第95話 鉄剣聖と遍歴騎士
秋も深まっている。
聖シュタイン帝国の帝都は、朝霧の中にあった。石畳が白く煙り、遠くの塔の輪郭がぼんやりと滲んでいる。馬車の支度をする従者たちの息が、白く空に上っていった。
玉座の間は広い。天井が高く、石の壁に鷹の紋章が彫られている。カール皇帝が肘掛けに手を置いて、ハインリヒを見下ろしていた。
「黙殺しろ」
短い言葉だった。
「セルヴィアが召喚状を出したからどうした、余が出向く道理はない」
「父上」
ハインリヒが静かに言った。
「この裁判は——帝国にとっても、重要なけじめです。各地の反乱を鎮めなくてはならない」
カール皇帝が鼻を鳴らした。七十の老皇帝の声に衰えは感じられない。しかし目の中の炎はいくぶん小さくなっていた。
「お前が行け」
短く言った。それが全てだった。
「コンラートを連れていけ。お前一人では——心もとない」
「……承知しました」
ハインリヒが頭を下げた。壁際のコンラートもそれに合わせて一礼した。
◇
ハインリヒの一行が帝都を出たのは、夜明け前だった。
馬蹄の音が、石畳に低く響く。松明の灯りが揺れる。従者と護衛を加えた一行は、城門をくぐると、そのまま南への街道へと続いていった。
馬車の窓から、ハインリヒが帝都を振り返った。霧の中に塔が浮かんでいる。鷹の旗が、夜明けの風に揺れていた。
「コンラート」
向かいの席に、コンラートが座っていた。背筋が伸びている。馬車が揺れても、姿勢が乱れない。
「はっ」
「父上は——老いたと思うか」
間があった。コンラートが窓の外を見た。
「老いてはおられません」
一拍置いて、続けた。
「ただ、変わられたと思います」
ハインリヒが静かに頷いた。
馬車が街道を走る。霧が晴れ始め、朝の光が野原に差し込んでいく。
エアルを経由してセルヴィアへの道は、長い。
◇
カラカス地方に入ったのは、翌日の昼過ぎだった。
麦の穂が色づいていた。収穫の季節だ。街道の両側に広がる畑が、秋の光を受けて黄金色に輝いている。風が吹くたびに、穂が波のように揺れた。
「止めてくれ」
ハインリヒが御者に声をかけた。
馬車が止まった。
街道沿いの畑の中に、人影があった。大勢いる。農夫の服を着て、鍬を振っている。汗をかきながら、黙々と畝を整えている。その数は二十人を超える。
コンラートが馬車を降りた。一人の男が、こちらに気づいて顔を上げた。
日焼けした顔だった。頬の肉が落ち、顎が引き締まっている。しかしその目に——見覚えがあった。
「マルタ」
コンラートが言った。
女は鍬を持ったまま、まっすぐにコンラートを見た。農夫の服に、土のついた長靴。しかし目の奥に宿る炎は、あの夜と変わらない。
「……コンラート様」
声が澄んでいた。
「元気そうだな」
「はい」
短く答えた。それで十分だった。
周囲の男たちも、口々にハインリヒとコンラートの名を叫んで駆け寄って来た。農夫の服を着ている。日焼けして、引き締まっているが、それは聖シュタイン魔法部隊たちだった。
◇
街道の脇に、大きなテントが張られていた。
中から足音が聞こえた。出てきたのは——立派なカイゼル髭の男だった。
「ハインリヒ殿下」
ブラント軍務卿が頭を下げた。軍務卿の正装ではない。実務用の上着に、革のベルト。しかし背筋だけは、相変わらず軍人のそれだった。
「ブラント卿」ハインリヒが馬車を降りた。「わざわざお出迎えとは」
「ここを通られると聞きまして」
ブラントが答えた。低く落ち着いた声だ。
「カラカスの現状を、直接ご覧いただければと思いました」
「現状、か」
ハインリヒが畑を見渡した。農夫の服を着た男たちが、また作業に戻っていた。鍬が土を割る音が、秋の空気に響く。
「あれが——我が国の魔法部隊か」
「そうです」
ブラントが静かに言った。
「今は屯田兵として、ここで農作業をしております」
「鍬を振っているのか」
「ええ。毎日」
少し間をあけて、
「最初の頃は——腰が入っていませんでした」
ブラントのカイゼル髭の下の口元が、わずかに動いた。
「しかし今は」
