい初秋の風が吹き抜けている。
俺は長椅子に深く腰掛け、マリアの淹れたての紅茶を口に含みながら、目の前で繰り広げられる平和すぎる光景に小さく息をついていた。
テラスのテーブル席では、ルナが当然の権利と言わんばかりの距離感で俺の隣にぴったりと寄り添い、小さなスプーンで丁寧に砂糖を混ぜている。その表情は、かつての氷のような冷たさのかけらもなく、ふんわりと穏やかな少女のそれに満ちていた。
「アヤ……これ、美味しいよ」
「ん。」
ルナが差し出してきた焼き菓子を一口かじり、俺が相槌を打った、その瞬間だった。
「――アヤ! ルナさん!なにしてるんですか!」
突如としてテラスのアーチをくぐり抜け、トコトコと早足で石畳を叩く足音が響いた。そこに現れたのは、小柄な身体に合わせて少しグレイス商会の制服の裾を翻し、特徴的なエルフの長い耳をぴくりと尖らせながら頬をぷくっと膨らませたリリだった。彼女は銀のショートボブを怒りに任せて揺らし、知的で涼やかな青紫色の瞳をキッと細めながら、一生懸命に歩幅を広げてツカツカと歩み寄ってくる。その整った愛らしい顔立ちは不満で朱に染まり、纏う空気が微かに波立っていた。
「こんにちは、リリ。今日はどうした?」
「ごきげんようです!どうしたもこうしたもないですよ、アヤ!勝手にまた新しい女を作ってイチャイチャするのは良くないと思います!」
リリはテーブルの端に両手をドンと突き出し、俺を容赦なく問い詰める。その声には、どこか刺々しい嫉妬の色が混じっている。リリはルナが来てからこの調子だ。うちにルナが住み着いているものだから、リリが仕事……というか遊びにくるたびにこうしてぷりぷりしている。
「リリも事の顛末は聞いただろ……」
「ええ、聞いてますよ!それはもうシズルさんから詳しくたっぷりと!」
そう言うやいなや、リリは小柄な身体をさらに一歩踏み出し、ドンッと石畳を小さく踏み鳴らした。普段の彼女からは想像もつかないほど感情を剥き出しにし、青紫色の瞳を吊り上げる。
「私という婚約者がいながら、いつの間にか可愛いご令嬢を囲い込んで良いゴミ……分(ご身分)なものですね! 私はあなたが新しい女を作るためにあの資料をお渡ししたわけではないのですよ! わかっているのですか!」
リリはぷくっと両頬を膨らませ、不満を一身に背負ったように大きく息を吐き出す。いつもは物静かで柔らかい話し方をする彼女が、ここまで感情を露わにして声を張り上げている姿はとても新鮮だ。
――もっとも、焦りと照れ隠しが混ざり合ったようなその様子は、拗ねた小動物のようでもあり、見ていてどうしようもなく愛らしい。無意識の独占欲を覗かせて嫉妬してくれているのだと分かれば、男としては正直なところ悪い気はしなかった。むしろ、その反応が可愛すぎて、からかいたくなってしまう。
「俺の事を今、『ゴミ』って言わなかったか?酷くない?」
「アヤの方がよっぽど酷いです!ゴミです!」
リリは、カッと顔をさらに朱に染め、小さな拳をギュッと握り締める。
「あとまだ俺の婚約者じゃないよね?」
「早く前向きに検討してください!今すぐ!」
そう言いながらリリは俺へと詰め寄る。小柄な体を精一杯大きく見せようと背伸びをしながら、勢いよく言い放った。
「落ち着け。あの組織を潰せたのはリリのおかげだから。ありがとな。」
息を弾ませてぷりぷりと怒るリリを見かねて、アライアはふっと肩の力を抜き、やれやれといった調子で小さく息をついた。
「っ……わ、わかっているのならいいんです」
ふんっと可愛らしくそっぽを向いて腕を組むその仕草の裏で、彼女の耳の先端が真っ赤に染まっているのは隠しきれていなかった。そんな素直になれない姿を愛おしく思いつつ、俺は隣の空いた……ルナがいない方のスペースを軽く手で示す。
「ここ座るか?」
「……座ります。」
そう呟きながら、小柄な身体を小さく丸めるようにしてちょこんっと上品に収まるリリ。俺の服の裾に彼女の長い耳や肩が触れそうなほどの至近距離に座ると、リリは恥ずかしさを隠すように膝の上で両手をキュッと固く組み、視線を落ち着きなく泳がせるのだった。
そんな一幕をリリやルナと演じていると、背後から音もなく控えていたメイドのマリアが、ふわりと大きな狐の尻尾を優雅に揺らしながら進み出る。彼女はクスクスと上品に口元を隠し、ピンと立った獣の耳を機嫌よさげにピクピクと動かしながら会話に割って入ってきた。
「リリアーナ様、そのへんで勘弁して上げてはいかがでしょう。」
いつも通り辛辣な言葉を投げるのかと思いきや、まさかの助け舟。マリアは尻尾を優雅に揺らしながら、クスリと小さく微笑んだ。その慈愛に満ちたメイドに、俺は「助かった」と肩の力を抜いた――が、次の瞬間、その期待は綺麗に裏切られることになる。
「マリアさん……頭ではわかってるんです。でも、なんかこう……すごくムカつきませんか?」
「はい、お気持ちお察しします。……刺します? いえ、刺しましょう」
「それもいいですね。」
よくないからね?やめようね?
