第87話 本物の閣議室
自由都市リミニ。
十人委員会の議場に、怒号が満ちていた。
蹄鉄形のテーブルを囲む委員たちが、口々に声を上げている。フィリッポは立ち上がり、バルトロメオは指でテーブルを叩き続けていた。その速さが、いつもとまるで違う。計算ではなく、怒りだ。
エアルから届いた書状が、この混乱を引き起こしていた。
「こんなことが許されるのか。断固たる手を打つべきだ」
「当然だ。こちらは正当な出資をした。それを債務不履行とは何事か」
「先王の借金の返済に充てた、だと——」
「こうなったら戦争も止む無しだ。あんな小国は踏みつぶしてしまいましょう」
「そうもいかない。今やあの国の傭兵部隊は我が国の常備軍に匹敵する」
「そして魔法部隊だ。戦になったらどれだけの犠牲が出るか」
アゴスティーノだけが黙っていた。腕を組み、テーブルの上の書状を見ていた。孫娘を失ったあの日から変わった目が、文字の上を静かに動いている。
テーブルの奥で、ロレンツォは椅子に深く座っていた。
片眼鏡を外し、布で拭いている。
ゆっくりと。いつもより——ずっと長く。
怒号は聞こえていた。しかし、彼らの言葉は耳に入っていなかった。
頭の中で、一枚の絵が組み上がっていく。
バルトロメオ。フィリッポ。アゴスティーノ。他の委員たち。それぞれが「自分だけの特別な案件」と信じて、架空の金鉱脈開発に出資していた。全員が。自分以外の——全員が。
十人委員会はこの国の最高機関だ。商業で世界に君臨する国のトップが一同に騙されるなど、あってはならない。前代未聞だった。
片眼鏡を拭く手が、一瞬止まった。
六十年。この仕事をしてきた。騙す側も騙される側も、数え切れないほど見てきた。しかし——これほどの規模で、これほど静かに、これほど完璧に仕掛けられたものは。
「議長」
バルトロメオが声を向けた。
「どうお考えですか。このデフォルト宣言は——」
「分かっている」
ロレンツォは短く遮った。片眼鏡をかけ直す。
「騒いでも金は戻らない。座りなさい」
バルトロメオが口を閉じた。フィリッポが腰を下ろした。怒号が、少しずつ収まっていく。
ロレンツォはエアルから送られた真っ白な紙を手に取った。もう三度は読んだ文書だ。
先王フリードリヒの借入金、元金四百五十万枚を全額返済する。金鉱脈開発の失敗によるデフォルト宣言。そして最後に、一文。
——交渉のテーブルを用意する。
ロレンツォは書状を置いた。
窓の外に、リミニの運河が見える。夕陽が水面を橙色に染めていた。
あの男の顔が浮かんだ。藍色の上着。揺れない目。「収奪は一度だけです」と言った時の、静かな声。
あの男を分類できないことに、ずっといら立ってきた。今も——できてはいない。
しかし。
追い詰められた末の、和解の申し入れ。
そう読める。
そう、読める——はずだ。
「面白い」
呟いた。「そのテーブルについてみようじゃないか」
もう一度、窓の外を見た。
運河が光っている。美しい街だった。二百年かけて積み上げてきた富が、あらゆる場所に染み込んでいる。
「溺れる鼠に——何ができるか、見てみよう」
◇
アルカディア公国。
魔法評議会の議場は、白い建物の最上階にあった。楕円形のテーブルを囲む評議員たちが、静まり返っていた。
会議の冒頭で、アリアドネ・テミスが議長の座を辞すると宣言した。
当人は今、テーブルの端に立っていた。赤いコート。真っ直ぐな背筋。しかし今日は——いつもの慎重な表情はなかった。晴れ晴れとした顔をしている。何かを下ろした人間の、静けさと、そして決意がそこにあった。
長い沈黙の後、年配の評議員が口を開いた。
「……本気ですか」
「はい」
「理由は」
アリアドネは静かに答えた。
「正義だけでは国は回らない——あの日、誰かが言いましたね。その通りだと思います」
間があった。
「でも私は、正義を貫きたい。それだけです」
テーブルを一周、見渡した。全員の顔を、一人ずつ。長い付き合いの顔もある。優秀な魔法使いたちだ。怠惰でも臆病でもない。それぞれが、色々なものを抱えて最善を尽くしている。
「魔法使いたちを守りたいのです」
少し間を置いてから、口の端が上がった。
「私の我がままを、許してください」
評議員たちはその言葉を噛みしめていた。
「何をしようとしているのか分かりませんが——それは我が国を窮地に追い込むことになりませんか」
「その為の辞任です」アリアドネが静かに言った。「その時はただの反逆者が引き起こしたことと、切り捨てれば良いのです」
その決意は、全員に伝わった。
「後はお任せください。必ずこの国を守り通します」
黒いコートの全員が、静かに立ち上がった。そして深々と、頭を下げる。
「お世話になりました」
アリアドネも一礼した。赤いコートが、静かに翻った。
◇
議場を出ると、廊下に五つの人影が待っていた。
黒いコート。黒い仮面。顔が見えない。しかし彼らの名前は、この場では意味がなかった。
「お供いたします」
短く言った。
「ありがとう」
アリアドネが歩き出すと、五人が音もなく続いた。
