第100話 エピローグ 金色の麦畑を越えて
聖シュタインでは法廷から帰還したハインリヒが父の部屋を訪ねた。
手に、ゴールデンフィールドの瓶を一本持っていた。
カール皇帝は何も言わずにグラスを受け取った。一口、飲んだ。それからハインリヒの報告を、長い時間をかけて聞いた。
全て聞き終わった後、老皇帝は窓の外を見た。
「あの小国は——面白い」
それだけだった。
翌春、正式な退位の布告が出た。即位の礼は静かに行われた。ハインリヒが新皇帝の座についた。
◇
国際法廷から、一年が過ぎた。
エアル王国でカラカス遷都が決まった。
アルカーナムと蒸留所と製紙工場が集まる東の地方に、新しい首都が生まれた。古い王都に残ったエドゥアルト王は、遷都を決めた日の夕方、ナディールを呼んだ。
「——そろそろ、良いだろう」
老王が言った。
ナディールが深く頭を下げた。
エリザベートへの譲位の日、エドゥアルト王は新しい首都には行かなかった。旧王都の窓から、遠い東の空を眺めていた。
◇
自由都市リミニの初代首相には、公職停止期間が明けたアゴスティーノ・フェレーロが就いた。
就任の演説は短かった。
「私は制度に従った。しかし制度が間違っていた。この新しい制度の下で、孫娘に——恥ずかしくない街を残すのが、今の私の仕事です」
それだけだった。
バルトロメオは演説を聞いていなかった。自分の机で、損害賠償の計算をしていた。数字の男らしい、静かな贖罪だった。
◇
アルカディア公国の評議会に、赤いコートが戻った。
「少し——遠回りをしました」
アリアドネ・テミスが議長席に座り、それだけ言った。
評議員全員が頷いた。赤いコートは、ずっと同じ色だった。
◇
フェルディナントは、正式に財務卿に就任した。エアル国立銀行の新しい帳簿制度を国に導入して整備するのには三年かかった。完成した日の夜、一人で帳簿を開き、最初のページから最後のページまで、声を出さずに読み直した。
眼鏡の奥で、目が光っていた。いつもそうだ。理解した瞬間に、この男の目は変わる。
◇
法廷の後、ブラント軍務卿の最初の仕事は、帝国の魔法部隊を送り出すことだった。
聖シュタインでハインリヒが新皇帝になり、カラカスの屯田兵として農業をしていた魔法部隊に帰国命令が届いた。日焼けして、引き締まった顔で馬車に乗り込む彼らを、ブラントはカイゼル髭のまま、直立不動で見送った。
それから、溢れている傭兵を農民に変えていくのに半年かかった。
ハインリヒが即位した翌年、コンラート・フォン・アイゼンは騎士団長を辞した。
エリザベートと結婚し、エアル王国の王配となった。
宴席の余興として剣を振らされることは、もうなかった。
ただし——妻に飲み比べを挑まれることは、これからも続くらしい。コンラートはそれを、黙って受け入れることにした。
後の話だが、二人の子供は両親の天分を引継ぎ、色々な意味で恐れられた。
ブラントは最後の傭兵がいなくなった日の朝、コンラートを訪ね、軍務卿の仕事を委ねた。
◇
ヴォルフ・シュトラウスは後に騎士団長となった。
彼の訓練は苛烈で知られた。「戦場の恐ろしさはこんなものではない」が口癖だったという。言葉は少なく、目が厳しかった。
しかし——新兵が倒れると、必ず自分で水を持っていった。いつも、誰も見ていないところで。
◇
マルタ・フォン・ヴィンターは、故郷に帰った。
軍籍を抜いた。炎の魔法は今、焼き畑と、ガラス工房で使われている。ヴィンター家の誇りだと父が言った力が、麦畑と色つきのガラスになった。
各国からの注文を受けて細工品を作る工房の窓から、秋になると金色の麦が見えた。
◇
ルカ・メッツァーニは、第二醸造所が出来ると、ウィスキーの一般品の熟成は自然に任せると決めた。
彼が老化魔法を使うのは、特別な樽と——たまに頼まれる解体現場だけだ。外見は相変わらず若いままで、現場監督はいつも最初だけ戸惑った。
手のひらは、いつもピカピカだった。
◇
エルネストは銀行を守りながら、困った人の依頼も断れなかった。
それは最後まで変わらなかった。
「人助けですから」
そう言いながら守護魔法をかけ続けた。
何度聞いても、この男の答えは変わらなかった。
◇
カッシオの魔法は、体の弱ったところを正直に教えるため、健康診断に使われるようになった。銀行を辞め病院に勤務し始めた。
