第98話 判決
セバスティアヌスが立った。
広間がまた静まった。光の筋が、午後の角度に変わっていた。
「各人への量刑を、申し渡します」
書記がペンを構えた。
「まず——ファブリツィオ」
護衛に挟まれた男が、前を向いたまま動かなかった。
「エアル先王への暗殺の実行。これは取り消せない事実です。本法廷は、終身幽閉を命じます」
広間が静かだった。
ファブリツィオは何も言わなかった。表情も変わらなかった。ただ、一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
「オットー」
眼鏡の男が、顔を上げた。
「内通、横領、暗殺への加担。しかし——妻への愛情から始まった経緯、および脅迫による継続という事情を考慮します。本法廷は、流刑を命じます」
オットーが、小さく頷いた。眼鏡の奥の目が、何かを受け入れた顔をしていた。
「アゴスティーノ」
白い顎髭の男が、ゆっくりと顔を上げた。
「贈賄、および聖職者への不正な働きかけ。有罪とします。罰金および公職停止期間を命じます」
アゴスティーノが、頷いた。動じない顔だった。バザールの灰の上に膝をついた男の顔ではなかった。何かを決めた後の、静かな顔だった。
「異議はありますか」
「ありません」
低い声で言った。
「孫娘に——恥ずかしくない街を残すのが、今の私の仕事ですから」
セバスティアヌスが、少しの間アゴスティーノを見た。それから静かに頷いた。
◇
「次に、エアル王国の行動について申し渡します」
ナディールが、机の上で指を揃えた。
「陽動外交、情報戦、および偽りの使節団によるリミニへの潜入と破壊活動。これらは厳密には欺きの行為であります」
広間が静まった。
「しかし——」
セバスティアヌスが、言葉を区切った。
「神の力を借りた染み抜きの魔法は、不正な文書を消し、正当な記録を残した。これは神の摂理が示した裁きであります。その裁きに至るために行われた一連の行動は——正義のための欺きと認めます。本法廷は、神の追認があったものとして、エアルへの政治的な罰則は科しません」
ナディールが、静かに頭を下げた。深く。
傍聴席でアルヴィンが、前を向いたまま一度だけ息を吐いた。
◇
「しかしながら——リーナ・ヴァイス・フローラおよびその一行の行動による損害賠償については別とします」
リーナが、傍聴席で体を固くした。
「リミニへの不法侵入、器物損壊、および腹痛の魔法による傷害。これらの事実について」
リーナの手が、膝の上でそっと握られた。
「有罪とします」
リーナが、小さく肩を落とした。
隣でアルヴィンが「ほら」と言った。「緊張しても変わらないだろ」
リーナが「分かっています」と小声で返した。しょんぼりした声だった。
「罰金を命じます」
セバスティアヌスが、声のトーンを変えた。
「カッシオ・エアル国立銀行警備員については、腹痛の魔法による傷害の治療費を別途支払うこととします」
カッシオが入口近くの壁から、「やっぱりか」という顔で天井を見上げた。
「罰金については——」
セバスティアヌスが、机の上の文書に目を落とした。
「南街道利権の一部をもって相殺することを認めます」
ナディールが、かすかに安堵のため息を漏らした。
「以上が、エアル側への量刑であります」
リーナが「——有罪、でしたね」と小声でアルヴィンに言った。
「そうだな」とアルヴィンが返した。
「やっぱり、しょんぼりします」
「するなって言っただろ」
「だってあんなに頑張ったのに」
「罰金で済んだんだ。十分だろ」
リーナがしばらく黙った。それから小さく「そうですね」と言った。
◇
「次に——国家としての行為について、申し渡します」
セバスティアヌスの声が、また変わった。個人への量刑とは、空気が違う。書記が羽根ペンを持ち直した。
「自由都市リミニによる、聖シュタイン帝国への組織的謀略について」
広間が静まった。
「傭兵の使役、進軍路における食料の焼き討ちおよび買い占め、毒の混入。これにより帝国軍将兵約千名が死亡しました」
コンラートは正面を向いたまま動かなかった。千の名前が、頭の中にあった。
