第14話 平穏な日々と、招かれざる虫
ルミアが仲間となってから、数週間の月日が流れた。
彼女は俺が侯爵邸に用意した専用の実験室に籠り、俺が提供した現代の基礎科学や数学の概念をベースにした魔導理論の数々に、文字通り目を輝かせて没頭している。時折、俺の執務室までやってきては、「この方程式の解法における魔力の収束率はどうなっているのか教えなさい!」と鋭い質問を浴びせてくるため、元理系受験生としてのメンツを保つのに必死な毎日だった。
ただ一つ、大きな誤算があった。
世間の目を引かないための隠れ蓑として実験室を用意したつもりが、肝心のルミアがそこに住みついているかのように入り浸ってしまっているのだ。つまり、結果としてルミナス侯爵家に公爵令嬢が入り浸るという、極めて目立つ状況ができあがってしまった。
そうなればもう「二人の婚約話」の噂が流れるのは明白だ。俺とルミアの間にはそういったロマンティックな関係性は本当に一切ないのだが、状況的に言い訳ができないので困っている。ルミアに相談したところ「私は別に気にしませんわ」とのことだったが……俺が気にする。
まあ、何か実害が出ているかというと別に何もないので考える必要もないのかもしれない。ただ、こうなんか喉に刺さった魚の骨のような感覚があるのが嫌だ。
何はともあれ、ルミアを仲間にするという第一段階を順調にクリアし、グレイス商会も順風満帆。俺の頭の中は、残るヒロインたちへのアプローチ方法を模索する日々だった。
――あの厄介な事が起こるまでは。
その日、俺はリリの様子を見るために、帝都の中心街にあるグレイス商会の本館を訪れていた。
表向きはただの高級日用雑貨を扱う商会だが、今やその影響力は帝都の経済の半分を握っていると言っても過言ではない。その巨大な組織のトップに立っているのが、幼い少女の姿をしたリリアーナ――リリだ。
普段、リリは俺の屋敷に頻繁に遊びに来るので(商品の開発の打ち合わせは侯爵家が一番機密保持的に向いている)、俺がこうして商会まで足を運ぶことはほとんどない。だが、たまにはいいかと思い、リリに手土産を持って訪問したら、
「アヤ、来てくれたんですね!」
とエルフ特有の長い耳をピクピクさせながら(嬉しいときは動くらしい)歓迎してくれた。俺はそんな彼女の執務室に案内され、一緒に仕事の合間を過ごしていた。
「アヤ、本日の納品リストの確認ですが……あら?」
執務室の大きなデスクに座り、山のような帳簿を華麗な手際でさばいていたリリが、ふとペンを止めて顔を上げた。
彼女の向かいのソファに腰掛けていた俺も、ちょうど窓の外へと視線を向けていたところだった。
その時、廊下の向こう――商会の応接室あたりから、やけに尊大な男の声が響いてきた。
「だから言っているのだ! このグレイス商会の富と、我が伯爵家の血筋があれば、手を結ぶのが最も合理的だとは思わないか!? 代表であるリリアーナを呼べ! 伯爵の俺が直々に婚約を申し込みに来てやったんだぞ! 不敬ではないか!」
どうやら、どこかの貴族が、職員に対して我が物顔でリリとの面会を要求し、威張り散らしているらしい。
リリは冷ややかな目で天井を仰ぐと、小さく深い溜息を吐いた。
「……アヤ。耳障りな虫が湧いているようですが、どう片付けましょうか? シズルさんに頼んで、二度と帝都を歩けないように川に沈めてもらいますか?」
リリの声には怒りというよりも、仕事の邪魔をされて純粋に不愉快だと言わんばかりの冷徹さが宿っていた。
それに、リリは基本的に塩対応だ。俺にだけは、ありがたいことにもの凄く優しいが、それ以外は誰に対してもこんな感じだ。
「――本当にうるさいですね。耳障りなクズでカスのくせに。少しはゴミだと自覚して静かにできないのでしょうか」
「お口が悪いぞ、リリ」
「……っ……す、すみません。お恥ずかしいところを……」
俺に指摘されて気づいたのか、耳の先まで真っ赤にして俯く。
「気にするな。リリの意外な一面が見れて俺は嬉しい」
「そ、そうですか……? ふふ、ありがとうございます。――それではちょっと、あの愚か者にお帰りいただきますね」
リリはスッと立ち上がり、冷ややかな微笑みを浮かべて部屋の扉に手をかけた。
まあ、リリは帝国随一の商会であるグレイス商会の絶対的な頭脳。政治的な利害や、貴族のめんどくさい権力争いなど、彼女にかかれば手の上の踊り子を見るようなものだろう。こんな小物貴族の相手など、彼女自身の知性と話術だけで、笑顔を貼り付けたまま完膚なきまでに論破し、お帰りいただくことなど容易いことに違いない。
だが――。
「……待て、リリ」
俺は思わず、ソファから立ち上がって、リリの制服の裾をグイと引っ張った。
「……ん? なんですか、アヤ?」
リリは不思議そうに振り返り、知的で涼やかな青紫色の瞳をパチパチと瞬かせた。
「いや、その……何と言うかだな」
リリがアレを撃退できるだけの知性と実力があるのは分かっている。そう頭では分かっている。ここで俺がしゃしゃり出る必要などないことも。
だが俺の胸の奥で、どうしようもないモヤモヤとした感情が渦巻いていた。