あとマリアは驚異的な速度で手のひらを返して、物騒な提案をするのはよくないと思います。
そして次の瞬間、音もなく揺らめく木陰の影から、まるで最初からそこにいたかのようにスッとシズルが姿を現した。鮮やかな赤いリボンで高く結い上げられた青緑色の長髪を揺らし、鋭く光る琥珀色の瞳にはどこか危険な冷気が宿っている。忍びとしての完璧な気配隠しでいつの間にか背後に回り込んでいたはずの彼女は、しかし、その高度な技術を無駄遣いするかのように、真面目な顔のまま平然とこう言い放った。
「アライア様は私の最愛の妹すら巧みな話術で毒牙にかけたお方です。いますぐに刺しましょう」
「おい、だからやめろって言ってんだろ。あと毒牙にかけてないからな?」
え、シズルはわざわざそんな物騒なことを告げるために、陰から出てきたの? お前の誇る超一流の隠密スキルは、そんな下世話な茶々を入れるために使われるほど安いものだったの……? と、俺は思わずツッコミを入れずにはいられなかった。
そんなシズルは涼しげな笑みを浮かべつつ、マリアから淹れたての紅茶をカップに注いでもらい、ふわりと身を翻した。次の瞬間、周囲の光の反射や木漏れ日に溶け込むように、シズルは気配を完全に断ち、まるで陽炎の如くスッとその場から姿を消し去った。
……もしかして紅茶貰いに来ただけだったの?というかそんなに飲みたいならここで飲めばよくない?
彼女の自由奔放さに頭を抱える。
「……アヤ」
周囲が物騒な俺の暗殺計画(?)で盛り上がっている中、ふと隣に視線を向ければ、ルナはそんな殺伐とした空気とは無縁のマイペースさを全開にしていた。
「どうした?」
ルナはコテンと首を傾げながら俺の袖をキュッと掴み、信頼しきった潤んだ瞳で見上げてくる。
「焼き菓子……いらないの?」
そしてこの子はマイペース過ぎない?自分に関係する話だったというのに、ルナはまるで他人事のように目の前のおやつにしか意識が向いていないらしい。
「……食べていいぞ」
呆れたような溜息を吐きながら、俺は自分の皿に載っていた焼き菓子をルナの小皿へとそっと移してやった。すると、ルナの表情がパッと華やぐ。彼女はきらきらと目を輝かせ、小さく「やった……」と呟くと、さっそく小さなフォークで焼き菓子を一口大に切り分け、美味しそうに頬張った。
「ほら!ほら! すっかり懐かれてますよ! どうするつもりなんですか!」
リリはさらに頬をぷくっと膨らませ、不満げにキュッと腕を組んでそっぽを向く。ルナに焼き菓子を分けてあげただけだというのに、この言われよう。こっちを立てればあっちが立たずとは、まさにこの事だ。
すると一連の騒ぎを聞いてたであろう、テラスの隅のベンチに座っていたサヨが、状況を全く飲み込めず、小首をかしげながらパチパチとまばたきをしていた。
「リリおねえちゃん、なんで怒ってるの?おにいちゃんのこと嫌いになった?」
「あ、え、ち、違いますよ、サヨちゃん! そうじゃなくて、その、なんというか……」
サヨの純粋すぎる天然の問いかけに、リリは顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる。サヨはぽかーんと間抜けな顔をしたまま、「うーん……よくわからないけど、みんなでティーパーティー楽しいね?」と、のんびりとした空気を振り撒いていた。
そして、テラスの片隅の木陰。
そこではルミアが周囲の喧騒など一切気に留める様子もなく、知的な銀縁の眼鏡の奥にある涼しげなエメラルドグリーンの瞳を細め、膝の上に乗せた分厚い魔導書に視線を落としていた。鮮やかな緋色のセミロングヘアをサイドで上品にまとめながら、ページをめくる指を止めることはない。リリの怒鳴り声も、シズルの物騒な茶々も、彼女にとってはただの聞き流すべき環境音――遠くの雑踏と同じでしかなかった。完全に興味の圏外、世界から切り離されたかのように、ただマイペースに魔導の世界へ没頭し続けているのだった。
ルミアは周囲の喧騒などどこ吹く風とばかりに、完全に我関せずの姿勢を貫いている。まあ、そういう意味ではあの子が一番手がかからなくて助かる……と言いたいところだが、ひとたび魔導関連の話し合いともなればリリ達に負けず劣らず熱心にまくし立ててくるため、油断ならない相手ではあるのだが。
「……はぁ」
やれやれ、と俺は深く、そしてどこか満たされたような長い溜息を吐き出した。
辛辣な言葉を浴びせてくるマリア、嫉妬に燃えるリリ、マイペースにお菓子をねだるルナ、読書の世界へ引きこもるルミア。騒がしくて、賑やかで、全く休まる暇がない――けれど、不思議と心地よい温もりに満ちた、悪くない日常だ。
俺はカップに残った紅茶を飲み干しながら、目の前で繰り広げられる新しい日常の光景を、そっと見守る事にした。
でもみんないい加減ちゃんと家には帰ってね?




