表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/97

第89話 使節団


 エアル王宮。


 秋の朝の光が、石畳の上に長い影を引いていた。


 謁見の間でエドゥアルト国王が椅子に座っている。白い髭、白い髪。老いた手が膝の上で静かに組まれていた。傍らにナディールが立ち、一歩後ろにアルヴィンが続いている。


 ナディールが深く頭を下げた。


「フリードリヒ王の無念と、この国の憂いを晴らしに参ります」


 沈黙があった。


 老王はしばらく、息子のように育てた男の顔を見ていた。それから、静かに言った。


「やりなさい」


 それだけだった。


「お前の判断を——信じよう」


 アルヴィンは老王の目を見た。いつもの穏やかな老人の顔だった。しかし、その目は静かに燃えている。


 ナディールが頭を上げた。


「必ずやり遂げます」


 ◇


 王宮の廊下に出ると、エリザベートが壁際に立っていた。


 背を向け、窓の外を見ている。金色の髪が、光の中で揺れている。


「王女殿下」


 ナディールが声をかけた。


「行って参ります」


 エリザベートは振り返らなかった。


「私がついて行くと——転んで邪魔になりそうですから、ここに居ます」


 声だけは、いつも通りだった。


「パッと言って、サッと帰って来てください」


 二人は笑わなかった。


 エリザベートの背中が、かすかに震えていた。


 ナディールが静かに歩き出した。アルヴィンがその後に続いた。


 ◇


 馬車が動き出した。


 石畳の音が、しばらく続いた。城門をくぐり、街路を抜け、やがて王都の外に出た。音が変わった。土を踏む、柔らかい音になった。


 窓の外に、麦畑が広がっていた。


 秋の麦が、風に揺れている。収穫を終えた畑もある。茎の束が山積みにされ、斜めの光を受けて金色に輝いていた。これが製紙工場の原料になる。


 アルヴィンはそれを眺めていた。


 阿久津蓮が、この体に目覚めた時、初めて見た光景だった。地平の向こうまで続く麦畑が目に入って——理由もなくこの光景を守りたいと思った。


 あれから一年。


 今、自分はこの国を守るために馬車に乗っている。


「アルヴィン」


 ナディールが低い声で言った。


 アルヴィンは視線を窓から外した。ナディールが——じっとこちらを見ていた。


「何を眺めている」


「麦畑」


 アルヴィンは短く答えた。


「ああ」ナディールが言った。「そうか」


 しばらく、二人とも黙っていた。馬車が揺れる。車輪の音。風の音。


 アルヴィンがふと気がついて、荷物の中を探った。手が小瓶に触れた。取り出すと、ガラスの中で透明な液体が揺れた。


「グラッパだ。昨年は収穫期に間に合わなくてね——今年ようやく作れた」


 ナディールが顔を向けた。


「まだ朝だぞ」


「ワインを作る時に出る皮を蒸留したやつだよ。度数は高いけど、味は面白い。試してみるか?」


「朝だと言っている」


 アルヴィンが少し笑った。瓶を傾け、コルクの匂いを嗅いで、それからまた荷物にしまった。


 ナディールがため息をついた。


 馬車が揺れた。麦畑が後ろに流れていった。


 ◇


 自由都市リミニの国境は、山脈の南に開いた関門だった。


 石造りの門楼が、街道の両側から迫り出している。左右に衛兵が並び、通行証を確認する手続きは丁寧で、しかし素早かった。効率を磨き上げた、商業国家の入国管理だ。


 ナディールとアルヴィンの馬車は、交渉団として正規の手続きで通過した。事前に届け出た通りの人数と荷物。衛兵が扉を開けて中を確認した。藍色の上着。重厚な印章のついた書状。


