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第93話 染み抜きの魔法


 十人委員会の会議室。


 遠くから人が叫ぶ声が聞こえた。「何やら騒がしいな」。委員の一人が窓の外を見た。


「先ほどの提案ですが、実は条件があります」


 ナディールが語り始めた。


 バルトロメオが顔を上げた。「条件——」


 ナディールが頷く。


「一点だけ確認させてください」


 静かな声だった。感情のない、事実を並べる声だ。


「南街道開発銀行の設立がエアル国立銀行への取り付け騒ぎの引き金になったことは——事実です。リミニの傭兵が蒸留所を襲撃したことも——事実です。この二つによって、エアルも、リミニも、多大な損害を被りました」


 ナディールが一拍置いた。


「ロレンツォ議長がこれを意図されたことかどうかは、問いません。ただ——結果として、この被害が生じた。それが議長の判断の下で起きたのならば」


 アルヴィンが続けた。声は柔らかかった。


「議長としての任を果たされたとは、言えないと思うのです。良き家父長とは言えない。私たちの言葉で言うと——善管注意義務違反です」


 部屋が静まり返った。


「そこで、——議長の御退任をお願いしたい。これが条件です」


 バルトロメオが、アゴスティーノが、フィリッポが——十人委員会の委員たちが凍り付いた。そしてゆっくりと視線をロレンツォに移動させる。


 ロレンツォは微動だにしなかった。


「善管注意義務?」


 言葉を転がした。笑っても、怒ってもいない。


「妙な言い回しをする」


 片眼鏡を外した。布を取り出す。拭き始める。


「蒸留所の件はファブリツィオの独断だ。取り付け騒ぎは市場の反応に過ぎない。私が命じたことではない」


 声に揺れがなかった。


「退任を求めるなら——それに値する証拠を持ってくることだ。そんなものがあるならな」


 片眼鏡をかけ直した。


 少しの沈黙があった。


 ロレンツォが初めて、身を乗り出した。


「せっかくテーブルについたのだ。最後のチャンスをやろう」


 声のトーンが変わった。穏やかさが消えた。圧力が増した。


「エアルを売れ!」


 十人委員会が再び凍り付いた。


「国ごと。銀行も、蒸留所も、製紙工場も。そして——」


 片眼鏡の奥の目が、アルヴィンを見た。


「お前の頭の中に入っているものも、全部だ」


 アルヴィンは動かなかった。


「それが嫌なら——債務不履行を理由に宣戦布告する」


 ロレンツォは続けた。声は静かだった。


「確かに、エアルは一時的には傭兵と魔法使いで優位に立てるだろう。しかし長期戦になれば——あんな小国に勝ち目はない。二百年かけて我々が築いたものを、お前たちは持っていない」


 誰も声を出さなかった。


 バルトロメオの指が動き出した。計算していた。傭兵の費用。補給線。消耗率。長期戦の戦費——しかし、それが出てくるより先に、別の数字が頭に浮かんでいた。バザールテロの死者数だ。千人以上。あの数字は帳簿には載らない。


