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第92話 大金庫攻略


 鐘の音が、石畳の向こうから聞こえてきた。


 リーナが立ち止まった。目を閉じた。一瞬だけ。


「——揺れた」


 小さな声だった。しかし全員が聞いた。


 守護魔法が、揺れた。それはアリアドネたちが预り所を開放した知らせだった。


「行きましょう」


 誰もが頷き、小走りに前に向かった。


 ◇


 大金庫の建物は、議場からほど近い場所にあった。


 巨大な石の塊だった。石造りの壁が夜空を切り取り、窓が一つもない。城砦のような外観だ。リミニが二百年かけて積み上げた富の器。


 正面の門を見た瞬間、マルタは足を止めた。


 金属製だった。分厚い。鎧どころの話ではない。あの門扉一枚で、騎馬隊の突撃を正面から受け止められる。門柱も同じ素材で出来ていた。継ぎ目なく、一体として鋳造されている。


 ルカが隣に並んだ。外見十五歳の目で、静かに門を見上げた。


「……見るからに頑丈ですね」


「これじゃ、いくらなんでも」


 マルタが言った。


 自分の手のひらを見た。炎魔法の使い手として、分かっていた。通常の炎ではこの門はびくともしない。金属は融かせても、あの厚みを溶断するには時間がかかりすぎる。今は、その時間がなかった。


 蝋の小さな塊を取り出した。今回持参したアルカーナムでは最も小さい。ランプの光が届かない夜の路地で、それだけがかすかに輝いていた。


 軽い。信じられないほど軽い。しかしこの場の全員が、中に何が詰まっているかを知っていた。


 マルタは蝋の栓を開けた。


 足を止めて、もう一度門を見た。門柱を見た。左右に人通りはない。仲間たち全員が、自分より後ろにいることを確認した。


「下がってください」


 静かに言った。


 全員が三歩、四歩と下がった。リーナが壁際に寄った。ルカが建物の陰に入った。カッシオが迷ってから、大きく後退した。


 マルタは一人、門の前に立った。


 息を吸った。


 アルカーナムに手を触れた瞬間——何かが変わった。魔法が、膨らむような感覚。自分の中にある熱が、輪郭を持った。はっきりと、確かに。


 腕を伸ばした。


 ◇


 音は、後から来た。


 光が先行する。目に見えないほどの速さで、夜の空気を裂く白い炎が飛んでいった。それが門に触れた瞬間、マルタは目をつぶった。


 爆音が、石畳を揺らした。


 熱風が跳ね返ってきた。熱と圧力を持った空気の壁が、正面から押してきた。守護魔法がなければ——それだけで人が死ぬ。


 金属が、空に舞った。


 門扉が、門柱ごと吹き飛んでいた。一体として鋳造されていた頑強な構造物が、根元から引き剥がされて空中に投げ出された。夜空を背景に、巨大な影がゆっくりと頂点に達して——落ちてきた。


 マルタは動かなかった。


 守護魔法がある。エルネストがかけてくれた、本物の光が胸の中に宿っている。それを信じていた。それでも——頭上を巨大な金属の塊が過ぎていく感覚に、冷たい汗が流れた。


 破片が降り注ぐ。


 溶けた金属が、雨のように落ちてきた。石畳の上に落ちて、ぱちぱちと火花を散らした。煙が上がった。焦げた匂い。熱い匂い。


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 煙が、少しずつ薄れていった。


 門があった場所が、ぽっかりと開いていた。建物の内部が見える。暗い廊下。遠くにランプの光。


 マルタは手の中を見た。


 アルカーナムが——消えていた。この世から、消滅していた。


 体が冷えていないことに気づいた。いつもなら、大きな魔法を使えば熱を大きく持っていかれる。しかしアルカーナムが副作用を中和していると——そうはならない。体の内側はまだ温かかった。


 先ほどの炎は、自分が出したものだ。でも——自分の炎ではない。アルカーナムが増幅した、次元の違う炎だ。あの小さな塊一つで、門柱ごと吹き飛んだ。


 持参したアルカーナムはあと二つ。中くらいのものと、大きな塊。あれを使ったらどうなるか。


 リーナが近づいてきた。


「マルタ」


 マルタが振り返った。


「もう」


 声は落ち着いていた。震えていなかった。


「私にアルカーナムは——無理です」


 リーナが頷いた。


「使えばたくさんの人が死ぬ」


 謝罪でも懇願でもなかった。自分の力の大きさを、正確に分かった上での宣言だった。


 リーナは口を結んだ。もう一度、頷いた。


「行きましょう」


 カッシオが前に出た。ルカが続いた。マルタも歩き出した。


 足元に、溶けた金属が冷え固まっていた。石畳の上で、歪な形のまま残っていた。


 それを踏まないように、全員が進み始めた。


 ◇


 会議室の窓ガラスが、かすかに震えた。


 誰かが顔を上げた。天井を見て、それから窓を見た。


「何だ、雷か」


 ロレンツォは顔を上げなかった。


 片眼鏡を外した。布を取り出す。拭き始める。


 あの音が何か——この部屋でロレンツォだけが悟っていた。ただの交渉ではない。自分がこの席に縛り付けられている間に、何かが動いている。しかし、どこで、何が——それは、まだ分からなかった。