「エアル王国使節団。通過を許可する」


 馬車が動き出した。


 アルヴィンは窓から後ろを見なかった。


 ◇


 その一刻前。山道の分岐点。


 荷馬車が一台、脇道に止まっていた。荷役夫が四人。書記が一人。子供が一人——外見だけは。


 カッシオが荷物を肩に担いでいた。革の前掛けをつけ、顔に土埃を軽く叩いてある。


「荷役夫に見えますか」


 リーナに聞いた。生真面目な顔で。


「……見えます」


 リーナが少し考えてから答えた。「カッシオさんが荷役夫でないと、疑う余地が何もありません」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 ルカが荷台の端に腰かけていた。外見通りの子供に見える。荷台に座った子供が、足をぶらぶらさせている。


「私はリーナの弟ということで」


「そういうことです」リーナが頷いた。「関所では黙っていてください。口調が子供らしくありません」


「分かっていますよ」


 ルカが足をぶらぶらさせるのをやめた。やめてから、また再開した。子供らしく見せるために。本当は二十五歳の男が、真剣に足をぶらぶらさせていた。


 マルタが荷馬車の陰から関門の方角を見ていた。秋の光の中、門楼の輪郭がくっきりと見える。


「あの衛兵たちに——魔法使いはいますか」


 リーナが目を閉じた。少しの間、静かにしていた。


「……一人。門の奥の詰め所に。でも今は眠っています」


 マルタが何も言わずに前を向いた。それで十分だった。


「では参りましょう」


 リーナが荷馬車の御者台に上がった。書記の服を着ている。胸の魔法使いの刺繍は——隠していない。隠す理由がないからだ。リミニで魔法使いが書記をしていることは珍しくない。


 手綱を取った。


 荷馬車が動き出した。


 関所まで、石畳の音が続いた。


 ◇


 衛兵が手を上げた。荷馬車が止まった。


「エアル王国使節団の随行員か。荷物の確認を」


「どうぞ」


 リーナが書状を差し出した。衛兵が目を通す。別の衛兵が荷台に回って、積み荷を確かめた。布の梱包。木箱。陶器の瓶——ゴールデンフィールドだ。


「これは?」


「贈答品です」衛兵が頷く。


「こちらの方々は」


 衛兵がカッシオを見た。


「荷役夫です」


 カッシオは何も言わなかった。荷役夫は喋らない。ただ立っている。担いだ荷物の重さを肩で受けながら、遠くを見ていた。


 衛兵が視線を外した。


「子供は」


「私の弟です」


 リーナが答えた。ルカが荷台の端から衛兵を見た。子供の目だった。


 衛兵が頷いた。


「通れ」


 荷馬車が動き出した。


 関門を抜けた。石畳の音がまた始まった。


 カッシオが担いでいた荷物を、少しだけ持ち直した。


 ◇


 リミニの街に入った。


 運河が見えた。


 水面が秋の光を受けて、銀色に光っている。その両岸に石造りの建物が連なり、アーチ型の橋が幾つも架かっていた。橋の上を人が行き交い、荷を積んだ小舟が水路を滑っていく。どこかで鐘が鳴っていた。どこかで誰かが怒鳴っていた。どこかで笑い声がした。


 大きな街だった。


 エアルの王都とは、密度が違った。路地の一本一本に商いの匂いがあった。看板、幟、積み上げられた荷物、立ち止まって交渉する男たち。どこでも金が動いている。


 二百年分の富が、この街のあらゆる場所に染み込んでいた。


 リーナは手綱を持ったまま、街を見ていた。


 美しかった。


 しかし同時に——冷たいものも感じた。ここでは全てのものに値段がついている。値段のつかないものは、存在しないかのように扱われる。その空気が、美しい街並みを満たしていた。


 アリアドネたちとは、城門を入ってすぐに別れた。赤い髪が路地の角を曲がって見えなくなった。その後を五人の黒い影が音もなく続いた。


 リーナは前を向いた。


 約束の場所まで、まだ距離がある。


 荷馬車が、リミニの石畳の上を進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