ただしその検査は痛みを伴うため、大人にも嫌がられ、子供には鬼、悪魔と呼ばれた。
それでも早期発見の効果は明らかで、彼は真面目に仕事を続けた。
子供たちに悪態をつかれながら「えらいところに就職してしまった」と言い続けた。
◇
カラカスへの遷都が発表された翌朝、クラウス・ホーファーの畑に人が来た。土地を買いたいという。
三年後、クラウスの畑は遷都前の十倍の値がついていた。
地主になった男は、しかし相変わらず自分の畑で鍬を振っていた。「自由な男」というのは、そういう男だった。
◇
エアルに魔法奨学金の基金ができていた。
アルカディアへの留学を斡旋し——卒業しても儲かる魔法を習得できなかった者には、返済を免除する、という。
設立者の名前は、台帳の隅にひっそりと書いてあった。リーナ・ヴァイス・フローラ。染み抜きしかできなかった魔法使いの名前が、そこにあった。
◇
アルヴィン・リッター・フェルトナーは、正式な官職には就かなかった。
今どこにいるか、誰も知らなかった。
世界を股にかけ、あちこちで新しい産業を興していた。
◇
そして、あれから三十年が過ぎた。
◇
王都の外れの路地裏に、「最下層」という自虐的な名の酒場があった。
看板は小さく、扉は古く、しかし灯りはいつも点いていた。
魔法使いたちが集まった。儲かる魔法を習得できなかった者も、魔法を戦以外に使うことにした者も、外見が十五歳のまま解体現場から帰ってきた者も。体の弱ったところを正直に教える男も、困った人を断れない男も。皆、気づけばここに来ていた。
ある夜。
扉が開いた。
老いた男と、老いた女が入ってきた。
男の方は、軽い足取りで、しかし目の奥に悪戯っぽい色が残っていた。女の方は、茶色の髪に白いものが混じり、目は相変わらず穏やかだった。
二人が奥の席に落ち着いた。
グラスが、二つ、運ばれてきた。琥珀色の液体が、揺れた。
老いた女が言った。
「もし先王フリードリヒが呼んでくれなかったら、どうなっていたのでしょう」
老いた男が、グラスを持った。
「さぁ。しかし、——悪くなかった」
カウンターの奥から、声がかかった。
「今夜は何に乾杯する」
二人が振り返った。
カウンターの中に、白いものが混じった髪の男が立っていた。エプロンをして、グラスを磨いていた。とろんとした目が、笑っていた。笑っていても——目の奥は、笑っていなかった。それもいつもと変わらない。
ナディールが、グラスを磨きながら答えを待っていた。
宰相を退いてから、ナディールはこっそり運営していたこの店に立っていた。
「この人生に」
老いたアルヴィンが言った。
グラスが上がった。
三つのグラスが、灯りの下で、静かに鳴った。
◇
それから百年が過ぎた。
エアル王国は世界的なウィスキーの産地として知られるようになっていた。永世中立と近代銀行制度と産業の三本柱が、百年かけて大陸の標準になった。首都カラカスの大通りには、製紙工場の紙と、銀行の建物と、蒸留所の煙突が並んでいた。
エアルの紙幣には、一人の男の肖像が刷られていた。ウィスキーの父、製紙の父、近代金融の父。そう呼ばれた男の顔が国中に流通した。
本人は生前、こう言ったと伝えられている。——信用の象徴に、詐欺師を刷って大丈夫なのか、と。
先王フリードリヒは「間に合わなかった」と書き残した。
しかし彼が呼んだ魂は、百年後の礎を作った。
間に合わなかったのか、間に合ったのか——答えは、大陸の地図の上に、静かに広がっていた。
最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
登場人物たちは、それぞれ良い人生を送れたようで、一安心です。
でも、書き終えてしまうと少し寂しい。この世界にもう少し浸っていたくなったので、百年後を描いてみようと思います。
阿久津蓮が無邪気に近代産業を持ち込んだ世界は、百年後に格差と新たなリスクを抱えています。これを正すのは家事事件専門の弁護士、城山律子。
「転生 x 経済」 の次は、「悪役令嬢 x 法律」
悪役令嬢の幸福論 異世界のリーガルロマンス
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気になる方はこちらもお付き合いいただけると幸いです。