「さらに——現在もなお、帝国内の地方豪族への資金援助および扇動が継続されています。クロッツ伯爵家とマーゲン男爵家の内乱。各地の少数民族への工作。これらはリミニの資金によって意図的に引き起こされ、あるいは長引かされたものであります」
リミニの暫定代表が、机の上で指を固く握った。
「本法廷は、旧十人委員会体制下での行為の責任を暫定政府が引き継ぐものとして、以下を命じます。第一に、聖シュタイン帝国への謝罪声明および損害賠償。第二に——帝国内における一切の工作活動の即時停止。傭兵への資金援助、地方勢力への扇動、諜報活動。この日をもって、全て終わらせること」
広間に、静寂が落ちた。
「この停止を、各国代表が署名をもって保証します」
リミニの暫定代表がゆっくりと立ち上がった。手が震えていた。しかし声は、落ち着いていた。
「——受諾します」
ハインリヒが、目を閉じた。一瞬だけ。それから開いた。各地の反乱を鎮めなければならない——帝都を出る前に言った言葉が、ここで形になった。
「次に——聖シュタイン帝国による、自由都市リミニへの報復攻撃について」
セバスティアヌスの声のトーンは変わらなかった。
「リミニ戦勝バザールにおける魔法部隊の投入。民間人への無差別攻撃。死者、千名以上。これは帝国による組織的犯罪であります。本法廷は、リミニ市民への謝罪声明および賠償を命じます」
ハインリヒが立ち上がった。
「帝国を代表して——受諾します」
静かな声だった。コンラートが、その後方で深く一礼した。
「両国の賠償額については、別途算定の上、相殺を認めます。残余は、双方の被害を受けた市民および遺族のための共同基金とすることを命じます」
書記のペンが走った。
「これにより——連鎖した武力衝突と、その連鎖を意図的に生み出した工作は、ここで断ち切られます」
広間が、長い間、静かだった。
◇
セバスティアヌスが、一度だけ深く息を吸った。
「最後に——」
広間が、完全に静まった。
「ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ」
ロレンツォが、前を向いたまま動かなかった。
「エアル先王への暗殺の教唆。守護魔法使いの子女を人質とした強制使役。国際的な経済詐欺。贈賄。および連鎖した武力衝突への責任」
セバスティアヌスが顔を上げた。
「本法廷は——死刑を命じます」
広間が静まった。
長い沈黙だった。
ロレンツォは動かなかった。片眼鏡を、指先で持ったままだった。表情が変わらなかった。感情が出なかった。
「異議はありますか」
間があった。
「ありません」
穏やかな声だった。いつもの声だった。
片眼鏡を、机の上にそっと置いた。
◇
セバスティアヌスが、机の上で一度だけ手を組んだ。
「ここで——量刑の外に、申し述べたいことがあります」
広間が、引き戻された。閉廷かと思っていた空気が、また張り直された。
「本法廷の準備にあたり、修道士たちはリミニの大金庫において行使された染み抜きの魔法の結果を精査いたしました。消えた文書、消えなかった文書。その全てを記録し、整理した」
書記が羊皮紙を手にして立った。
「その中に——一通、興味深いものがありました」
セバスティアヌスが、広間全体を静かに見渡した。
「リミニ十人委員会、前議長の文書であります」
代表席の何人かが、顔を見合わせた。リミニの暫定代表が、わずかに眉を動かした。
「前議長は、ロレンツォ議長の前の代の議長です。錬金術とアルカーナムを組み合わせた経済計画を立案し、失脚した人物であります」
セバスティアヌスが続けた。
「その計画書が——染み抜きの魔法で、消えませんでした」
広間が、静かにざわめいた。
傍聴席でアルヴィンが、ほんのわずか、姿勢を変えた。前に傾いた。目が、細くなった。
「消えなかった理由は——この計画書が、不正な契約書ではなかったからです。魔法は染みを消します。染みでないものは消えない。この文書は、歪んだ取引の記録ではなく——一人の人間が独力で組み上げた、経済理論の記録でありました」
誰も口を開かなかった。
