第11話 穏やかでちょっと厄介な日常
「おにいちゃん、ご本よんでください!」
そう言いながら、シズルの妹であるサヨがヨイショとお膝にちょこんと座ってくる。
年齢は八歳程度。見上げる瞳は澄んだ青色が美しく、少しハーフアップに結われた黒髪には可愛らしい小さなリボンの髪留めが飾られている。おまけに頬をうっすらと染めたあどけない顔立ちは、見ているだけで心が和むほどの愛らしさだ。初めの頃は組織に囚われていたせいで痩せ細り、影のように怯えていたが、今ではすっかり健康的なふっくらとした頬を取り戻している。
(……可愛いな)
思わず顔が緩みそうになるのを必死にこらえつつ、俺は手元に持っていた分厚い資料から視線を落とし、サヨの頭を優しくポンポンと撫でてやった。
シズルはあれからわずか数時間で単身アジトを壊滅させ、無事に妹を連れ戻してきた。その後、約束通り、俺が「保護」という名目でルミナス家に迎え入れたというわけだ。
屋敷の専属料理人に頼んで栄養のある美味しいご飯を毎日のように与え、ふかふかで温かい専用の寝床を用意した。それから数日たった今では、すっかり元気になって屋敷の中を元気に駆け回るまでになっている。
保護すると言ったからには責任があるし、なにぶん最初は怯えていたからな。少し気に掛けていたら、いつの間にかすっかり懐かれてしまった。
だが、そんな微笑ましい光景を、うちの他の女性陣は決して温かい目では見ていない……というか非常に不興を買っている。
「……もし手を出したら……分かっていますよね?」
背後から、凍てつくような殺気の籠もった声が飛んでくる。
振り返れば、そこに立っていたのは愛する妹を取られたと言わんばかりの険しい顔をしたシズル。
出さんわ。殺気出しながら睨むの本当にやめてくれ、怖いから。
「私という幼気な少女に手を出しておきながら……いいご身分ですね……ぐすっ」
わざとらしくハンカチの端を目元にあてがい、嘘泣きを演じるのはリリ。
何言ってるんだお前は。どこが幼気な少女だ、中身は百歳超えのくせに何を言っている。あとリリにはまだ一切手は出してないからな?
「おや、アヤ様のご趣味はそちらの方向だったのですね。人間の欲望とは恐ろしいものです……勉強になります」
そして、トドメとばかりに冷ややかな視線を送ってくるのは俺の優秀なメイド、マリア。お前は一体何をメモしているんだ。
(って言うか、こいつら毎日毎日ひどくない? 全員、俺の味方だよね……?)
はぁ……と、俺は思いつく限りの盛大な溜息を吐き出した。
まあ、彼女たちの性格がとてつもなく尖っているのは、もう諦めるしかないだろう。「人選を完全に間違えたのでは……?」と頭を抱えたくなる瞬間は何度もあるが、全員それぞれの分野での仕事はきっちりこなすし、何より非常に優秀だ。だから文句を言おうにも言えない。ただ俺に対して、もう少しだけ敬意と優しさを見せてほしいものだと切実に思う。
気を取り直して、現状の整理でもするとしよう。
ここ数ヶ月、色々と意欲的に動いたおかげで、足元の地盤は驚くほど順調に整ってきた。
まず、周囲との関係改善については、ある程度達成できたと言っていいだろう。マリアとの主従関係をはじめ、屋敷の家人たちからの評価はすっかり上々だ。かつては「無能の屑」「ルミナス家の厄災」などと陰口を叩かれていたが、屋敷の外の人間たちの評価も今では変わりつつあるらしい。
まあ、これに関してはマリアの影のサポートのおかげと言える。そして、リリの存在も大きい。グレイス商会経由で、それとなく俺の評判を改善するような世論工作や、商売を通じたイメージアップを図ってくれているらしいのだ。
