第17話 危うい儚さと、復讐の炎
「――挨拶が遅れたな、ルナ嬢。少し話をしないか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、彼女の纏う空気がピリッと鋭く張り詰めた。
ぱさりと、漆黒のショートボブの髪が揺れる。ルナは手元にあった古文書からわずかに視線を上げ、俺の顔と、その目の前に置かれた羊皮紙とを交互に凝視した。
その紫水晶の瞳には、警戒の色が深く宿っている。彼女はゆっくりと椅子にもたれかかり、警戒を崩さぬまま、冷ややかな声音で問い返してきた。
「……見慣れない顔ですね。それに、『ルナ嬢』と声をかけるということは、私がただの一般人ではなくバレンタイン男爵家の人間だと知っている。さらに、その羊皮紙に書かれている内容……」
ルナは細い指先で自身の顎を軽く押さえ、頭を高速で回転させているような仕草を見せた。わずかに細められた瞳の奥で、目の前の男が何者で、どこから情報を得たのかを値踏みしている。年若い令嬢とは思えないほどの、鋭利な観察眼だった。
「いったい、あなたは何者ですか。ここは一般の人間が立ち入れる場所ではありません。それとも、私に何の用があってこのような場所まで足を運んだのですか」
敵意こそ露わにしていないものの、いつでも自衛の術に移行できるようにか、彼女の右手がそっと机の端に置かれた魔導具に近づく。
ルナが頼るその『呪術』は、一般的な魔法のような整った体系とは異なる。それは禁忌とされる古文書や、正規の魔術体系から外れた独学の秘術――因果や精神を歪める異端の技術であり、一歩間違えば使用者自身をも蝕む危険を孕んだものだった。だが彼女に迷いはない。復讐を完遂するためなら、己の身がどうなろうと構わないという覚悟がそこにはあった。もともと古文書の解読が趣味だった彼女にとって、こうした禁忌の技術を紐解くことは、皮肉にも復讐への最短にして唯一の道だったのだ。
「いきなりすまない。俺はアライア・ド・ルミナス――ルミナス侯爵家の人間だ」
まあ警戒はされて当然だろう。ここは帝都の地下書庫の奥底、他人に踏み込まれたくない彼女だけの聖域だ。俺はあえて彼女を刺激しないように両手を軽く広げ、敵意がないことを示しながら、穏やかな表情を崩さずに名乗る。
「――ルミナス侯爵家……?」
その名を聞いた瞬間、ルナの表情が微かに揺らいだ。
彼女の瞳が少しだけ見開かれ、ほんの一瞬だけ、完璧に作り上げていた冷徹な仮面に亀裂が入る。
「まさか、侯爵家の嫡男が、こんな薄汚い書庫に何の用ですか。私のような没落しかけた男爵家の娘に、ルミナス侯爵家が関心を寄せる理由など何ひとつないはずですが……」
ルナは警戒を強めつつも、目の前の男が放つ意図と情報の意味を、その冷徹な知性で必死に分析し始めているのだろう。その証拠に、彼女は視線をわずかに右下へと泳がせ、思考の海へと潜り込んでいた。ルナの考えているときの癖である、左手の親指の爪を、もう片方の指でトントンと軽く叩く小さな仕草も見える。
「俺がここに来たのは, 君の目的のためだ、ルナ嬢」
俺は先ほど見せたものとは別の、さらに真新しい羊皮紙――『黄昏の螺旋』(何度でも言うが口に出したくないほどのクソダサ組織)の主要拠点に関する、より精緻で正確な機密情報が記された紙を、指先でそっと彼女の方へ追加して押し滑らせた。
「……っ……これは!」
ルナは警戒しながらも、その紙に書かれた文字へと視線を落とした。一文字、一読するごとに、彼女の呼吸がわずかに止まる。組織の尻尾を掴むための決定的な手掛かり。それが目の前にあるという事実が、彼女の冷静さを少しずつ奪っていっているようだ。
「ありえません。これほどの情報……。帝国の最高機密として闇に葬られているはずの『黄昏の螺旋』の拠点を、なぜあなたが……」
彼女がこれほどの動揺を見せるのも無理はない。この組織の暗躍は単なる犯罪組織の枠にとどまらず、帝国の高官や貴族院の重鎮たちが深く癒着し、その不正や不都合な事実を隠蔽するための盾として組織を利用してきたからだ。国家の中枢そのものが共犯者、あるいは隠れ蓑になっており、その実態に近づく者は例外なく「存在しなかった事件」として闇に葬られてきた。ゆえに、俺のように原作の知識がなければ、その拠点のありかは個人の力で暴けるはずがないのだ。
「……これは本当なの……?」
ルナの唇がわずかに震えた。それは恐怖ではなく、長年押し殺してきた復讐の炎が一気にせり上がってきたときの動揺だった。彼女は机にしがみつくように身を乗り出し、羊皮紙を穴の開くほど見つめる。その整った顔立ちは青白く、しかし瞳の奥には狂おしいほどの熱が宿っていた。
普段の知的で氷のように冷徹な佇まいからは想像もつかないほど、必死に紙にしがみつくその姿はどこか危うく、守ってあげたくなるような痛々しいほどの儚さを纏っている。少し大きめの古びた袖口から覗く華奢な手首や、驚きで見開かれた紫水晶の瞳に大粒の感情が揺らめくさまは、見とれてしまうほどに神秘的で美しかった。
