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第99話 三十年目の告白

 

 朝。


 セルヴィアの総本山に日が昇りつつあった。早起きの修道士たちの足音だけが石畳に響いている。

 ロレンツォに与えられた部屋は、質素だった。


 寝台と机と椅子が一つずつ。窓が小さい。荷物は少なかった。着替えが一組と、小さな革の鞄だけだ。間もなく連行される。それが分かっていたから、持ち物を減らした。


 机の上に、片眼鏡が置いてあった。


 法廷で外したまま、ここまで持ってきていた。


 ロレンツォは窓の外を見ていた。


 セルヴィアの朝焼けは乾いていた。リミニの港から見る空とは違う。乾いていて、高い。どこまでも続く空を、ロレンツォは久しぶりに眺めた。


 いつ以来だろうか、と思った。


 扉が、静かに叩かれた。


 ◇


「失礼いたします」


 マルティーノが入ってきた。


 いつもの穏やかな顔だった。いつもの服だった。三十年間、変わらない執事の顔をしていた。


「間もなく迎えが来るだろう」


「お別れのご挨拶に参りました」


「ああ」


 ロレンツォが椅子に座った。


 マルティーノが椅子に座った。向かい合う形になった。執事が主人と向かい合って座ることは、三十年

でほとんどなかった。特別な朝だ。


「駆け出しの頃のロレンツォ様を思い出していました。」


「供託金の為に金貨を一枚一枚積み上げていた頃」


 マルティーノが続けた。


「眠れない夜が続いていましたね。翌朝の取引の前に、数字を何度も確認されていた。その計算用紙が、

部屋の床に散らばっていた。私が片付けると、また別の計算用紙が翌朝には床に落ちていた」


 ロレンツォが、窓の外を見た。


「覚えていたか」


「覚えております」


 マルティーノが穏やかに言った。「三十年前のことでも」


 ロレンツォが小さく笑った。


「政敵のアレッサンドロが仕掛けてきた時も——お前がいたな」


「はい。あの夜は長かった」


「夜通し、書類を作成した」


「ロレンツォ様が書類を作り、私が写しを取りました。夜明けまでかかりました」


「あの一件で、アレッサンドロは失脚した」


「はい」


 しばらく、沈黙が続いた。


 ◇


「お話しなければならないことがあります」


 マルティーノが言った。


「何だ?」


 マルティーノは黙って、襟元を外すと、そこには紫の入れ墨があり、セルヴィアの天秤が刻まれていた。


 感情を見せないロレンツォの表情が固まった。


「いつからだ?」


 ロレンツォが問う。


「ずっと、でございます」


「ずっと」


「はい。私がロレンツォ様のもとに参った日から」


 ロレンツォが、机の上の片眼鏡を見た。手は伸ばさなかった。


「最初から——スパイだったのか」


「はい。法王様のご命令で参りました」


 一息、置いた。


「それは——本当のことです」


「しかし」


 マルティーノが続けた。穏やかな、いつもの声で。


「三十年間、お仕えしたことも——本当のことです」


 ロレンツォが、長い間、黙っていた。


「お前は——俺を裏切っていた」


「はい」


「三十年間」


「はい」


「それでも」


 ロレンツォが言葉をつないだ。


「三十年間——仕えてくれた」


 マルティーノが、静かに頷いた。


「ありがとう」


 ロレンツォが言った。


 誰かにそう言ったのが、いつ以来か。思い出せなかった。もしかすると、初めてだったかもしれない。


「こちらこそ——ありがとうございました」


 マルティーノの目が、わずかに動いた。三十年間、この男の横に立ち続けてきた男の目が、今朝初めて、少しだけ揺れた。


「もったいないお言葉です」


 声が、いつもより低かった。


「勿体なくはない」


 ロレンツォが言った。「お前は——よく働いた。それは事実だ」


 二人は、しばらくそのまま座っていた。


 やがてマルティーノが立ち上がった。


「神は、正しき者を守られます」


 静かに言った。祈りのような一言だった。


 ロレンツォが、小さく笑った。何度目かの笑いだった。計算のない笑いが、こんなに続いたことは、今までなかったかもしれない。


 ロレンツォが、机の上の片眼鏡を見た。


「——では、行くとするか」


 立ち上がった。


 片眼鏡は、机の上に残されていた。


 マルティーノが扉を開けた。


 ロレンツォが部屋を出た。


 マルティーノは扉の前に立ったまま、その背中を見ていた。


 ◇


 ナディールたちがエアル王都に戻ったのは、三日後の夕暮れだった。


 城門をくぐった時、西の空が赤く染まっていた。馬車の窓から、アルヴィンは王都の街並みを眺めた。変わっていない。蒸留所の煙が、夕空に細く上っている。銀行の灯りが、もう点いていた。製紙工場の方から、かすかに音が響いた。


