第94話 誰がために
大金庫へ兵士たちが走っていた。
しかし、別の一団が彼らを遮った。
赤いコートが、先頭に立っていた。五つの黒い仮面がその後ろに続いていた。廊下をくぐり、金庫の中に足を踏み入れる。
倒れた兵士たちが、廊下の両端に並んでいた。誰も血を流していない。ただ眠っているように、気を失っている。
「遅くなりました」
アリアドネが言った。
「アリアドネ議長!」
マルタが声を上げた。
カッシオが倒れた兵士とアリアドネを交互に見た。アリアドネが兵士たちを一瞥した。
「眠らせただけです」
それだけ言った。
「暗殺帳は?」
「見つかりました」
リーナが暗殺帳を掲げた。アリアドネは頷くと、
「行きましょう」
全員が走り始めた。
守護魔法が消えた以上、アリアドネたちの行く先を拒めるものはいなかった。兵士たちを無害化しながら、一行は最上階の会議室に向かった。
◇
扉が開いた瞬間、会議室の空気が固まった。
リミニの十人委員会が、そこにいた。ナディールとアルヴィンが、テーブルを挟んでロレンツォと向き合っていた。そのテーブルに——白紙になった先王の借入金契約書があった。
ロレンツォが入り口を見た。赤いコート。黒い仮面。そして——泥のついた靴を履いた若い女が、一冊の台帳を胸に抱えている。
片眼鏡が、かすかに動いた。
アルヴィンとナディールが顔をほころばせた。
「リーナ。やってくれたな」
リーナが静かに頷くと、暗殺帳を差し出す。満面の笑みをたたえて。
アルヴィンは、それをしっかりと受け取ると、ロレンツォたちに向かって口を開いた。声は穏やかだった。
「ファブリツィオから場所を聞きました。大金庫の古い出生記録の中に——紛れ込ませたと」
テーブルの上に暗殺帳を置いた。
しばらく、誰も触れなかった。
最初に手を伸ばしたのは——バルトロメオだった。数字の男らしく、事実から目を背けない。ページをめくる。指が止まる。また、めくる。
名前が並んでいた。日付。方法。依頼者の名前。そして印章。
委員たちが覗き込んだ。顔色が変わっていく。一人ずつ、順番に。
「これは……」
誰かが呟いた。
様々な名前がある。セルヴィアの使節、聖シュタインの貴族、アルカディアの魔法使い。フィリッポが一つの名前で止まった。病死した筈の十人委員会の名前までもが書かれていた。
そして——ページの古い層に、一つの名前があった。
フリードリヒ・フォン・エーレンベルク。
日付。毒の種類。実行者の名。依頼者——ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ。印章が押されている。
アゴスティーノが台帳から顔を上げた。目に別の何かを宿していた。
ナディールとアルヴィンが視線を交わし、静かに頷いた。ナディールは動かず、真っすぐに正面を向く。テーブルの端を、静かに握って。
◇
椅子を引く音がした。
アゴスティーノが立ち上がった。ゆっくりと、ロレンツォの方を向いた。
「議長」
声は低かった。
「ちょっと良いか」
ロレンツォが視線を向けた。片眼鏡の奥の目が、次の質問を待っていた。
「あなたは——何を守るために、戦っているんだ」
間があった。
ロレンツォが答えた。迷わなかった。
「知れたこと。国と、国民のためだ」
嘘ではなかった。六十年、そう信じてきた言葉だった。
アゴスティーノが首を傾げた。ゆっくりと。
「私の息子は——あなたの国民だったのか」
ロレンツォが黙った。
「嫁も。キアラも」
アゴスティーノが台帳を見た。それからロレンツォを見た。
「ここに書かれた人たちは——あなたの国民ではなかったのか」
声が揺れた。揺れてはいるが、その芯は強い。
「私は国のためと思って聖シュタインとの戦争を指導した。しかし、戦争の狂気が子供と孫を奪った。議長は先ほど、長期戦ならリミニが勝つとおっしゃった。そうかもしれん。でも——その長期戦でどれだけの国民が死に、苦しむことか」
アゴスティーノはそこまで一息に言うと、悲し気な表情でロレンツォを見た。
「私にはあなたが守っているのが国や国民だとは、思えない。あなたが守っているのは——体制と、地位だけだ」
部屋が、静まり返った。
ロレンツォは答えなかった。
答えを、探していた。これまで積み上げてきた論理で、この問いに応じようとして——言葉が、見つからなかった。
六十年。一度も詰まることは無かった。今夜、初めて、言葉が出なかった。
◇
議場の建物に群衆が群がっていた。全員が手に天秤の首飾りをしている。アリアドネたちに無力化された衛兵たちは、その群衆を押しとどめることは出来なかった。群衆たちの先頭に白い法衣を纏った老人がいた。議場への階段を上り始める。
議場の扉が静かにノックされた。
扉は開いていたが、もう一度ノックしてから、老人が入って来た。穏やかな目をしている。
セバスティアヌス枢機卿だった。
突然の、場違いな訪問者に、ロレンツォまでも意表をつかれていた。
枢機卿が部屋の中を見渡した。テーブルの上の白紙の契約書。開かれた台帳。立ち尽くす委員たち。
「……遅くなりました」
老枢機卿が言った。
「法王聖下より、書状を預かって参りました」
白い封書を取り出した。重厚な印章。
「この問題の解決は——セルヴィアの国際法廷で、と」
ランプの炎が、静かに揺れていた。