次に、財産の形成についてだが、これもリリの圧倒的な商才のおかげで非常に順調に推移している。俺が提供した現代日本のアイデアや技術の断片を、リリが無事に洗練された商品としてカタチにしてくれた。
もちろん、高度な魔導具など、開発にまだまだ時間がかかるものも存在する。だが、比較的すぐに形にできる簡単な日用品――例えば、毎日の生活を劇的に変える質の高いシャンプーや、衣類用の洗剤、その他諸々の雑貨などは、すでにグレイス商会が帝都全域で大々的に売りに出しており、その売れ行きもすこぶる好調とのことだ。おかげで、俺の懐事情は嘘のように潤っている。
そして、最後の懸念材料だった戦闘面での不安だが、これはシズルが加わったことで完全に解消された。
さすがは原作小説において「最強の一角」と恐れられただけのことはある。俺が欲しがる情報は大体なんでも手に入れてきてくれるし、普段はどこに隠れているのかさっぱりわからないが、いざという時はいつでも影に控えて護衛してくれている。
もっとも、他人に頼りきりになるつもりはない。俺自身の戦闘力についても、あれから毎日の地道な訓練を欠かさず続けてきたおかげで、初期に比べれば多少はましになっていた。魔法の基礎と最低限の剣術を叩き込み、いざという時にシズルが助けに入るまでの「ほんの一瞬」の時間稼ぎくらいなら、どうにか防げる程度にはなっている。そこに重点を置いて徹底的に身体を鍛え上げた結果だ。
最後に、彼女たちとの関係性についてだが……まあ、先ほども言った通り、日常的に浴びせられる辛辣な言葉や冷たい視線を除けば、総合的にはかなり良好だと言えるだろう。
なんだかんだ言いながらも、彼女たちは全員俺のことを認め、それぞれのやり方で支えてくれている。
振り返ってみれば、彼女たちは全員、原作のメインストーリーには直接登場しない、あるいはほとんど関わらない、いわば「シナリオの枠外にいる者たち」に近い存在ばかりだ。だが、だからこそいい。原作のシナリオに縛られず、自分の意志でこの世界を生き抜くという意味では、これ以上ないほど最高の人選だったと言える。
さて。
足場が固まり、経済力もつき、護衛も万全となった今、ここからどう動くべきか。
一応、今のところの異世界転生生活は順風満帆と言って差し支えないだろう。
だが、のんびり浸っていられる時間はそう長くはない。原作のメインストーリーが本格的に開始されるまでは、あと二年ほどしか残されていないのだから。
「このまま現状維持でいいのか、というのが今の最大の悩みどころだな……」
サヨの小さな頭を撫でながら、俺は心の中で小さく呟いた。
このままのペースでいけば、リリとの商売はますます軌道に乗り、莫大な資産を築き上げることができるだろう。そしてマリアに美味しい紅茶を淹れてもらいながら、シズルに影から守られ、サヨを可愛がる穏やかな日常――そんな生活も悪くはない。
だが、原作の波が押し寄せたとき、その平和がそのまま続くとはかぎらない。主人公たちが暴れ回り、それに巻き込まれる前に、この二年という猶予をただ過ごすのではなく、何か新しい一手、あるいはさらなる備えに手を出すべきではないか。そんな焦燥感のようなものが、胸の隅に燻っている。
(……うちの辛辣な面々に一度相談してみるか)
あいつらは口を開けば皮肉か毒舌しか吐かないが、頼りになる。俺の突拍子もない悩みに対しても、きっと現実的かつ鋭い意見を返してくれるに違いない。
「おにいちゃん、どうかしたの? お顔がこわいよ?」
見上げられたサヨの無垢な瞳にハッとして、俺は慌てて表情を緩め、ふっと笑ってみせた。
「なんでもない。さあ、続きを読もうか」
嵐の前の静けさとも言える平穏な日常の中で、俺は来るべき未来に向けた次の策を、静かに思案し始めたのだった。