一人の男が、畝の端まで一気に鍬を走らせた。土が勢いよく跳ね上がる。隣の男がそれを受けて、均していく。無駄のない動きだった。
「三ヶ月で、ああなりました」
コンラートが黙って、その背中を見ていた。
「皆、逞しくなった」 と呟く。
ブラントが得意そうに言う。
「心身共に最強の魔法部隊になりましたぞ」
◇
エアル王都の城門に着いたのは、夕暮れ前だった。
石造りの門がゆっくりと開いていく。門の向こうに、人影があった。金色の髪が、秋の光を受けてきらめいている。
エリザベートが、満面の笑みで待ち構えていた。
「ハインリヒ皇太子殿下、コンラート殿——ようこそいらっしゃいました」
軽やかに礼をした。その横に、ナディールが立っている。
「各国の皆様がまたこうして集まれるなんて——本当に良かったですわ」
エリザベートが言った。屈託のない笑顔で。
周囲が、一瞬固まった。
ナディールが静かに言った。「……王女殿下」
「はい」
「今回は、国際法廷へ出席するためです」
「あら」
エリザベートが首を傾けた。少し考える顔をした。
「そうでしたわね」
ハインリヒ皇太子が、声を殺して笑った。肩が小さく揺れている。コンラートだけが、どこを見て良いやら分からない顔をしていた。
マックスが、コンラートに向かって尻尾を振りながら突進してきた。
◇
夕食の席は、穏やかだった。
エアル王宮の食堂に、ハインリヒとコンラート、ナディール、アルヴィンとリーナが集まった。明日の朝、セルヴィアへ向けて出発する。エアル王都はリミニとセルヴィアへの分岐点にあたる。各国の代表団が順に南下し、セルヴィアの総本山で落ち合う手はずになっていた。
「明日は何時の出発ですか」
エリザベートが聞いた。
「夜明けとともに」ナディールが答えた。
「道中の安全を考えれば、早い方が良い」
「では、今夜は早めに休みませんと」
王女が立ち上がった。マックスが後を追う。
「王女殿下」
ナディールが声をかけた。
「マックスを廊下には出さないように。今夜は見慣れない客が多い。吠えます」
「大丈夫ですわ。マックスは賢いから」
ナディールが額に手を当てた。アルヴィンが小さく笑った。
◇
地下牢は静かだった。
採光窓からの月明かりが、石畳の上に細い四角を作っている。壁から水がにじんでいた。石の間から細い染みが走り、足元が黒く濡れている。
ファブリツィオは、その四角い光をじっと見ていた。
足首は動く。三週間かけて、完全に治した。毎朝、格子の前を行ったり来たりして足を回復させた。
チャンスは、今夜しかなかった。
明日の朝、一行はセルヴィアへ向けて出発する。自分も護送される。国際法廷の場に引き出され、証言台に立たされ、判決を受ける。剣士として死ぬ機会は、永遠に失われる。
それだけは、拒否する。
口に手を入れた。奥歯を取り外す。武器を取り上げられても、これだけは残った。その歯を割ると、小さな棘が現れた。
立ち上がった。
◇
見張りが倒れたのは、日付が変わった頃だった。
小さな棘で首を掻くと、見張りは音もなく崩れた。廊下の石畳に、鈍い音が響いた。
もう一人が駆け寄った瞬間——背後から腕が回った。首に棘が細い傷を引く。
ファブリツィオは倒れた見張りを静かに横たえた。慌てない。音を立てない。見張りの腰から鍵を抜き、格子を開けた。
廊下を進む。階段を上る。松明の灯りを避けながら、壁際を移動する。
角を曲がったところで、巡回の兵士と鉢合わせた。
一瞬の間。
その一瞬で、決着がついた。
兵士の剣を抜いて、柄で顎を打った。男が崩れるより早く、抱え込んで壁に寄せた。音を殺した。剣を自分の帯に差した。懐のナイフを確かめた。
あとは——人質が必要だ
◇
夜の廊下は暗かった。
壁のランプが、三つに一つしか灯っていない。ファブリツィオは笑みを浮かべた。暗い方が都合がいい。
王女の部屋は、二階の東側だとリミニのスパイから聞いていた。情報は正確だった。扉の前に見張りが一人いた。
ファブリツィオが廊下の端で立ち止まった。
その時。
何かが吠えた。
低く、しかし大きな犬の声だ。
扉が開いた。
◇
エリザベートは、マックスの様子が気になって廊下に出た。
