第89話 使節団
エアル王宮。
秋の朝の光が、石畳の上に長い影を引いていた。
謁見の間でエドゥアルト国王が椅子に座っている。白い髭、白い髪。老いた手が膝の上で静かに組まれていた。傍らにナディールが立ち、一歩後ろにアルヴィンが続いている。
ナディールが深く頭を下げた。
「フリードリヒ王の無念と、この国の憂いを晴らしに参ります」
沈黙があった。
老王はしばらく、息子のように育てた男の顔を見ていた。それから、静かに言った。
「やりなさい」
それだけだった。
「お前の判断を——信じよう」
アルヴィンは老王の目を見た。いつもの穏やかな老人の顔だった。しかし、その目は静かに燃えている。
ナディールが頭を上げた。
「必ずやり遂げます」
◇
王宮の廊下に出ると、エリザベートが壁際に立っていた。
背を向け、窓の外を見ている。金色の髪が、光の中で揺れている。
「王女殿下」
ナディールが声をかけた。
「行って参ります」
エリザベートは振り返らなかった。
「私がついて行くと——転んで邪魔になりそうですから、ここに居ます」
声だけは、いつも通りだった。
「パッと言って、サッと帰って来てください」
二人は笑わなかった。
エリザベートの背中が、かすかに震えていた。
ナディールが静かに歩き出した。アルヴィンがその後に続いた。
◇
馬車が動き出した。
石畳の音が、しばらく続いた。城門をくぐり、街路を抜け、やがて王都の外に出た。音が変わった。土を踏む、柔らかい音になった。
窓の外に、麦畑が広がっていた。
秋の麦が、風に揺れている。収穫を終えた畑もある。茎の束が山積みにされ、斜めの光を受けて金色に輝いていた。これが製紙工場の原料になる。
アルヴィンはそれを眺めていた。
阿久津蓮が、この体に目覚めた時、初めて見た光景だった。地平の向こうまで続く麦畑が目に入って——理由もなくこの光景を守りたいと思った。
あれから一年。
今、自分はこの国を守るために馬車に乗っている。
「アルヴィン」
ナディールが低い声で言った。
アルヴィンは視線を窓から外した。ナディールが——じっとこちらを見ていた。
「何を眺めている」
「麦畑」
アルヴィンは短く答えた。
「ああ」ナディールが言った。「そうか」
しばらく、二人とも黙っていた。馬車が揺れる。車輪の音。風の音。
アルヴィンがふと気がついて、荷物の中を探った。手が小瓶に触れた。取り出すと、ガラスの中で透明な液体が揺れた。
「グラッパだ。昨年は収穫期に間に合わなくてね——今年ようやく作れた」
ナディールが顔を向けた。
「まだ朝だぞ」
「ワインを作る時に出る皮を蒸留したやつだよ。度数は高いけど、味は面白い。試してみるか?」
「朝だと言っている」
アルヴィンが少し笑った。瓶を傾け、コルクの匂いを嗅いで、それからまた荷物にしまった。
ナディールがため息をついた。
馬車が揺れた。麦畑が後ろに流れていった。
◇
自由都市リミニの国境は、山脈の南に開いた関門だった。
石造りの門楼が、街道の両側から迫り出している。左右に衛兵が並び、通行証を確認する手続きは丁寧で、しかし素早かった。効率を磨き上げた、商業国家の入国管理だ。
ナディールとアルヴィンの馬車は、交渉団として正規の手続きで通過した。事前に届け出た通りの人数と荷物。衛兵が扉を開けて中を確認した。藍色の上着。重厚な印章のついた書状。
「エアル王国使節団。通過を許可する」
馬車が動き出した。
アルヴィンは窓から後ろを見なかった。
◇
その一刻前。山道の分岐点。
荷馬車が一台、脇道に止まっていた。荷役夫が四人。書記が一人。子供が一人——外見だけは。
カッシオが荷物を肩に担いでいた。革の前掛けをつけ、顔に土埃を軽く叩いてある。
「荷役夫に見えますか」
リーナに聞いた。生真面目な顔で。
「……見えます」
リーナが少し考えてから答えた。「カッシオさんが荷役夫でないと、疑う余地が何もありません」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ルカが荷台の端に腰かけていた。外見通りの子供に見える。荷台に座った子供が、足をぶらぶらさせている。
「私はリーナの弟ということで」
「そういうことです」リーナが頷いた。「関所では黙っていてください。口調が子供らしくありません」
「分かっていますよ」
ルカが足をぶらぶらさせるのをやめた。やめてから、また再開した。子供らしく見せるために。本当は二十五歳の男が、真剣に足をぶらぶらさせていた。
マルタが荷馬車の陰から関門の方角を見ていた。秋の光の中、門楼の輪郭がくっきりと見える。
「あの衛兵たちに——魔法使いはいますか」
リーナが目を閉じた。少しの間、静かにしていた。
「……一人。門の奥の詰め所に。でも今は眠っています」
マルタが何も言わずに前を向いた。それで十分だった。
「では参りましょう」
リーナが荷馬車の御者台に上がった。書記の服を着ている。胸の魔法使いの刺繍は——隠していない。隠す理由がないからだ。リミニで魔法使いが書記をしていることは珍しくない。
手綱を取った。
荷馬車が動き出した。
関所まで、石畳の音が続いた。
◇
衛兵が手を上げた。荷馬車が止まった。
「エアル王国使節団の随行員か。荷物の確認を」
「どうぞ」
リーナが書状を差し出した。衛兵が目を通す。別の衛兵が荷台に回って、積み荷を確かめた。布の梱包。木箱。陶器の瓶——ゴールデンフィールドだ。
「これは?」
「贈答品です」衛兵が頷く。
「こちらの方々は」
衛兵がカッシオを見た。
「荷役夫です」
カッシオは何も言わなかった。荷役夫は喋らない。ただ立っている。担いだ荷物の重さを肩で受けながら、遠くを見ていた。
衛兵が視線を外した。
「子供は」
「私の弟です」
リーナが答えた。ルカが荷台の端から衛兵を見た。子供の目だった。
衛兵が頷いた。
「通れ」
荷馬車が動き出した。
関門を抜けた。石畳の音がまた始まった。
カッシオが担いでいた荷物を、少しだけ持ち直した。
◇
リミニの街に入った。
運河が見えた。
水面が秋の光を受けて、銀色に光っている。その両岸に石造りの建物が連なり、アーチ型の橋が幾つも架かっていた。橋の上を人が行き交い、荷を積んだ小舟が水路を滑っていく。どこかで鐘が鳴っていた。どこかで誰かが怒鳴っていた。どこかで笑い声がした。
大きな街だった。
エアルの王都とは、密度が違った。路地の一本一本に商いの匂いがあった。看板、幟、積み上げられた荷物、立ち止まって交渉する男たち。どこでも金が動いている。
二百年分の富が、この街のあらゆる場所に染み込んでいた。
リーナは手綱を持ったまま、街を見ていた。
美しかった。
しかし同時に——冷たいものも感じた。ここでは全てのものに値段がついている。値段のつかないものは、存在しないかのように扱われる。その空気が、美しい街並みを満たしていた。
アリアドネたちとは、城門を入ってすぐに別れた。赤い髪が路地の角を曲がって見えなくなった。その後を五人の黒い影が音もなく続いた。
リーナは前を向いた。
約束の場所まで、まだ距離がある。
荷馬車が、リミニの石畳の上を進んでいった。