「本法廷は、この文書がエアル先王フリードリヒ・フォン・エーレンベルクの暗殺と無関係ではないと判断いたしました」
広間が、完全に静まった。
セバスティアヌスが、ロレンツォを見た。
「ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ殿。この計画書について——説明をお願いできますか」
◇
ロレンツォは、少しの間、動かなかった。
片眼鏡を、指先で持っていた。その手が、ほんのわずかに止まった。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
護衛が反応しかけた。しかしロレンツォは逃げる素振りを見せなかった。ただ、証言台の方へ、静かに歩いた。
誰も止めなかった。
証言台に立った。広間を見渡した。代表席、傍聴席、書記、修道士。全員が、この男を見ていた。
ロレンツォが、口を開いた。
「前議長の計画は——アルカーナムを使って金を人工的に大量生成し、事前に実物資産を買い占めることで、インフレ差益を独占しようとするものでした」
静かな声だった。感情がなかった。事実を述べる声だ。
「計画の論理は、筋が通っていた」
代表席のアリアドネが、わずかに眉を持ち上げた。
「しかし——それが成功すれば、リミニの通貨覇権ごと崩壊していた。大陸の経済秩序が瓦解していた。二百年かけて積み上げてきたものが、一人の男の計画で灰になっていた」
一息、置いた。
「だから私は、止めた」
広間が静かだった。
「それは——正しい判断だったと、今も思っています」
セバスティアヌスが、静かに問うた。
「では——エアル先王との関係を、お聞かせください」
ロレンツォが、前を向いたまま答えた。
「フリードリヒ・フォン・エーレンベルクが、アルカーナムを大規模に研究していると知った時。私には——その景色が見えた」
ロレンツォの目が、どこか遠くを見た。
「あの研究が誰かの手に渡れば。あるいは先王自身が使えば。アルカーナムは究極の兵器になりうる。前議長の計画が経済秩序を崩壊させるものなら、アルカーナムの軍事利用は秩序そのものを終わらせる。私にはそう見えた」
「それで——交渉に行ったのですか」
「行きました」
短く言った。
「しかし先王は——何も教えてくれなかった」
広間が静まった。
「研究の目的を、聞きました。答えなかった。私には、隠しているとしか見えなかった」
ロレンツォの指が、机の縁に触れた。
「だから——」
そこで止まった。
言葉が、珍しく出てこなかった。
◇
ナディールが、静かに立ち上がった。
代表席から、一歩前に出た。懐から、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。几帳面な筆跡。先王フリードリヒの手だ。書斎で何度も読んだ、あの字だ。
広間の全員が、ナディールを見た。
「父の研究ノートの、最後のページです」
声が、わずかに揺れた。揺れているが、続いた。
読み上げた。
「『神になってはならない。悪魔になってもならない。人として最善の道を』」
広間が静まった。
ナディールがノートを閉じた。
「父は——あなたと同じものを見ていた」
ロレンツォが、ナディールを見た。
「同じ危険を見て、同じ力を手にしていた。アルカーナムを全て使えば——何でもできた。しかし父は、それをしなかった」
ナディールの声が、静かになった。
「あなたは——説得しようとしましたか」
ロレンツォが黙った。
「相手が正しく理解すれば、動くかもしれないと思いましたか。前議長を。先王を。一度でも——話し合いで変えられるかもしれないと」
答えがなかった。
答えがないこと自体が、答えだった。
セバスティアヌスが、静かに言った。
「先王は力を持ちながら、独りで決めなかった」
広間の誰も動かなかった。
「あなたは力を持ち、独りで決めた。動機の正しさと、手段の独善は——別のことです」
ロレンツォは、長い間、黙っていた。
広間の高窓から、秋の光が斜めに差し込んでいた。床の石畳に、光の筋が走っていた。
黙ったまま、片眼鏡を、証言台の上に、そっと懐にしまった。