 宣戦布告という言葉を聞いた時、アゴスティーノの眉が動いた。


 戦争。


 その一言が、この男の胸で何かに触れた。孫娘の顔が、瞼の裏を過ぎていった。


 ナディールが口を開いた。感情のない声だった。怒ってもいない。戦争と聞いても怯えてはいなかった。


「議長は今——戦争と仰いましたか」


 ロレンツォの目が、かすかに動いた。


「軍事は経済の下僕——それがリミニのモットーではなかったのですか」


 一拍置いた。


「我々は何を手に入れるかではなく、何を失うかを、計算するべきなのでしょうか」


 ◇


 廊下の奥には大金庫の扉があった。


 床に倒れて血を吐いている兵士の腰から、鍵を取り上げた。リーナが金庫のカギ穴に差し込んでまわそうとするが、動かなかった。鍵に時計のようなものがついている。


「これは」


「時間錠でしょうか」


 カッシオが顔を引きつらせた。「ある時間にならないと開かないとしたら」


 全員が分かっていた。彼らにはそんな時間はない。


「やってみます」


 ルカが時間錠に手を差し伸べた。「時間を進めます。リーナさんは何度も鍵をまわしてください」


「はい」


 時計の針が回り始める。リーナが鍵をまわそうとする、回らない。針が進む。また試す。その繰り返し。


 リーナの額に汗が浮かんだ。時計の針が七時を回った時、カチリという音と共に鍵が回転した。


 四人が顔を見合わせた。


 全員で、金庫の扉を押す。重い金庫の扉がゆっくりと滑っていく。


 ◇


 大金庫の内部は、想像を超えていた。


 棚が天井まで続いている。一面、書類だ。羊皮紙の束。印章と署名の列。二百年分の債権、契約書、権利書——リミニが積み上げてきた全てが、ここにある。


「これを探すのは……」


 ルカが顔を曇らせた。


 ファブリツィオは出生記録に暗殺帳を忍び込ませたと言った。四人は出生記録を探しながら、棚の間を進む。書類を手に取るたびに、中身が見えた。


 金利が五倍の貸付契約。土地を担保に取った証文——返済できない設計になっている。弱みを握った証書。脅迫の記録を契約書の形に整えたもの。


 マルタが一枚を手に取り、すぐに棚に戻した。顔が歪んでいた。


 廊下から、足音が響いた。一つではなかった。多くの足音が、まとまって近づいてくる。増援だ。


 リーナが一番大きなアルカーナムを見つめた。


 マルタを見た。マルタが首を振った。静かな、しかし確かな動作だった。


 カッシオを見た。カッシオが青い顔で小さく首を振った。中くらいのアルカーナムでも兵士たちが血を吐いて苦しんでいる。これを使えば——今度こそ人が死ぬ。


 ルカを見た。ルカが静かに言った。


「私が使えば——間違いなく全員死にます」


 老化魔法。時間を進める力を、人間に向けて解放すれば。


 廊下の足音が、近くなった。


 アルヴィンの言葉が蘇る。——判断はリーナに任せる。


 リーナの唇が震えた。


 でも、どうすれば。アルヴィンさん——心の中で問いかけた。


 一番大きなアルカーナムを手のひらに乗せた。先王が残した記録。長い採掘作業の末に掘り当て、長い実験で蒸留に成功し、あの夜に皆で祝った。あの時の記憶が蘇った。


 周囲に書類が積まれていた。


 二百年分の穢れが、紙の上にインクで刻まれている。


 リーナが目を開いた。顔を上げた。


「答えなくていいです」


 自分に言い聞かせるように言った。


「これも——染みです」


 大きく、息を吸った。


「二百年の間、この国がこの世界を汚してきた染みです」


 アルカーナムに触れた。


 ◇


 音は、なかった。


 気配が変わった。棚の間を、風のようなものが走った。


 一枚の羊皮紙が宙に浮いた。それに続くように、また一枚。また一枚。棚から書類が引き出されるように宙へ上がり、金庫の中を漂い始めた。そして、まるで魔法が全ての書類を一枚一枚確かめるように、ものすごい勢いで書類がめくられていく。


 廊下から金庫に入った兵士たちが、それを目のあたりにした。兵士たちはただ茫然と見るしかなかった。


 書類の中からはじき出された一枚が、真っ白になっていく。


 五倍金利の契約書から、インクが消えた。担保の証文から、文字が消えた。脅迫を偽装した契約書が、ただの白紙になった。


 消えるものと、消えないものがあった。


 魔法は消すべき染みと、そうでないものを正確に見分けていた。


 パラパラとめくられる書類から、一つの綴りがはじき出された。ゆらゆらとリーナたちの足元に落ちる。


 マルタが拾い上げた。紙には日付と名前、そしてその依頼者の名が記されていた。


「これが——暗殺帳です!」


 ◇


 会議室にも、外の喧騒が届いてきた。全員がただ事ではないことを悟っていた。


 扉が叩かれ、書記官が入って来た。


「会議中、失礼いたします」


 ロレンツォが問いただした。「一体、何事だ」


「はい。大金庫に侵入者です。門が爆破され、守衛が倒されました。現在、増援を向かわせています」


 ロレンツォが振り返り、ナディールとアルヴィンを睨んだ。


「これも、お前たちの仕業か」


 その時。


 テーブルの上に広げられていた契約書が、かすかに揺れた。


 全員が契約書を見た。


 先王フリードリヒへの貸付契約書。元金五百万枚。利率。返済期限。重厚な印章——その文字が、薄くなっていた。


 インクが、消えていく。


 開発資金を貸し付けて。毒を盛って。返済不能にした。それは契約ではなかった。それは——はじめから、染みだった。


 白紙になった羊皮紙が、テーブルの上に残った。


 ロレンツォはそれを見ているしかなかった。


 部屋が静まり返っていた。

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