 帰って来た。


 馬車が止まった。


 城の中庭に、皆が集まっていた。


 フェルディナントが眼鏡を光らせて立っていた。エルネストが大きな手を前で組んでいた。ルカが小さな体で、少し背伸びをするように見ていた。カッシオがやれやれという顔をしていた。マルタが、静かに立っていた。


 リーナが馬車を降りると、マルタが一歩前に出た。


「……お疲れ様でした」


 声が、澄んでいた。


 リーナが目を細めた。「マルタこそ」


「私は何もしていません」


「ここを守ってくれていたじゃないですか」


 マルタが、少し困った顔をした。それから、小さく頷いた。


 ◇


 エリザベートが中庭の奥から歩いてきた。


 いつもの金色の髪。いつもの青い瞳。手に、細長い木箱を持っていた。


「アルヴィン・フェルトナー殿」


 名を呼んだ。


 アルヴィンが振り返った。王女がこんなにきちんとした顔をしているのを、あまり見たことがない。


「少し、よろしいですか」


「……何ですか」


 エリザベートが、木箱を差し出した。


「お疲れ様の印ですわ」


 受け取った。重くはなかった。蓋を開くと、厚い紙が一枚入っていた。エアル王国の紋章。エドゥアルト国王の署名。そして——貴族の称号の文字が、少し崩れた筆跡で書かれていた。最下位の、しかし確かな爵位だった。


 アルヴィンが、羊皮紙を持ったまま少しの間黙った。


「……アルヴィン・リッター・フェルトナー。詐欺師の名前にしては立派過ぎる」


 小声だった。


「とても似合いますわ」


 エリザベートが、にっこりと笑った。この王女の笑顔の底は、いつまでたっても見えない。


 リーナが隣で「似合いますよ」と言った。弾んだ声だった。


 ナディールが少し離れた場所から、目で「黙って受け取れ」と言っていた。


 アルヴィンが、また証書を見た。それから、封筒にしまった。


「——ありがとうございます。謹んでお受けします」


 素直に言った。珍しいことだった。リーナが少し驚いた顔をした。


 エリザベートが、満足そうに頷いた。「どういたしまして」


 ◇


 中庭に、テーブルが出された。


 ゴールデンフィールドの瓶が、いくつも並んだ。グラスが配られた。夕暮れの光が、琥珀色の液体を照らした。


 ナディールがグラスを持って立った。


 シャドーキャビネットの面々が、その周りに集まった。アルヴィン、リーナ、エルネスト、フェルディナント、ルカ、カッシオ、マルタ、ブラント。それにコンラートとハインリヒ。エリザベートが、すでに大きなグラスを両手で持っていた。


 ナディールが、全員の顔を一度見渡した。


「金色の麦の二階で、最初に乾杯した夜を覚えているか」


 アルヴィンが「覚えている」と言った。


「あの夜はまだ歩き始めたばかりだった」


「今は——」


 ナディールが、中庭を見渡した。夕暮れの空が、広い。


「随分と遠くまできたものだ」


 エルネストが、大きな手でグラスを包むように持った。照れた顔をしていた。カッシオが「えらいことになりましたね」とだけ言った。フェルディナントが眼鏡の奥で目を光らせていた。数えているのかもしれない。ルカが淡々とグラスを持った。手のひらがピカピカだった。


 マルタが、隣のリーナとグラスを持って立っていた。


 コンラートが、少し離れた場所でグラスを持っていた。エリザベートが気づいて、するりと隣に移動した。コンラートが一瞬だけ何かを言いかけて、止めた。


 ハインリヒがそれを遠目に見て、また声を殺して笑った。肩が揺れていた。


「では——」


 ナディールがグラスを上げた。


「何に乾杯する」


「——この国に」


 アルヴィンが言った。


 ナディールが、静かに笑った。


「この国に」


 グラスが上がった。全員のグラスが、夕暮れの空に上がった。


 琥珀色が、光を受けて揺れた。


「この国に」


 声が重なった。揃ってはいなかった。大きい声も小さい声もあった。でも——全員の声だった。


 乾杯の音が、中庭に響いた。


 蒸留所の煙が、夕空に細く上り続けていた。


 麦畑の匂いがした。


 ゴールデンフィールドの香りが、秋の風に乗って広がっていった。


 ◇


 この裁判の半年後——。


 春の訪れと共に自由都市リミニで二百年続いた十人委員会制度が、正式に解体された。

 翌日、議院内閣制発足の布告が出た。新しい政府の原則書には、一文が加えられていた。


「経済は、市民の幸福の下僕である」


 リミニの街に、朝の光が差し込んでいた。

 

 運河が光り、港の船が揺れ、石畳の上を人が歩いていた。二百年、変わらなかった街の朝が、しかし少しだけ違う空気をまとっていた。


 遠い東の小国から始まったうねりは、大陸の西の大国まで届いた。

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