第15話 お茶と数式と、悪くない暇つぶし
侯爵邸の一角にあるルミア専用の(専用ではないのだが占拠された)実験室は、今や論理と数式が飛び交う、最高に刺激的な知的遊園地と化していた。
黒板代わりに持ち込まれた巨大な白板には、アヤが地球の物理学や数学をベースに書き殴った数式と、この世界特有の魔導回路の図面が複雑に絡み合って描かれている。
「――なるほど、魔力回路の接続を『並列』から『直列』の手順を踏むことで、詠唱破棄時の出力減衰を相殺する……! なんという発想なのかしら!」
白板の前に張り付くようにして、ルミア・ベルガルドが熱っぽい瞳を輝かせていた。
鮮やかな緋色のセミロングヘアが数式を書き込む慌ただしさで少し乱れているが、本人はそんなこと微塵も気にしていない様子だ。
「ああ。要するに、詠唱という名の『お祈り』で無理やり魔法をねじ曲げるんじゃなくて、数学的な必然性をもって魔力の流路を最適化してやれば、低出力でも高効率な現象操作が可能になるってことだと思う」
俺がそう言ってペンを置くと、ルミアはぐっと拳を握りしめ、感動に震えるような声を漏らした。
「魔法とは、長年『神からの恩恵』あるいは『センスと感覚の領域』だと言われ続けていたわ。けれど、アヤさんの理論は違う。魔法とは――世界を記述するための、もっとも純粋な『言語』であり『科学』なのね……!」
ルミアがここまで熱中するのには理由がある。
彼女は元々、帝都でも稀に見る天才魔導師として知られていたが、彼女の持つ「天才的な直感」は、既存の魔導学の枠組みでは説明できない領域にまで到達していた。そのため、周囲からは「変人」扱いされるか、あるいは単なる「強力な魔力持ち」としてしか見られていなかった。そしてルミア当人も、そんな周囲を「この程度のことも分からない凡人」と切り捨て、相手にしていなかった。お互いに分かり合う気など端からない、どうしようもないすれ違いだった。
しかし、俺が持ち込んだ現代科学の概念――微積分やベクトル解析、そして熱力学の法則を魔導に応用した理論は、彼女の頭の中にあった断片的な感覚のパズルを、見事に一枚の絵として完成させてしまったらしい。
二人が白板の前に張り付いて熱い議論を繰り広げていると、カチャリと静かな音を立てて実験室の扉が開いた。
「――お二人とも、相変わらず熱心ですね」
そこに立っていたのは、完璧な仕立てのメイド服を纏ったマリアだった。頭の上では、ふわりと愛らしい栗色の狐耳が興味津々とばかりにぴくりと動き、その背後ではふさふさとした尻尾が優雅に揺れている。彼女の手には、銀のトレイに載せられたポットと、湯気を立てるカップが乗っている。
「マリアさん!」
ルミアがパッと顔を輝かせて振り返る。
「ちょうど頭が煮詰まっていたところよ。お茶をいただけるかしら?」
「ええ、喜んで。ルミア様、アヤ様、少し休憩になさってください。頭が疲れた状態での作業は、かえって効率が落ちてしまいますから」
マリアは柔らかな微笑みを浮かべながら栗色の尻尾をふぁさりと落ち着かせ、手際よくお茶を淹れて俺たちの手元にカップを置いていく。
その動作には一分の隙もなく、それでいてどこか温かみがある。以前、リリの一件のときにシズルが「マリアさんから一通り使用人としての教育は受けております」と言っていたが、その本家本元であるマリアの洗練された立ち居振る舞いは、いつ見ても見事なものだった。
さすがうちの有能メイドだ。辛辣なことを言うのさえ直れば完璧なんだが……まあ、少しぐらい欠点があったほうが愛嬌があるというものか?
「ありがとう、マリア。助かるよ」
「お気になさらず。……それで、本日はどのような魔導の理について議論を?」
マリアはカップをソーサーに置いたまま、興味深そうに白板の数式に目を向けた。彼女自身は魔導師ではないが、ルミナス家のメイドとして魔法に関する知識もそれなりにある。悪役貴族だった「以前のアライア」から「その耳と尻尾を隠せ」と命じられたのをきっかけに、自ら隠蔽魔法をマスターしたらしいからな。
「ちょうど、『魔法とは一体何なのか』『どうして術者のイメージ通りに現象が発動するのか』という根本原理について話していたところだ」
俺がそう言うと、マリアは静かに頷き、白板の前に一歩歩み寄った。
「魔法の定義、ですか。一般的には、体内の魔力炉から発せられた魔力が、大気中のマナと共鳴し、術者の意志によって形を変える……とされていますが」
「そう。教科書的にはね」
俺は白板の中心を指し示した。
「だが、それじゃあ説明がつかないことがある。例えば、なぜ『炎』のイメージを持つだけで、分子の運動エネルギーが跳ね上がり、プラズマが発生するのか? 人間の脳の思念波ごときに、物理法則をねじ曲げるほどの直接的なエネルギーがあるわけがない」
「……確かに。もし人間の意思にそれほどの物理的エネルギーがあるなら、念じるだけで物質が粉々になるはずよね」
ルミアが顎に手を当てて、真剣な表情で頷く。
「そうだ。だから俺の仮説はこう」
俺はペンを取り、白板に新しい数式を書き殴った。
「人間がやるのは、エネルギーそのものを生み出すことじゃない。『世界の書き換え申請(コマンド入力)』だ。人間の脳や魔力回路は、いわば超高性能な端末にすぎない。そこに『こういう現象を起こしたい』という精密な数式を入力すると、世界という名の巨大な基盤がそれを実行して、結果として魔法が具現化する」
