第91話 陽動作戦
夜のリミニ。
細い路地に、人影が集まっていた。
子供たちが走ってきた。転びそうになりながら、石畳を蹴って走ってきた。その向こうから、大人たちがやって来た。走る者もいた。足を引きずる者もいた。
子供が飛びついた。
最初に再会した母と子は、路地の端にいた。
小さな女の子が「お母さん」と叫んで、腕の中に飛び込んだ。受け止めたのは——か細い女だった。
やせていた。頬がこけ、目の下に隈があった。疲れ果てた体に、しかし子供を抱きしめる腕だけは、離れなかった。ずっと離さなかった。細い腕が、小さな背中を強く、強く抱いていた。
子供が泣いていた。母親は泣かずに、何かを念じていた。胸に魔法使いの刺繍がある。次の瞬間、優しい光が子供を包んだ。守護魔法——ウィス・クストーディア。
アリアドネは見入っていた。これほど強い守護魔法は見たことが無かった。
十人委員会の守護魔法を支えていたのは——この人だったのか。
火炎魔法さえ跳ね返す、あの鉄壁の守護魔法を。エルネストよりも強い魔法を。
この、か細い腕が。
言葉が、出なかった。
魔法評議会の元議長は、この構造の残酷さを誰よりも正確に理解していた。思いやりが強いほど守護魔法が強くなる。その原理を逆用し、愛情を担保にとられた。
今、子供を抱きしめているこの人に向けて、言える言葉が——なかった。
アリアドネは黙って見ていた。
路地の向こうで、また子供が走っていた。また親子が抱き合っていた。
この光景が見られたのなら、議長の座など惜しくはなかった。
仮面の五人は周囲の警戒に入っていた。赤いコートだけが——遠ざかる親子の背中を、最後まで目で追っていた。
◇
ナディールが、書類をテーブルに置いた。
フリードリヒ王の消費貸借契約だった。
音がした。小さな音だったが、議場に響いた。バルトロメオの指が止まった。フィリッポが視線を向けた。
ナディールは書類を見たまま、口を開いた。
「今度は先王の借金の話をしましょう」
「先王フリードリヒが貴国から借り入れた資金は——魔導物質の研究開発費です」
誰も何も言わなかった。
「魔導物質をご存知ですか」ナディールが顔を上げた。「魔法を、何倍にも増幅させる物質です。その研究が完成すれば、この大陸の力の均衡は根本から変わる」
アゴスティーノが腕を組んだまま、わずかに体を前に傾けた。
「先王フリードリヒは、その研究開発のための資金を必要としていた。エアルは小国です。自国では賄えなかった。そこで——貴国から借り入れた」
ナディールの声は平坦だった。報告事項を読み上げるように。
「その借り入れの窓口となった方が——今日、ここにいらっしゃる」
誰もロレンツォを見なかった。
ロレンツォは何も変わらなかった。片眼鏡の奥の目が、ナディールを静かに見ていた。
◇
「研究は完成直前で止まりました」
アルヴィンが引き取った。
椅子に座ったまま、前のめりにもならず、ゆったりとした姿勢で話した。
「止まった理由は——先王が死んだからです」
バルトロメオの指が、テーブルの上で静止した。
「先王フリードリヒが亡くなる三日前。ロレンツォ議長と、ファブリツィオという名の男が、エアルを訪れています」
フィリッポが息を呑んだ。
アルヴィンがナディールを見た。ナディールが別の書類をテーブルに置いた。
「そのファブリツィオは——現在、エアルの牢の中にいます。レアンドロという魔法使いと魔導物質の強奪を企て、捕縛されました」
議場の空気が変わった。
詐欺の話ではなかった。数字の話でもなかった。これは——犯罪の話だ。委員たちがそれを感じ取っていた。
「この遍歴騎士と、あの享楽殺人の魔法使いが、誰の命で動いていたか」
アルヴィンが続けた。
「皆さんがご存知でしょう。牢屋でファブリツィオは——色々と話してくれましたよ」
最後のひと言だけ、声のトーンが変わった。
それは阿久津の声だった。
◇
アルヴィンが懐から折り畳まれた紙を取り出した。広げて、テーブルの中央に置いた。
黒塗りを除去した手紙の写しだった。リーナが腕を真っ黒に染めながら染み抜きしてくれた手紙だ。
「読んでいただけますか」
誰も手を伸ばさなかった。
バルトロメオが、やがてゆっくりと手を取った。眼鏡の位置を直して、文字を追った。指が動かなかった。計算ではなく、ただ読んでいた。
紙がフィリッポに回った。フィリッポの顔が、少しずつ変わっていった。
アゴスティーノが最後に受け取った。読んだ。それからテーブルの上に、静かに置いた。
末尾の文字が、全員の目に残っていた。
——フリードリヒとの交渉は決裂した。死んだら最優先で魔導物質をおさえろ。議長には渡すな。 L.V.
