第90話 預り所の開放
十人委員会の議場は、建物の中心にあった。
天井が高い。石造りの壁に、細長い窓が等間隔に並んでいる。外の光が斜めに差し込み、埃が光の中でゆっくりと動いていた。蹄鉄の形のテーブルに椅子が並んでいる。この国の経済を動かしてきた部屋だ。
ナディールとアルヴィンが案内されて入ると、委員たちはすでに着席していた。これまでこの部屋に入った外国人はほとんどいない。
アルヴィンはエアルの閣議室と見比べていた。何もかも立派なものだ。
十人委員会の視線が痛い。これまで色々な話題で彼らの興味を引き、大金をだまし取ったのだから当然だった。
バルトロメオが指でテーブルを叩いている。いつもの癖だが、今日は計算ではなく、苛立ちを募らせている。フィリッポは背筋を伸ばしたまま動かない。アゴスティーノは腕を組み、入ってきた二人をじっと見ていた。
テーブルの奥。
ロレンツォ・ディ・ヴァザーリが座っていた。
深く、静かに。片眼鏡の奥の目が、感情を映さない。穏やかな顔だった。ただし穏やかさの種類が、他の委員たちとは違った。嵐の前の静けさだ。
アルヴィンはその顔を一度見て、ニヤリと笑った。そこには動揺も緊張もなかった。
椅子を引いて、座った。
◇
最初に口を開いたのは、バルトロメオだった。
指がテーブルの上で止まった。
「金鉱脈の開発事業など——最初から存在しなかった。これは明らかな詐欺ですな」
声は低く、抑えられていた。
「我々はあなたを信じて出資した。その金が、先王の借金の返済に消えた」
アルヴィンは黙って聞いていた。
「詐欺師を交渉の席に座らせると聞いた時、私は反対した」
フィリッポが続けた。
「しかし議長が——」
「ああ」
ロレンツォが口を開いた。穏やかな声だった。
「後学のために詐欺の手口を話を聞く価値があると判断した。それだけだ」
視線がアルヴィンに向けられた。
「さあ。お前は何を話しに来た?」
アルヴィンが椅子の背にゆっくりと体を預けた。藍色の上着。揺れない目。
「保険でした」
短く言った。
バルトロメオの指が動きを止めた。
「保険、とは」
「金鉱脈が詐欺だったことは認めます。でも経済的な暴力から身を守るために必要な保険だった」
アルヴィンの声は静かだった。詫びているわけでも、悔いているわけでもない。
「そして——その保険は実際に必要となった」
ナディールが書類をテーブルの上に広げた。数字の並んだ紙だった。フェルディナントが毎週まとめていた報告書と、協定書の写し。
「南街道の開発協定が調印された時、」
アルヴィンが委員たちを見渡した。
「その直後に——南街道開発準備銀行が、エアル南部に開業しています」
バルトロメオが眉を動かした。
「開発資金の現地調達を目的とした金融機関の設立を妨げない——協定書の第七条が根拠です」
ナディールが該当箇所を指した。
「全て合法です。準備金は十分に積まれていた。許可証も正規に取得されていた」
アルヴィンが続けた。
「この銀行の金利設定を見てください」
指が白い計算書の数字を示した。
「国立銀行の一・五倍。翌週には二倍。その翌週には三倍になっています」
バルトロメオが計算書に目を落とした。指が動いた。計算している。
「これでは採算が合うわけがない」
低い声だった。
「合いません」アルヴィンが言った。「この銀行は利益を出すつもりがない。最初からそういう設計です」
「それは——」
「農村部に噂が流れました」アルヴィンが続けた。「エアルの国立銀行が危ない。今のうちに下ろした方がいい——誰が言い始めたか分からない噂で、国立銀行の支店の前に人の行列が出来た」
議場が静まり返った。
「開発銀行の設立から、取り付け騒ぎまで——全て繋がっています」
ナディールが静かに言った。
「南街道を共同開発すると言いながら、その協定を隠れ蓑にして、我が国の国立銀行を破綻させる工作が仕組まれていた。これは事業ではありません」
一拍置いた。
「破壊工作です」
誰も口を開かなかった。
バルトロメオの指が、テーブルの上で止まったままだった。フィリッポがちらりとロレンツォを見た。いつもの目ではなかった。許可を求める目ではなく、問いかける目だった。
アゴスティーノは動かなかった。腕を組んだまま、白い紙の数字を見ていた。
ロレンツォだけが、何も変わらず、アルヴィンを見つめ続けている。
◇
沈黙を破ったのは、ロレンツォだった。
「準備金を十分に積んだのは——当然の事業判断だ」
穏やかな声だった。最初から最後まで変わらない。
「開発資金を集めるためには、それなりの信用が必要になる。準備金はその担保に過ぎない」
「金利が高いのも同様。農村の預金者に参加を促すためには、魅力的な条件を提示しなければならない」
片眼鏡の奥の目が、静かにアルヴィンを見ていた。
「採算を度外視しているように見えるのは——開発事業とはそういうものだからだ。初期投資は大きい。利益が出るのは街道が完成してからだ」
澱みがなかった。
アルヴィンは聞いていた。全て言い終わるまで。
「取り付け騒ぎの噂をあおった——と言うが」
ロレンツォが続けた。
「事実無根です」
言い切った。
その通りだった。農村で噂を流した人間の名前は、誰にも分からない。証拠がない。ロレンツォはその一点を正確についていた。
アルヴィンはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「なるほど」
ナディールが次の書類に手をかけた。
まだ、話は終わっていなかった。
◇
路地の突き当たりで、ブラント配下のスパイが足を止めた。スパイと言っても人の良さそうな中年にしか見えない。
「この先です」
それだけ言った。
アリアドネが周囲を確かめた。石造りの壁が両側に迫る細い路地だった。昼なのに薄暗い。リミニの街の喧騒が、遠くに聞こえた。
マントを脱いだ。
荷役夫の服の下から、赤いコートが現れた。埃一つ被っていない。長旅をしてきたとは思えない鮮やかな色だった。五人の黒いコートが、音もなくその後ろに並んだ。仮面が取り出され、一人ずつ顔に当てられた。革紐が結ばれる。
スパイが静かに退いた。ここから先は、自分たちの仕事ではない。
◇
路地を抜けると、視界が開けた。
高い塀が、空を半分切り取っていた。
切り石を積み上げた、分厚い塀だった。蔦が下の方まで絡まり、植え込みが丁寧に手入れされている。外から見れば邸宅か、あるいは学院か。門は鉄格子で、上には内側に向けて鉄の返しが並んでいる。
しかし、その建物には窓が——なかった。
アリアドネは塀を見上げた。赤いコートが、秋の風に一度だけ揺れた。
「寄宿学校、と言っていたそうですね」
誰かに向けた言葉ではなかった。
黒い仮面の一人が手を上げる。何も起こらない。しかし、しばらくすると、門の鉄格子が震え出した。鉄棒が蛇のように艶めかしく動く。そして一本、また一本と結合を解き、地面に倒れていった。
◇
アリアドネが地面に散らばった鉄の棒をまたいで中庭に入った。
その瞬間、地面が鳴った。
低い音だった。石畳の一枚が、底が抜けるように地面にめり込んだ。隣の一枚もめり込む。目には見えない重力が上から押しつけていた。倒れた門に当たると、厚い木材にも穴が開く。
壁の後ろから人影が現れた。
三十代の男だった。警備の制服は着ていない。胸に魔法使いの刺繍があった。
仮面の一人が半歩前に出た。
アリアドネが、軽く手を上げてそれを止めた。
そして一歩、踏み出した。
アリアドネを追うように、周囲の地面がめり込んでいく。しかし、アリアドネの周辺だけはその力がかき消されていた。
次の一歩。周囲には穴が開くが、アリアドネには届かない。
何事もないように、真っすぐ歩き続ける。
男の目が見開いた。
赤いコートが、黒い穴の上を渡っていく。足元を見ず、真っ直ぐに男を見つめていた。
男が両手を広げた。もっと大きな穴を開けようとした。地面が揺れた。
アリアドネは止まらなかった。
男の顔から、血の気が引いていった。あの赤い髪と赤いコートに見覚えがあった。
「魔法評議会の議長が」
男が言った。声が、かすかに揺れた。
「何故——ここに?」
アリアドネが立ち止まった。男との距離、三歩。
「それはこちらが聞くことです」
静かな声だった。
「ここに捕らわれているのは魔法使いたちの子供だと、知っているでしょう」
間があった。風が吹いた。蔦が塀の上で揺れた。
「人の子供など知ったことか」
アリアドネが男の肩を掴んだ。細い指が、しかし強く食い込んでいた。
「魂まで売ってしまいましたね」
静かな口調で言った。
男は動けなかった。重力の魔法は完全に封じられていた。
◇
建物から慌ただしい音が響いて来た。
警備兵が走って来た。五人。六人。武器を手に、こちらに向かってくる。
仮面の一人が片手を上げた。
光が弾けた。
閃光ではなかった。もっと持続する、白く広がる光だった。門の近くにいた警備兵たちが目を押さえてよろめいた。光の魔法が視力を奪う。
門を解体した一人が加勢する。警備員の剣が生き物のように動いて、持ち主の手からすり抜ける。
別の一人が動いた。
風が起きた。前庭の砂が舞い上がり、よろめいていた警備兵の体が横に吹き飛んだ。石壁にぶつかる音。呻き声。
風はそれで終わりではなかった。
細く絞られ、速くなった。空気が鳴った。草が倒れる音ではなく、刃が走る音だった。建物の木の扉が、音もなく縦に二つ、割れた。
警備兵の一人が息を呑んだ。
仮面は振り返らない。どちらも同じ風の魔法だった。広く使えば吹き飛ばす。細く絞れば切り裂く。一つの魔法を様々に使いこなす。
中庭が静かになった。
残っていた警備兵が、手を上げ、膝をついた。顔が青かった。戦えば死ぬと、体が先に理解していた。
◇
建物の扉を開けると、廊下が暗かった。
ランプが一つ、壁に掛かっている。石造りの廊下が奥へ続いていた。子供の声はしないが気配はあった。息を殺した、小さな気配が。
仮面の一人が先行した。廊下の先、鍵のかかった扉の前で止まった。手を当てた。金属が小さく鳴って——開いた。また次の扉。また次の扉。音もなく、一つずつ。
最初に顔を出したのは、八歳か九歳の女の子だった。
怯えた目をしていた。廊下を見た。仮面を見た。その後ろの赤いコートを見た。
「もう大丈夫」
笑いかけるアリアドネの顔をじっと見つめる
「お母さんに……会いたいの」
アリアドネが膝を折った。赤いコートが、石畳の上に広がった。
「連れていきますよ」
女の子が、小さく頷いた。扉から子供たちが次々に顔を覗かせた。




