14. 婚約破棄事件勃発
「アニエスおはよう」
「お母様!?」
わたしがダイニングルームに入ると、数か月ぶりにお母様がいた。
椅子に座るお母様は、真っ赤なドレスにたくさんの宝石を身に着けている。相変わらず目がつぶれそうなほどの煌びやかさだ。
(まさかお母様が帰っているなんて)
すっかり油断していたわたしは、普段通り質素なワンピース姿だ。
しかしいつもはそれで怒るお母様が、今日は上機嫌である。わたしに笑みを向けてきた。
「さすが欲しがり妹ね。そんな汚い……素朴というのかしら? とにかくそんな格好をしてまで義姉の婚約者をたぶらかすなんて」
「何の話ですか?」
お母様は、娘であるわたしのことも好きじゃないと知っている。いつも言葉の端々に嫌悪が見て取れるのだから。
「近衛騎士団長との婚約話も彼の気を引く作戦かしら?」
「婚約!?」
「あら、あなた、昨日男に襲われたんでしょう? 近衛騎士団長の婚約者を襲った男の罪は重くなるって噂になってるわよお」
お母様の説明にわたしは溜息をついた。
やっぱりエクトル様のご迷惑になっている。
「お母様、それはわたしを助けるためにエクトル様がついてくださった方便です」
「エクトル、様」
わたしの説明にお母様が唇を嚙みしめる。
「王弟の気まで引くなんてさすがだけど……そう、方便ならいいわ。だってあなたは、アンリ様と結婚してこの伯爵家を継ぐんだから!」
「は……?」
突然何を言い出すんだこの人、と固まっていると、アンリ様がお義姉様を連れてダイニングルームに入ってきた。
「そういうわけだ、ブリジット。俺はお前と婚約破棄をして、アニエスと結婚する!!」
「は????」
アンリ様まで何を言い出すんだ。
ついていけないわたしを置いて、話が進んでいく。
「俺は美しいアニエスに惹かれた! これが真実の愛だって気づいたんだ!!」
「いや、あなたお義姉様に夢中でしたよね!?」
「照れるなアニエス! 俺はお前の誘惑にすっかり負けてしまった。俺は君と結婚する」
「は????」
アンリ様がわたしの肩を引き寄せた。
わたしがいつアンリ様を誘惑したというのか。
お義姉様も何か言ってほしい。そう思って視線を向ければ、お義姉様は俯いて身体を震わせていた。
ざわりと嫌な感触が心臓を撫でていく。
「あら……ブリジット、泣いているの? 残念ね! この伯爵家はアニエスの——はたまたあたしのものになるのよ!」
おほほと高笑いするお母様に、そういうことかと理解した。
(お義姉様を泣かせるなんて……)
わたしはキッとお母様を睨んだ。
「わたしはアンリ様と結婚なんてできない! ううん、する資格もない!」
「な、何を言うの、アニエス……」
「だって、わたしは」
「黙りなさい!!」
「わたしは——」
「養護院がどうなってもいいの!?」
お母様の金切り声に息を呑む。
押し黙ったお母様がにやりと笑った。いまだ震えているお義姉様を見て、わたしは拳を握りしめた。
「わたしはお父様の子どもじゃない。伯爵家の血を継がない子どもなんだから!」
「黙れって言っているでしょう!?」
頬を走る痛みに、連日叩かれているなあと冷静に思う自分がいた。
怖くてお義姉様を見られない。
そう。わたしはお母様と騎士の男との子どもだった。
お母様はセリエール伯爵と愛人関係にありながら、実の父親である騎士とも付き合っていた。しかし騎士は、戦場に行ったきり帰ってこなかった。父の瞳はくしくも伯爵と同じ水色で、母と同じ髪の色を継いだわたしは伯爵の娘と偽られた。
それでも正妻がいる立場のお父様は、わたしたちを隠したため、お母様はわたしを放置した。
幼いながらに労働しているところをあの養護院に拾われ、わたしはあそこで長い時間を過ごした。
お母様がわたしを迎えにきたのは、伯爵家に迎えられると決まったときだ。わたしは拒否したが、伯爵家から養護院に寄付をさせると言うので従った。
しかしお母様がその約束を守ることはなかった。問い詰めればあの養護院を潰すとまで脅された。
本当の娘ではないのに、お母様が伯爵夫人でいるためにわたしは人形のように縛られている。
苦しい中での救いはお義姉様だった。
お義姉様は後妻の娘のわたしを可愛がってくれた。本当の妹じゃないと言えなくて辛かった。わたしはお義姉様が大好きで、お義姉様は初めて甘えられる人だったから。
そんなお義姉様の幸せを、誰よりも願っていた。
アンリ様とは本当にお似合いで、二人の結婚と同時にわたしは消えようと思った。
この家から逃げるには結婚だ。あの養護院を助けられるだけの財力。そしてわたしだけを見て守ってくれる人。実の父のように戦場に行ったっきり帰ってこないような騎士じゃない人がいい。
何よりも、想い合うお義姉様とアンリ様が憧れで、運命の恋を夢見た。
(それなのに……)
こんな裏切りない。
ポタポタと目から涙がこぼれる。泣きたいのはお義姉様のほうなのに。
「その反抗的な態度、ほんと誰に似たのかしら? あの養護院にいたせいかしら」
「まあ、お義母様。こんなところも可愛らしいじゃないですか」
アンリ様の腕の中に引き寄せられ、わたしは彼と比べてしまった。
アンリ様のように細くなく、逞しい腕を。
(こうなったらもう会えないんだろうな)
そのことが一番わたしの胸を抉るようだ。こんなときに自分の気持ちに気づくなんて。
頭が冷えたところで違和感を感じる。お母様とアンリ様がやけに冷静だ。わたしはとっておきの秘密を暴露したはずなのに。
「俺はアニエスじゃないと嫌なんです。問題ないですよね、お義母様?」
ぐっと抱きしめられる腕に力が入る。アンリ様の問いにお母様はにやりと笑った。
「ええ。だってあたしは、あの人の秘密を握っているんだから」