護衛が両脇に立った。ロレンツォは抵抗しなかった。歩いた。被告席に戻った。
◇
傍聴席で、アルヴィンは前を向いたままだった。
リーナが小声で聞いた。「……前議長の計画書、アルヴィンさんには理解できましたか」
アルヴィンが、少しの間、黙った。
「分かった」
「何だったんですか」
「俺のいた世界でも、政治家たちがやったことだ」
それだけ言った。
リーナが「うまくいったんですか」と聞いた。
「うまくいかなかった」
アルヴィンが前を向いたまま、静かに言った。
「いつも——うまくいかない」
光の筋が、床をゆっくりと動いていた。
◇
量刑の申し渡しが、全て終わった。
セバスティアヌスが、代表席の面々を見渡した。
「ここで——本法廷のもう一つの議題に移ります」
修道士が立ち上がった。白い羊皮紙を持って、各代表席の前に一枚ずつ置いていった。
「エアル王国の永世中立に関する宣言書であります」
広間に、羊皮紙の置かれる音だけが続いた。
セバスティアヌスが、すぐには「署名を」と言わなかった。
一息、置いた。
「署名をお願いする前に——なぜエアル王国が永世中立でなければならないのか。一言、申し述べます」
誰も口を開かなかった。
「この大陸の地図を思い浮かべてください。北に聖シュタイン帝国。西に自由都市リミニ。南に法王国セルヴィア。東にアルカディア公国。そしてその中央に——エアル王国があります」
セバスティアヌスが、机の上に手を置いた。
「軍の道として。通商の路として。魔法の拠点として。どの国も、この国を必要としている。エアルが特定の陣営に属した瞬間、均衡は崩れます」
一息、置いた。
「そして今日、この法廷が証明したことがあります」
老枢機卿の目が、広間全体を見渡した。
「力は——使い方を誤れば、使った者ごと滅ぼす。この裁判に集まった皆様は、そのことを最もよくご存じのはずです」
誰も反論しなかった。
「エアルを中立に保つことは、エアルを守るためだけではありません。この国を誰のものでもなくすることで——あなた方の国もまた、同じ過ちから守られる」
セバスティアヌスが、静かに座った。
「では——各国代表に、署名をお願いいたします」
◇
ナディールが、手元の羊皮紙を見た。一度だけ、目を閉じた。
先王フリードリヒが残したものを、守り続けてきた。「間に合わなかった」と書き残した父が、何を守ろうとしていたのかを、今、この場で初めて形にする。
羽根ペンを取った。
書いた。
次にアリアドネが見守る中、評議会代表が署名した。
ハインリヒが、コンラートの方を一度だけ見た。コンラートが小さく頷いた。ハインリヒがペンを取った。
「帝国を代表して」
静かに言いながら、署名した。
リミニの暫定代表が最後に書いた。手が少し震えていたが、文字は乱れなかった。
ペンが置かれた。
広間は、静かだった。
セバスティアヌスが、署名の終わった宣言書を手に取った。全員の名前が並んでいた。
「エアル王国の永世中立を——ここに確認します」
傍聴席で、リーナが「……良かった」と小声で言った。目が、光っていた。
アルヴィンは前を向いたまま、何も言わなかった。
ただ、机の下で、膝の上の手が一度だけ、静かに握られた。
◇
セバスティアヌスが立ち上がった。
広間の全員が、老枢機卿を見た。
「ここで——」
セバスティアヌスが、傍聴席の方に目を向けた。一瞬だけ、アルヴィンと視線が合った。
「本法廷を、閉廷する前に——一言、申し述べたいことがあります」
広間が静まった。
「この裁判を通じて、多くの証拠が提出されました。染み抜きの魔法、暗殺帳、黒塗りの手紙。しかし——全ての証拠の中で、最も雄弁だったのは」
老枢機卿が、広間全体を見渡した。
「消えなかったものと、消えたものの、その違いだったと思います」
誰も口を開かなかった。
「神は嘘をつかない。魔法も嘘をつかない。人の心もまた——長くは、嘘をつき続けられない」
セバスティアヌスが、静かに座った。
「では——その他の付帯事項に参りましょう」
書記がペンを構えた。
広間の窓から、秋の光が差し込んでいた。