議場が静まり返った。
窓から差し込む光の中で、埃が舞っていた。誰も動かなかった。
◇
バルトロメオの指が、ゆっくりと動き始めた。
テーブルを叩く音ではなかった。触れているだけだった。まるで、何かを確かめるように。
フィリッポがロレンツォを見た。
いつもとは違う目だった。十年以上、この男の顔色を読んで動いてきた目が——今日は別のものを映している。
アゴスティーノは動かなかった。腕を組んだまま、テーブルの上の紙を見ていた。
ロレンツォだけが、何も変わらなかった。片眼鏡の奥の目が静かにアルヴィンを見ていた。穏やかな顔だった。嵐の前の海が穏やかなのと同じだ。
◇
ロレンツォが口を開いた。
「捕まった男が、何を言おうが、関係はない」
声は穏やかだった。
「拷問でもすれば——どんな自白でも取れる。それがどれほどの証拠になるのですか」
バルトロメオが顔を上げた。何か言いかけて、やめた。
「その手紙についても」ロレンツォが続けた。「末尾にL.V.とある。それがロレンツォ・ディ・ヴァザーリを指すという証明が——どこにありますか」
澱みがなかった。
精密な反論だった。確かに署名だけでは断定できない。ロレンツォはその一点を正確に見ていた。
アルヴィンは黙って聞いていた。全部聞いた。それから口を開いた。
「あなたがファブリツィオに魔導物質の強奪を命じたのは認めますか」
「私が命じた——証拠は?」
アルヴィンが答えた。
「今のところは——ない」
短い沈黙があった。
ロレンツォの表情は変わらなかった。しかし、片眼鏡の奥の目が、わずかに動いた。「今のところは」という言葉の意味を、この男は正確に読んだはずだった。暗殺帳のこと。エアルがどこまで知っているか。彼の分類能力が、その含意を一瞬で処理した。
ロレンツォは何も言わなかった。
アゴスティーノがゆっくりと顔を上げた。腕を組んだまま、ロレンツォを見た。
◇
その時、街に鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ——。
ナディールが窓の外を見た。秋の午後の光が、運河の水面を橙色に染め始めていた。礼拝の時間ではない。火事の警鐘でもない。
時刻外れの鐘だった。
アルヴィンはその音を聞いて、動いた。
ただ——手元のペンを、ごく自然な動作で掴んだ。書類の端に何かを書き留めようとするような、何でもない仕草だった。テーブルの上をペンが滑り、ロレンツォの手の甲の上で、止まった。
軽く、刺した。
「——何をする」
低い声だった。
怒りより先に、驚きが出た。六十年、誰にもそんなことをされたことがなかった。ロレンツォが手を引いた。手の甲に、小さな赤い点があった。
アルヴィンが首をかしげた。
「おや」
静かな声だった。
「守護魔法が——効いていませんね」
議場が静まり返った。
バルトロメオが動かなかった。フィリッポが息を呑んだ。アゴスティーノの目が、鋭くなった。
ロレンツォは手の甲を見ていた。
小さな赤い点。
この程度の傷は、何でもない。問題は——なぜ、ペン先が手に届いたか、だった。
自分で確かめるように、ゆっくりと左手を右手の甲に重ねた。
いつもそこにあるはずの、温かさが——なかった。
魔法使いから買って、長年纏ってきたものだった。心を読ませない魔法。体を守る魔法。交渉の場で自分を守るために、金を払って、時には脅して手に入れてきたものだった。それが今、指の先にも、手の甲にも、どこにも——ない。
アルヴィンが静かに言った。
「預り所の子供たちは——今頃、親御さんのところに戻っています」
ロレンツォは動かなかった。
頭の中で、点と点が繋がっていく。速かった。彼の類まれな分類能力が、今、全ての情報を並べ直していた。
時刻外れの鐘。
守護魔法の消滅。
預り所。
子供。
あの守護魔法使いの子供を人質にしていた。人質がいなくなれば、魔法使いたちの心が変わる。心が変われば魔法が変わる。自分が買って纏っていたものも、その連鎖の中にあった。
エアルの使節団が、交渉のためにリミニに来た。
ロレンツォはそれを「溺れる鼠が命乞いに来た」と読んでいた。
違う。そんな生易しい相手ではなかった。
「これは——陽動、か」
呟いたかどうか分からないほど、小さな声だった。
アルヴィンはペンをテーブルに置いた。静かな音がした。
答えなかった。
ロレンツォが自分で答えにたどり着いていた。
窓の外で、鐘がまだ鳴っていた。リミニの街に、時刻外れの音が響き続けていた。
ロレンツォは手の甲を見たまま、動かなかった。
片眼鏡を外す手が——伸びた。
布で、ゆっくりと拭き始めた。
いつもより、ずっと長く。