……まあ、ルミアに伝わるよう言葉を選んではみたが、現代の感覚で言えば『ローカルの端末からクラウドサーバーにコードを投げて、プログラムを実行させているだけ』に近い。
「――っ!」
ルミアの息が呑まれる音が聞こえた。
「世界が……基盤……?」
「要するに、魔力とはエネルギーそのものであると同時に、世界を書き換えるための『魔力信号』みたいなものだ。魔力が濃い場所ほど、魔力信号の伝送速度が上がり、低コストで大規模な現象……つまり魔法が通る。逆に、マナが枯渇した場所では、どれだけ精密な数式を組んでも、不発が起きる」
この世界の魔法の本質を、現代のプログラミングやネットワークにたとえて解き明かしていく。しかし、ここまで魔法を理解できたのはルミアのおかげだ。俺にできたのは、ルミアが書き殴った荒削りな魔術式の数値を、厳密な方程式へと落とし込み、多次元的に再配列・整流することくらいだった。だがルミアが丁寧に、ひとつひとつ、魔法式の意味を教えてくれた。この数字が何を表すのか、この方程式はなぜこのように組み立てられているのか――。
今となっては、魔法とは何なのか、なぜ魔法が発動するのかを自分なりの解釈で理解できるようになった。日本にいたころはファンタジー小説を読みながら「魔法ってなんだろう?」と一番不思議に思っていたことだけに、こうして知的好奇心が満たされていくのは非常に満足度が高い。
「……素晴らしいわ……!」
ルミアは両手を合わせ、まるで神聖な儀式に立ち会っているかのような興奮した面持ちで俺を見上げた。
この世界の住人であるルミアにとって「サーバー」や「コード」などという言葉は馴染みがないので説明には苦労したが、ルミアの天才的な直感と、俺が提供する論理的な構造が噛み合うことで、彼女の脳内では瞬時にそれが高次元の魔導理論へと変換されていくらしかった。
「魔力を力任せにぶつけるのではなく、『世界のルールに対する正しいアクセス権』を証明する行為……それが、魔法の正体なのね。だから、古代の魔法文明の遺構にある呪文や魔法陣は、どれも極めて厳密な幾何学模様で構成されているのよ……! 昔の人々は、感覚ではなく、理屈でそれを知っていたんだわ!」
ルミアの目がらんらんと輝き、彼女の中で無数の知識が一本の線で繋がっていくのが見て取れる。彼女の持つ膨大な魔導の知識と、俺の持ち込んだ体系的な科学概念が融合し、この世界の魔法体系を根底から覆すような新しい理論が、今まさに産まれようとしているのかもしれない。
しかし、ルミアは凄い。俺が何気なく使った専門用語すら、すぐに自分のものにして使い始めた。本当に天才なんだな……と改めて実感する。
「アヤさんの理論を聞いていると、自分がこれまでいかに狭い視野で魔法を見ていたかがよく分かるわね。……ねえ、もっと教えて欲しいわ。この『空間跳躍』の座標計算における干渉エラーの回避についても、同じ理屈で解けるのではないかしら?」
「ああ……そこはまだ仮説の段階だな。サンプル数が足りない」
「なら、今から実験するわよ! マリアさん、追加の紅茶と、測定用の魔力結晶石をさらに十個ほど持ってきてちょうだい!」
ルミアが勢いよく立ち上がると、マリアはクスリと上品に笑った。
ちなみに魔力結晶石とは、大気中の魔力が永い年月を経て結晶化したものであり、魔導具の動力源や実験時の安定した魔力供給源として重宝されている。現代日本で言えば、大容量のポータブル電源や、サーバーなどに直結する無停電電源装置(UPS)といったところか。
「かしこまりました、ルミア様。……ですが、お二人とも、あまり熱中しすぎて夜を徹することのないようにお願いしますね。明日はリリアーナ様……グレイス商会からの定期報告もありますし、しっかりとお休みになってください」
「わかったよ、マリアママ。」
母親のようなマリアのその言葉に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「アヤ様の母上になった覚えはありませんが……おっぱいが飲みたいのですか?」
「うん、俺が悪かった」
隙あらば言葉の暴力で俺を刺してくるうちのメイド。やめてね? 横でルミアが心底ドン引きしたような目を向けているからね。せっかく最近、悪役貴族としての悪評を払拭しつつあるというのに、これでは台無しだ。 大体イメージ改善に一番奔走してくれたのは君だよね?
「いまのはマリアの悪質な冗談だからな、ルミア!」
慌てて弁解の声を飛ばす俺に、ルミアはふふんと鼻を鳴らす。
「あら、そんなに必死にならなくても、冗談だって事くらい分かるわよ」
そう言って、どこか面白がるような、からかうような意地悪な笑みを浮かべるのだった。
しかしルミアという規格外の天才を仲間にしてしまったせいで日夜、新しい魔導理論の構築と検証で寝不足になっているのは事実だ。
これはマリアなりの気遣いなのだろう。
「マリア、いつもありがとな。今日はちゃんと寝るよ」
「はい、それを聞いて安心しました。それでは、追加の紅茶の準備をしてまいりますね」
マリアが優雅に一礼して実験室を退出していく。
その背中を見送りながら、俺はふうと息をついた。
いつか待ち受けているはずの原作の波乱は、確かに頭の片隅にある。だが、こうしてルミアと知恵を出し合い、魔導の理を解き明かしていく毎日は、――どこか心地よいものだった。
「ルミア、まだ続きをやるか?」
「もちろんよ!」
実験室に再び、チョークが白板を叩く軽快な音が響き渡る。
――悪くない暇つぶしだ。