階段を降りる。石造りの回廊を抜ける。中庭に出ると、秋の光が降り注いでいた。馬が繋がれている。荷物は少ない。赤いコート一枚と、小さな鞄だけだ。
仮面の一人が、無言で手綱を解いた。
「長旅になります」
アリアドネが言った。返事はなかった。もう言葉は不要だということを、五人は知っていた。
馬に乗る前に、アリアドネは一度だけ振り返った。
白い建物が、秋の空を背にして立っていた。最上階の議場の窓に、黒いコートの影がいくつか見えた。見送っている。
アリアドネは前を向いた。
馬が走り出した。石畳の音が、中庭に響いた。五つの黒い影も乗馬すると、赤いコートの後ろに続いた。白い議場が、遠くなっていく。
議長を象徴する赤いコートの色だけは——変えなかった。
◇
エアル王宮。夜。
閣議室に、人が集まっていた。
通常、この部屋が夜に使われることはない。しかし今夜は、壁に沿って数本のランプが灯っていた。閣議のテーブルを囲んでいる。シャドーキャビネットの面々。そして——赤いコートと、五つの黒い仮面。
ナディールとフェルディナント、ブラント以外は、初めて入る部屋だった。
「影の内閣が本物の閣議室で作戦会議か」
アルヴィンが言った。
「最後の戦いにふさわしいだろう」
ナディールが答えた。
リーナが部屋の中を見回している。エルネストが大きな手を組んで全員を静かに見ていた。カッシオが黒仮面の一人の隣に座り、何度か横目で見た。仮面の奥が見えない。何も分からない。やがて諦めて、前を向いた。
ルカが空気を吸い込み、この部屋の歴史を噛みしめるような顔をしていた。マルタが少し緊張した様子で、アリアドネを見ていた。
「あなたの勇気と行動に、敬意を表します」
ナディールがアリアドネに頭を下げた。
「自分で決めたことです」
アリアドネが静かに答えた。「堅苦しいことに飽きただけかもしれません」
ナディールが頷いた。そして全員を見渡してから、立ち上がった。
「セバスティアヌス枢機卿が来ています。私は隣室で話を詰めます」
そう言い残して、部屋を後にした。
◇
アルヴィンが立った。
「よく集まってくれた。単刀直入に言う」
いつもの軽い口調ではなかった。阿久津の声だ。
「今度の作戦は——命がけだ」
部屋が静まり返った。
「リミニに入れば、二度と出られない可能性がある。嫌なら断ってくれ。誰も非難はしない」
誰も動かなかった。
アルヴィンは全員の顔を見た。一人ずつ。リーナ、マルタ、カッシオ、ルカ、エルネスト、アリアドネ、黒仮面の五人。
沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、カッシオだった。
「……えらいところに就職してしまった」
誰かが、小さく笑った。
「分かりました」
カッシオが続けた。生真面目な顔のまま。「やりますよ」
「私も」
リーナが言った。「よりによって命がけですか」と笑ってから——真っ直ぐにアルヴィンを見た。「でも——行きます」
マルタが黙って立ち上がった。言葉より先に体が動く。それが答えだった。
「止まった時間を、動かしましょう」
ルカが淡々と言った。「私が動かします」
エルネストが最後に立った。大きな手を、静かに握りしめた。
「……人助けですから」
照れた顔だった。しかし目は、揺れていなかった。
アリアドネは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。五つの黒い仮面も、動かなかった。
アルヴィンが息を吐いた。
「ありがとう。では——作戦を説明する」
◇
テーブルの上に、リミニの地図が広げられた。
「三つのラインで動く」
アルヴィンが指を置いた。
「一つ目。俺とナディールが交渉団として正面から入る。ロレンツォを会議室に釘付けにする」
「二つ目。リーナたちが大金庫を攻略する。暗殺帳を手に入れる」
指が地図の上を移動した。
「三つ目。アリアドネたちが预り所を解放する。子供たちを親元に返す」
ルカが手を上げた。
「順番はあるんですか」
「あります」
リーナが答えた。地図の上で、二つの地点を指でなぞった。
「预り所が先です。守護魔法使いたちの子供が人質になっているから——あの守護魔法は強い。子供が解放されない限り、大金庫の守護魔法は崩れません」
アリアドネが続けた。
「子供が囚われたままなら——また魔法使いが利用される。預り所の開放が、リミニの防御を崩します」
二人の言葉が、重なった。
「预り所の警備を無力化するのに——アルカーナムをどのくらい持っていかれますか」
カッシオが地図を見ながら言った。
アリアドネが静かに首を横に振った。
「必要ありません」
間があった。
「ただの警備兵相手に」
黒仮面の五人は何も言わなかった。アルカディア公国の議長とそれを支える最精鋭。敵に回せばこれほど恐ろしい者たちはいない。
カッシオがもう一度横目で仮面を見た。それから前を向いた。何かを飲み込んだ顔だった。
「では俺たちは大金庫の方ですね」
「ああ」アルヴィンが頷いた。「腹痛魔法の出番だ」
「……毎回それです」
誰かがまた笑った。今度は少し長く。