転生してから一年。いろいろな事があった。リリはその中心で、誰よりも頼もしく、時には可愛らしく俺を支えてくれている。そんな彼女が、よくわからない男にベタベタと絡まれている姿を想像するだけで、腹の底からドス黒い感情が湧き上がってくる。
これは「正義感」からではなく、純粋な独占欲と、――端的に言えば「嫉妬」から来る黒い衝動だ。
「……俺の可愛いリリに、どこの馬の骨とも知らん男が近づくのが気に入らない」
「……は?」
リリがぽかんと口を開けた。いつもは鋭い商才と冷静な判断力で帝都を渡り歩く彼女が、珍しく完全にフリーズしている。
「ア、アヤ? 今なんと……?」
「いいから、座ってろ。……こういう貴族相手の揉め事は俺の仕事だ」
俺はバキバキと首を鳴らしながら、執務室の扉に歩み寄った。
これは理屈じゃない。リリが自分で何とかできるのは分かっている。それでも、下心のあるあの男がリリに近づくのはどうも許せない。
コンコン、と上品に扉を叩く音すら省き、俺は応接室の扉を盛大に押し開けた。
「――失礼。何やら耳障りな声が聞こえたのでね。少し静かにしてもらえないか」
冷ややかな低音を響かせながら部屋に足を踏み入れると、そこには派手な刺繍の入ったオーダーメイドのコートを纏い、尊大な態度を浮かべた見知らぬ若貴族がいた。
男は、突然現れた俺を見るなり、不愉快そうに眉をひそめた。
「なんだ貴様は? 私はグレイス商会の代表であるリリアーナ嬢に、我が家の将来をかけた大切な提案をしにきているのだ。商会の関係者風情が割って入るな!」
「そういう貴殿こそ……少しは貴族の顔を覚えたほうがいいのではないか?」
俺は鼻で笑いながら、男との距離を詰める。
その後ろでは、少し遅れて部屋に入ってきたリリが、呆れたような、しかしどこか面白がるような複雑な表情で俺の背中を見つめていた。
「なんだと!」
「黙れ。貴殿は伯爵家だろう。ルミナス侯爵家である俺への不敬ととるぞ」
「なっ……!」
さらに俺は懐から、シズルが調べてくれた帝都貴族の負債リストのメモを取り出し、男の目の前にひらりと見せた。
「貴殿の家は……結構な状況のようだな。我がルミナス家が……グレイス商会にも協力してもらおうかな……本気を出せば、貴殿の伯爵家など、帝都の経済界から綺麗に消し去ることは造作もないぞ? ……それを、リリアーナに対して『将来をかけた提案』だと? どの口がそれを言っている?」
静かな、しかし殺気を含んだ俺の言葉に、男の顔からスッと血の気が引いていく。
「……お前は、ルミナス家の……っ!?」
「そうだが?」
「く、くそ! うるさい! ここまできて引き下がれるか!」
そう言って男は腰に帯刀している剣に手を伸ばす。
「忠告だ。剣に手をかけるのは……やめておけ。それを抜いたらお前は本当にただの犯罪者だ。今ならまだ穏便に済ませてやれるが」
それに剣を抜いた瞬間、どこかに控えている(多分天井裏)シズルがまたたく間にに息の根を止めるだろうからな。まあ、こいつ一人死んだところでどうでもいいんだが、くだらないことにシズルという貴重な手札は使いたくない。
「く、くそ……おぼえてろ! 俺はあきらめないからな!」
男は、震える足で後ずさりし、負け犬の遠吠えのような捨て台詞を残し、青ざめた顔のまま逃げるように部屋から転がり出ていった。
――バタンと、重厚な扉が閉まり、応接室の中に静寂が戻った。
俺はふぅと小さく息を吐き出し、乱れた髪を整えながら振り返った。
そこには、腕を組んだまま、じっとこちらを見つめるリリが立っていた。その頬は、なぜかほんのりと朱色に染まっている。
「……です……か」
リリは、少し照れくさそうに、しかしどこか嬉しそうな、複雑な笑みを浮かべて俺に近づいてきた。
「自分で追い払う予定でしたのに、どうしてですか?」
「……勘違いするな。グレイス商会の最高責任者が変な虫に絡まれて、万が一にも仕事に支障が出たら困るからだ」
精一杯の強がりを言ってみたが、リリには全てお見通しのようだった。
彼女はふふっと小さく笑うと、俺の前に歩み寄り、背伸びをしてポンと俺の肩を軽く叩いた。
「ふふ……『俺の可愛いリリ』なんですよね?」
「知らん。……戻るぞ、仕事が溜まってるんだろ」
「あら、耳まで真っ赤ですよ、アヤ?」
「……だからうるさいぞ」
俺が気まずそうに顔を逸らすと、リリは満足そうに微笑みながら、小悪魔のような笑みを浮かべてこう言った。
「そうですね。でも――たまには、こうして守られるのも悪くありませんね。それで、『俺の可愛いリリ』とはいつ婚約してくれるんですか?」
その言葉に、俺は心の中で盛大な溜息を吐くしかなかった。
この子には勝てないなと負けを認めるしかないようだ。
「前向きに検討する」
「ふふ……期待してますね」
そのうち完璧に外堀を埋められて逃げられなくされそうだ。したたかなリリならやりかねない。でもそれならそれで悪くないかなと思ってしまっている俺がいる。
原作の物語が動き出す前の、ほんのひとときの平穏。その日常の中で、俺とリリの関係は、ただのビジネスパートナーから少しずつ、しかし確実に別の形へと変わり始めている気がした。