(……っと、見惚れている暇ではないか)
俺は視線をルナから外し、思考の脇に逸れかけた意識を無理やり引き戻した。
「驚いたか? だが、これは紛れもない真実。君が両親を奪われ、その復讐を果たすためにどれほどの時間を費やしているか、俺は知っている」
「……なぜ……?」
ルナは驚きに目をしばたたかせながら、不思議そうに尋ねる。
その整った顔を少しだけ傾げ、どこかあどけなさを残す仕草は、先ほどの冷徹な研究者としての顔とは裏腹に、驚くほど愛らしかった。大粒の涙を湛えた神秘的な紫水晶の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「俺には優秀な諜報がいるからな。君の動向、君の求めるもの、すべて把握している。結論から言えば、君が一人でその組織に挑もうとするのは、無謀な自殺行為だからやめたほうがいい」
図星を突かれたのだろう。ルナの体がわずかにこわばった。彼女は自分の実力が組織に対して圧倒的に不足していることを、誰よりも理解していたはずだ。だからこそ、焦り、誰にも頼れず、この地下書庫の闇にこもって禁術の研究に明け暮れていたのだから。
「……それがどうしたのです。私に同情でも? それとも、私の無謀さを嘲笑する為だけにわざわざ地下書庫まで足を運んだとでもいうのですか」
ルナの声音には、自嘲と、そしてすべてを一人で背負い込んできた者特有の痛々しい意地が混じっていた。だが、その声の微かな震えが、彼女がいかに限界まで追い詰められていたかを雄弁に物語っている。
俺は静かに首を横に振ると、偽りのない率直な言葉で彼女に告げた。
「嘲笑などするものか。俺はむしろ、君のその圧倒的な知性と、折れない意志に敬意を抱いている。だから来たんだ、ルナ嬢」
「……どういうこと?」
「ルナ嬢の持つその卓越した解析能力と知略は素晴らしいものだ。端的に言うと……君がほしい。その代わりと言ってはなんだが――ゴミを叩き潰し、君の両親の仇を討つため、俺が持つすべてをルナ嬢に提供しよう」
俺の言葉にルナの紫水晶の瞳が大きく見開かれた。それは、彼女の人生において誰も差し伸べてくれなかった、最初にして最大の救いの手であり、同時に悪魔の囁きとも言える甘美な提案。
「……っ……あなたと手を組めと……? 初めて会った私に、そこまでする理由がどこにあるというのです」
彼女は必死に冷たい気位を保とうと身構えているが、その言葉の端々には、先ほどまでの絶対的な拒絶の色が薄れていた。張り詰めていた心の防壁が音を立てて揺らいでいる証拠だ。
それを裏付けるように、彼女は細い指先で自身の袖口を痛いほど強く握りしめ、わずかに呼吸を乱している。虚勢を張るように上ずった視線を激しく泳がせながらも、零れ落ちそうなほど見開かれた紫水晶の瞳は、すがるような熱を帯びてこちらから離れなかった。
「俺もまた、その組織がこの世界で幅を利かせているのがどうにも気に食わない人間の一人なんだよ。つまり利害の一致というやつだ。それに――」
俺は少しだけ言葉を切り、彼女のまっすぐな瞳を見据えた。
「――先も言ったが君が欲しい。ルナ嬢はこのまま一人で散らせるには惜しすぎる人間だ。」
その言葉が彼女の胸の内にどう響いたのか。
ルナは息を呑み、わずかに目を伏せた。漆黒のショートボブの隙間から覗く耳のあたりが、うっすらと赤みを帯びているように見えるのは、地下書庫の薄暗いランプの光のせいだけではないだろう。
彼女はしばらくの間、沈黙を守り、机の上の羊皮紙と俺の顔を交互に見つめ続けていた。やがて、彼女は小さく息を吐き出すと、これまでの冷徹な仮面をふっと脱ぎ捨てるかのように、自嘲気味な、だがどこか儚く、守らないと壊れてしまいそうな笑みを浮かべた。
「……ルミナス侯爵家の嫡男ともあろう者が、私のような没落令嬢を口説くのに、少しばかり手段を選ばなさすぎではありませんか?」
「優秀な……いや、ここで言葉を飾るのはルナ嬢に失礼だな。俺は君のような美しく誇り高い女性が、たった一人で潰れていくのを見たくない。それに心惹かれた人間を助けたい、守りたいと思うのは当然だろう」
俺がそう返すと、ルナは小さく肩をすくめ、すっと姿勢を正した。その瞳に宿っていた猜疑心は消え去り、代わりに冷徹なまでの決意と、わずかな信頼の色が灯っている気がした。
彼女は机の上に置かれた羊皮紙を丁寧に折りたたみ、自らの懐へとしまうと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……わ、私にそのような魅力があるとは思えない……それにあなたとは初対面のはずです。なぜですか?」
それは原作小説でルナを知っているからとは言えない。どう説明すべきかと黙っていたら、ルナは俺の沈黙をなにかの回答と受け取ったのか小さく、儚げに微笑む。
「ふふ……不思議な方ですね。わかりました。あなたの提案に乗ります」
ルナは浅く、しかし礼儀正しく頭を下げた。