 ◇


 アルヴィンはその音を聞いて、ゆっくりと口を開いた。声は穏やかだった。急いでいなかった。


「先王フリードリヒ陛下の借入金ですが」


「一括返済は、こちらも無理です」


 ロレンツォが片眼鏡をかけ直した。


「それは分かっている」


「ただ」


 アルヴィンが、白い紙をテーブルの上に置いた。エアルの製紙工場が作った紙だ。数字の列が並んでいた。


「利率を引き下げていただけるなら、元本の分割返済は続けられます」


 ロレンツォは紙を見た。見たが、何も言わなかった。


「これを聞き入れていただけるなら」


 アルヴィンが続けた。


「皆さんが金鉱脈に出資した元本を、返済させていただきます」


 部屋の空気が変わった。


 バルトロメオの指が、膝の上で止まった。元本が戻る。国の運用金が。自分自身の金が。デフォルト宣言の書状が届いた時、もう諦めていた数字が——今、テーブルの向こうから差し出されていた。


 フィリッポが隣のロレンツォを見た。いつものように。


 アゴスティーノは腕を組んだまま、テーブルの一点を見ていた。


 ロレンツォは正面を向いていた。


 デフォルト宣言が届いた時から、この男が何をしたかは分かっていた。金鉱脈の開発と称して資金を集め、配当を払い、また集め——鉱脈は最初からない。古典的な手口だ。自分の部下たちが全員、「あなただけに」と言われて個別に金を投じた。


 腹は立たなかった。


 立てられなかった、と言う方が正確かもしれない。


 そして今、元本を返す、と言っている。


 ロレンツォは紙の数字を見た。利率の数字を見た。


「議長」


 バルトロメオが言った。声が低かった。いつもの計算の声ではなかった。


「計算させていただけますか」


 ロレンツォがバルトロメオを見た。


「悪くない」


 バルトロメオが続けた。指がテーブルをゆっくりと叩いていた。


「元本が戻り、借入の返済は続き、南街道から長期の通行料利権が手に入るなら——数字は悪くない」


 アルヴィンが鞄に手を入れた。取り出したのは、見慣れない二つの器械だった。テーブルの上に、静かに並べた。


「これも——つけましょう」


 バルトロメオの指が、止まった。


「南街道の調査(デューデリジェンス)でエアルの計算が速かった理由が、これです。リミニが持てば、経済効果は計り知れない」


 バルトロメオが眼鏡を直して、器械を覗き込んだ。エアル国立銀行で見た時のものとは形も大きさも違う。


「アルカディア製と聞きましたが——」


「あれは嘘です」


 アルヴィンが穏やかに言った。


「切り札は、取っておきたかった」


 バルトロメオがため息をついた。それから——ふっと、笑った。


「あなたは本当に、実業家なのか詐欺師なのか」


「ただ——これがあればリミニの経済がまた発展する。それだけは嘘ではありませんね」


 その時、ロレンツォが器械から手を離した。


 静かな動作だった。テーブルの上の二つの器械を見て、製紙工場を思い出した。ウィスキーを思い出した。複式簿記を、屯田兵を、この一年、届いた報告を全て、頭の中で並べ直した。


 アルヴィンを見た。


「——ようやく分かった」


 何かを確かめるような声だった。ロレンツォの分類能力が答えを出していた。


「お前は、見てきた男だ」


 一拍置いた。


「こんなものを一人の人間が思いつける筈がない。誰かが生涯をかけて積み上げたものを——お前は、見てきた」


 アルヴィンが、おや、という顔で笑った。さすがロレンツォ、とでも言うように。



 大金庫の建物の内部。


 爆音が石の廊下を伝わっていた。建物の内側から。外側から。松明の灯りが走ってくる。


 リーナたちがなくなった門を踏み越えるころには、警備の兵士たちが殺到していた。


 数えている暇はなかった。十人、二十人——もっといる。


 リーナが振り向いた。一瞬マルタを見た。マルタが首を振った。静かな、しかし確かな動作だった。


 リーナが頷く。


 その二人の様子を見て、


「——私がやるしかありませんね」


 カッシオが言った。抑揚のない声だった。生真面目な顔のまま、手を差し出す。


 リーナが「お願いします」と短く言い、中くらいのアルカーナムを取り出した。カッシオの手に置かれると、それはかすかに光った。


 松明を持った兵士たちがリーナたちを見つけ、こちらに向かってくる。


「カッシオ。落ち着いて」


 ルカが言った。小さな声だった。


「分かっています」


 カッシオが答えた。


 カッシオが全員の前に出ると、栓を抜いた。


 何が起きたか、分からなかった。


 音はなかった。光もなかった。カッシオが蝋の塊を握った。それだけだった。


 ただ、目に見えない何かが、カッシオの前方に広がっていった。


 廊下の両端から殺到していた警備兵たちが、一人、また一人と崩れ落ちた。膝をつく者。壁に手をついて滑り落ちる者。石畳の上に倒れ込んで、体を丸める者。声が上がった。うめき声だ。腹を抱えて——そして。


 血が、口から溢れ出ていた。


 カッシオが一番近くの兵士に走り寄った。傍らに膝をつく。顔が——白を通り越している。


「だ、だ、——」声が出なかった。「大丈夫ですか」


 呼吸があった。胸が動いていた。


 リーナ、マルタ、ルカも覗き込む。息をしている。兵士は苦しそうに腹を抱えて体を丸めていたが、肩で息をしていた。


「大丈夫」リーナが素早く確認した。「みんな、生きています。急ぎましょう」


 カッシオが立ち上がった。立ち上がりながら——兵士の顔を見た。


「ごめんなさい」


 歩き出した。次の兵士の傍らを過ぎながら。


「ごめんなさい」


 また一人。


「ごめんなさい——」


 リーナが前を向いたまま歩いていた。カッシオの謝罪の声を聞きながら、それでも立ち止まらなかった。


 カッシオに辛いことをさせた。


 立ち止まれば——それが無駄になる。


 大金庫の扉が、廊下の先に見えてきた。

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