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第88話 決戦前夜


 王宮の南翼。


 小さな部屋に、ランプが一つ灯っていた。テーブルに二つの椅子。窓の外は夜だ。遠くに王都の街の灯りが見える。


 セバスティアヌス枢機卿が、両手をテーブルの上で組んでいた。白い法衣。穏やかな目をした老人が、静かにナディールを見ている。


「ついに決行なさるのですね」


 ナディールが頷いた。


「ええ」


「血なまぐさいことになりそうですな」


 セバスティアヌスが、困ったような顔で言った。本心から困っている顔だった。


「できる限り——そうならないようにします」


「ええ」老枢機卿が頷いた。「しかし、どうなっても——その後のことは、我々が引き受けます」


 ナディールは少し間を置いた。


「国際法廷は、セルヴィアで」


「法王聖下のご意向です」セバスティアヌスが静かに言った。「神の御名を貸してしまった。神の手で——取り返す」


 炎が、揺れた。


「各国の代表を呼ぶことになります」ナディールが言った。「聖シュタインには——ハインリヒ皇太子に出てもらわなければならない」


「皇帝ではなく?」


「カール皇帝では——話になりません」


 セバスティアヌスが、かすかに笑った。


「殿下は聡明な方です。きっと分かってくださる」


「ええ」


 ナディールが真新しい藁の紙を手に取った。羽ペンにインクを含ませる。「今夜、密書を書きます」


 ペンが走り始めた。


 セバスティアヌスは黙って見ていた。急かさなかった。


 ナディールがペンを止めた。


「一つ、お聞きしてもよいですか」


「何でしょう」


「国際法廷へ誘う使者を——リミニにいつ送るかは」


 セバスティアヌスが、穏やかに遮った。


「こちらにお任せいただけますか」


 ナディールが顔を上げた。


「適切な時に」老枢機卿は続けた。「神の摂理は——人の計算より、少しだけ早いことがありますので」


 間があった。


 ナディールはその言葉の意味を、しばらく考えた。それから——静かに頷いた。それ以上は聞かなかった。この人が「任せてほしい」と言うからには、理由がある。リミニが二百年かけて網を張り巡らせたのであれば、セルヴィアはそれ以上の歴史で信仰の砦を築いてきたのだ。