いつもなら物音に吠えても、すぐに収まる。しかし今夜は違った。低く、断続的に、吠え続けている。何かがいる。そう言っている。
廊下に出た。月明かりが窓から斜めに差し込んでいた。
男が立っていた。
見たことのない顔だった。険しい顔、囚人の服。ナイフを持ち、腰に剣を差している。
エリザベートは動かなかった。
マックスが低く唸った。しかしファブリツィオは犬を見なかった。王女だけを、まっすぐ見ていた。
「声を上げれば——」
男が言いかけた。
「上げませんわ」
エリザベートが静かに言った。
ファブリツィオが一歩踏み出した。ナイフを前に出しながら、もう片方の手が腰の剣の柄に触れた。人質として連れていく。それで夜明けまで持ちこたえれば——
廊下の奥で、扉が開いた。
◇
コンラートは部屋着だった。
寝る時でも剣を帯びる習慣は、長い遠征で身についたものだ。寝巻きの上から革のベルトを締め、剣を差している。我ながら妙な格好だとは思うが、仕方がない。
マックスの声で目が覚めた。
廊下に出た瞬間、状況を把握した。
ファブリツィオ。完全に復活している。エリザベート王女を前に、剣の柄に手をかけている。
コンラートは静かに、しかし素早く近寄った。
ファブリツィオが気配を察して振り返った。目が合う。
「鉄剣聖?」
低い声だった。
剣を抜くために腰を落とした。居合の構えだ。抜き打ちの一閃——それで仕留めるつもりだった。相手が抜くより早く。相手がこの男でなければ、それで終わっていた。
コンラートの手が動いた。
剣は抜かなかった。
鞘ごと腰から引いた。その鍔で——ファブリツィオの剣の鍔を、上から押さえた。
一瞬の出来事だった。
剣が抜けない。鍔と鍔が噛み合い、抜き打ちの力が殺されている。踏み込もうとしたが、重心が崩れた。体が流れない。
コンラートの手が、ファブリツィオの手首を内側から返した。剣が、音を立てて廊下に落ちた。
そのまま壁に押さえつけた。一切の無駄がなかった。ファブリツィオが抵抗しようとしたが、体勢が作れない。
「……鉄剣聖が、抜かないのか」
ファブリツィオが低く言った。
「お前は剣を抜くに値しない」
コンラートが静かに答えた。
廊下の床に、剣が転がっている。コンラートの剣は、鞘に収まったままだった。
見張りが駆けつけてくる音が聞こえた。松明の灯りが、廊下に近づいてくる。
ファブリツィオは動かなかった。壁に押さえられたまま、天井を見ていた。採光窓からの月明かりが、石畳の上に四角い光を作っていた。
それはあの地下牢と、同じ光だった。
◇
コンラートが振り返った。
エリザベートが廊下の中ほどに立っていた。マックスが、王女の足元で低く唸り続けている。
「怪我はないか?」
「ございません」
王女は平然としていた。動揺した様子が、微塵もない。
コンラートが少し考えてから聞いた。
「なぜ逃げなかったのですか」
エリザベートが首を傾けた。しばらく考える顔をした。
「走ったら——追いかけてきそうで」
コンラートが言葉に詰まった。
見張りたちが到着した。ファブリツィオを引き渡した。バタバタと廊下が騒がしくなる。ナディールが寝巻きの上に外套を羽織って飛び出してきた。アルヴィンがその後ろで、眠そうな顔をしながら壁に背を預けて腕を組んでいた。
騒ぎが収まっていく。
コンラートは廊下に残った剣を拾い上げた。兵士から奪ったものだ。鞘に収め、後で返すつもりで脇に抱えた。
自分の剣はまだ、鞘に収まったままだった。
◇
翌朝。夜明けの光が、廊下の窓から差し込んでいた。
出発の準備が進んでいる。馬車に荷物が積まれ、従者たちが行き来している。厩舎から馬の嘶きが聞こえた。
ハインリヒがコンラートの前に立った。
「昨夜は——ご苦労だったな」
「職務です」
コンラートが短く答えた。
ハインリヒが「……そうか」と言った。
しかしその口元が、何かを噛み殺したように動いていた。目が笑っている。声は平静を保っていたが、肩が——ほんのわずかだが——揺れていた。
コンラートは前を向いたまま、何も言わなかった。
馬が、蹄を鳴らした。
セルヴィアへの出発まで、あと半刻だった。