「分かりました」


 ペンが、また走り始めた。


 セバスティアヌスは窓の外を見た。夜の王都が、灯りをちらちらと光らせていた。


「ルートヴィヒ殿」


「はい」


「あなたのお父上——フリードリヒ王は」穏やかな声だった。「最後まで、この国を信じておられた」


 ペンが、一瞬止まった。


「……はい」


「その信頼に——応えられる時が、来ましたね」


 ナディールは答えなかった。


 ペンが、また動いた。文字が、羊皮紙の上に刻まれていく。一字ずつ。丁寧に。


 ランプの炎が、静かに揺れていた。


 ◇


 大金庫攻略の確認が始まった。


 リーナがテーブルの上に、三つの蝋の塊を並べた。凝縮アルカーナム。大、中、小。ランプの光を受けて、かすかに輝いている。


「アルカーナムを使えば何が起こるか分かりません。使用は最小限にするべきです」


 皆が頷いた。一瞬だけ、誰かの脳裏にレアンドロの最期が過ぎった。


「小——これはマルタが使います。城壁の破壊に」


 マルタが小瓶を手に取った。軽い。しかしその中に何が詰まっているかは、この場の全員が知っていた。


「中と大は状況に合わせて判断します。できるだけ被害が出ないように。使わずに済めば、それに越したことはありません」


「ああ。その判断はリーナに任せる」


 アルヴィンが言った。


 扉が開いた。別室からナディールが戻ってきた。椅子を引いて座りながら、地図に目を落とす。


「入国の偽装は」


「交渉団の従者として入れる。書記係、護衛、荷物持ち」


 アルヴィンが答えた。それからルカを見た。


「子供」


「……慣れています」


 ルカが言った。笑うと少年に見える。しかし目の奥には、二十五年分の時間が静かに沈んでいた。


 ◇


 説明が終わった。


 地図が折り畳まれた。小瓶がしまわれた。ランプの炎だけが、揺れている。


「以上だ」


 アルヴィンが言った。「質問は」


 誰も口を開かなかった。


 聞くことは、もうなかった。あとは——行動するだけだ。


 エルネストが立ち上がった。大きな体が、ランプの光の中に影を作った。全員が、その動きを目で追った。


「一つだけ」


 静かな声だった。


「やらせてください」


 誰も聞き返さなかった。エルネストが何をしようとしているか——この場の全員が、分かっていた。


 ◇


 エルネストが部屋の中央に立った。


 いつもの猫背が、少しだけ伸びていた。大きな手が、静かに下ろされている。


「並んでいただけますか」


 誰も笑わなかった。


 全員が、静かに立ち上がった。リーナ、マルタ、カッシオ、ルカ。アリアドネと、五つの黒い仮面。アルヴィンと部屋に戻って来たナディールも一緒に立ち上がった。


 一列に並んだ。


 エルネストが、端から歩いていく。一人の前に立ち、目を合わせる。それから両手をかざした。


 守護魔法——ウィス・クストーディア。


 手のひらから、柔らかな光が溢れた。温かい光だ。相手の胸元に、静かに染み込んでいく。


 リーナの前に立った時、エルネストは少しだけ時間をかけた。


 リーナが小さく、息を呑んだ。


「……温かい」


「ええ」


 エルネストが頷いた。「本物ですから」


 マルタの前に立った。マルタは黙っていた。強い炎の魔法使いの目だ。戦場で何かを失って、そこから戻ってきた強さがあった。


 エルネストの手から光が溢れた。マルタの胸元が、一瞬だけ明るく輝いた。


 カッシオの番になった。


「あの」


 カッシオが言った。生真面目な顔のまま。


「痛くないですよね」


 間があった。


「痛くはありません」


 エルネストが答えた。困った顔で。しかし手は止まらなかった。


 カッシオが頷いた。「そうですか」それだけ言って、前を向いた。


 ルカの前に立つと、エルネストは膝を折った。ルカが苦笑した。


「気を使わなくていいですよ」


「すみません。つい」


 光が、ルカの小さな胸元に染み込んだ。二十五年分の時間を持つ目が、その光をじっと見ていた。


 アリアドネの前に立った。二人は少しの間、目を合わせた。アルカディアの議長と、守護魔法使い。この国に来た時から、何度か顔を合わせてきた二人だ。


 エルネストが手をかざした。アリアドネが、かすかに目を閉じた。光が溢れた。赤いコートの胸元に、温かい光が沈んでいく。


 五つの黒い仮面の前を、エルネストは一人ずつ歩いた。顔が見えなくても、関係なかった。魔法は——相手の顔を選ばない。手のひらが光る。光が染み込む。それだけだ。


 アルヴィンの前に立った。


 エルネストが、少しだけ躊躇った。


「……俺にも、かけてくれるのか」


 アルヴィンが静かに言った。


「当然です」


 エルネストが答えた。迷いがなかった。


「あなたがいなければ——ここには誰もいなかった」


 アルヴィンは何も答えなかった。


 光が、藍色の上着の胸元に染み込んだ。


 最後にナディールの前に立った。


 ナディールは、背筋を伸ばしていた。この一年、奔走してきた男が再び決意を噛みしめていた。


 エルネストが、両手をかざした。光が溢れた。


 ナディールの目が、細められる。温かかった。父の国の、温かさだった。


 全員への守護魔法が終わった。


 エルネストは部屋の中央に戻り、全員を見渡した。


「この魔法は」


 静かな声だった。


「お互いを守りたいという気持ちがある限り——破れません」


 誰も口を開かなかった。


「ただし」


 エルネストが続けた。大きな手が、静かに下ろされる。


「思いやりが本物でなければ——魔法は成立しません」


 ランプの炎が揺れた。


「今夜かけた魔法が、皆さんの胸で輝いているということは」


 一呼吸置いた。


「本物だということです」


 部屋が、しばらく静まり返った。


「エルネスト」


 アルヴィンが口を開いた。


「はい」


「お前は——残ってくれ」


 エルネストが頷いた。分かっていた。銀行がある。取り付け騒ぎがあったばかりだ。ヴィトゥスだけでは、守護魔法の強度が足りない。それだけではない。誰かが、ここで魔法を守り続けなければならない。


「銀行を——頼む」


「任せてください」


 エルネストが答えた。照れた顔だった。しかし目は揺れていない。


 大きな手が、自分の胸元に当てられた。守護魔法は、かけた本人には効かない。それでも——その手は温かかった。


 皆が胸に持つ光が、自分の手のひらから生まれたものだということを、エルネストは知っていた。


 それで——十分だった。


 ◇


 部屋を出ると、廊下に秋の夜気が流れていた。


 全員が、それぞれの部屋へ散っていく。足音が遠くなっていく。


 アルヴィンが最後に廊下に出た。


 振り返ると——エルネストがまだ扉の前に立っていた。大きな体が、ランプの光の中に影を作っている。


 目が合った。


 エルネストが、小さく頷いた。アルヴィンも、頷いた。


 それだけだった。


 廊下の突き当たりで、ナディールが待っていた。二人は並んで歩き始めた。足音が石畳に響く。


 遠くに、王都の灯りが見えた。この小さな国の、この夜の灯りが。


「七割か」


 ナディールが静かに言った。


「ああ」


 アルヴィンが答えた。少し間があった。


「悪くない賭けだ」


 ナディールの声に、珍しく、笑みが混じっていた。


 アルヴィンは答えなかった。


 ただ——口の端が、少しだけ上がった。


 二人の足音が、夜の廊下に響いていった。

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